純情シャングリラ | ナノ




「38.7度かー…早退した方がいいわね」


真っ白い部屋に響いたピピピピ、という電子音を聞いて、保健の先生は私の体温を計り終えた体温計の表示を読み上げた。

4限の辺りから襲ってきた目眩。
最初は空腹過ぎて気持ちが悪くなっているんじゃないかと思っていたのだけど、お弁当を目の前にしても全く食欲が沸かず、寒気さえしてきたのだ。

顔色悪いよ、と宮ちゃんに心配され、とりあえず熱があるかだけ確かめようとやってきた保健室、結果はビンゴだった。
体育の後いつもより頬が熱かったのも、この熱のせいに違いない。


「親御さんには私から連絡しておこうか?」

「…あー、いえ、大丈夫です。自分で迎えに来てもらいます」


壁にもたれ掛かっていた重い体を全力で起こし、背筋を正す。
先生はバインダーに挟まった紙にさらさらと日付や私の名前なんかを記入し、早退届を切り取った。
手渡されたそれを持って、どうにか立ち上がる。
ぐらりと視界が揺れて倒れそうになったけど、足を踏ん張って持ちこたえた。



戻ったらまだ昼休み中で、教室には結構人数が残っていた。
体育はギリギリできたけど、昨日の雨のせいでグラウンドは全体的にぐちゃぐちゃなのだ。
どうだった?と聞いてきた宮ちゃんに「熱あったから早退」とだけ伝えて、教科書の入った鞄を担いだ。


気を付けてね、お大事にねー。
テンプレ化した送り言葉を背中に受けながら、私は教室を出る。
どこのクラスも校庭には出ていないので、少し開いた扉の隙間からは楽しそうな笑い声が漏れていた。

校舎から出たところで鞄の中から携帯を出す。
体調はびっくりする程順調に悪化しているようで、正直立っているのさえ辛かった。
顔と頭は熱いのに時折走る悪寒は完全に風邪のそれで、昨日の夜にどしゃ降りの雨の中を爆走したのが原因だな、と心の中でごちる。
すぐにお風呂に入ったとはいえ、あがってから髪も乾かさずにアイスを食べていれば、そりゃ風邪だって引くだろう。

理由が呆れるくらい自業自得過ぎて、私は溜め息交じりに携帯のメールのマークをタップした。
新規作成、電話帳からお母さんを選び宛先に設定。
本文に文字を打ち込んで、その途中で私の指が止まる。


『仕事中ごめん。学校で38.7度の熱が出ちゃったから、早退するね。迎えに来てもらえたりする?』


半ば朦朧とした意識のまま打った文章を読見直してから、私はその文字を消した。
結局お母さんが帰ってきたのは日付が変わってからだったし、昨日の今日でまだ緊急の患者さんとかがいるかもしれないんだから、甘えちゃいけない。


『仕事中ごめん。なんかちょっと熱があったから、一応早退するね。そんなに酷くないから心配しないで。仕事頑張ってね〜』


少し考えてから打ち直した文章を読み返してから、私は右上の送信ボタンを押す。
送信完了の文字が出たのを確認してから携帯を鞄にしまい、代わりに自転車の鍵を出した。
流石に漕ぐのは危険過ぎるからやめておくけど、押して歩く程度なら別に許されるでしょ。
小さめのマスコットがついた鍵を右手で持ったまま、私は駐輪場に向かった。














曖昧シャングリラ














学校から家まで、どうやって帰ってきたかは覚えてない。

熱に浮かされた熱くて重い頭と、だるく上手く動かない体を気力だけで動かして、一人で帰り道を歩いた。


ベッドにぶっ倒れて瞼を閉ざせば、限界に近かった意識はあっという間に微睡みへと落ちていった。




夢を見た。

ベランダに私と夕がいて、他愛もない話をする夢。
だけど、私の口が動いて何かを呟いた瞬間、夕の表情が段々と曇っていくのがわかった。
そして思い出す。

これはただの夢じゃない、あの日の出来事だ。



今から約1年前、幼馴染みに戻ったあの日の出来事だ。



アルバムのページを遡っていくみたいに、私と夕の思い出が鮮明に浮かび上がってくる。
これが走馬灯だったらどうしようか。
そんなことを考えるくらいには、私の頭は靄がかかったようにうすぼんやりとしていた。



夕と初めて出会ったのは、うんと小さい頃だった。
詳しい歳は覚えてないけど、幼稚園に一緒に行っていた事は記憶にあるから、少なくとも12年以上の付き合いだ。
お母さんと夕ん家のおばさんは高校からの大親友で、お互いが同じ頃に結婚して家を買おうとなった時に、わざわざ隣に買ったくらい。

物心ついた時には傍にいつも夕がいて、私はそれが誇らしかった。
小さい手に引かれて遊んで回って、可愛い弟ができたみたいで本当に嬉しかった。
昔の夕はそれはもう可愛くて、我ながら溺愛してたなあ、としみじみ思う。

夕が小2、私が小3の時に彼に告白された。
だけどそれは所謂「私おとうさんと結婚する!」みたいなもので、一番近い所にいた異性が私だったというだけで、私も深く相手にはせず「可愛い奴め」と笑うだけだった。

中学は近所の千鳥山で、元々運動が好きだった私は女子バスケ部に、夕は男子バレー部に入部。
多分思春期なるものが私達にも訪れていたと思うのだけど、特別意識したりということもなく、それまで通りの日常が過ぎていった。

関係が変わり始めたのは、私が高校に上がってからだっただろうか。
近いのと制服が可愛いからという理由で受験した烏野高校に通い始めてからは、あまり夕と顔を合わせなくなった。
朝出る時間も違えば帰ってくる時間も違う。
前までほぼ毎日見ていた顔が不意に消え、1、2週間会わないこともざらにあった。

夕の中学の卒業式の日、私はベランダから夕におめでとうと言った。
本当は中学まで行って卒業式を見たかったのだけど、人数が多すぎて父母だけとなったのだ。

いつもより気崩してないちゃんとした格好の夕は卒業証書の筒を持ったまま、向かいのベランダにいる私に言った。



『葵、好きだ。付き合ってくれ』



聞き間違いかと思った。
空耳かと思って幻聴かと思って勘違いかと思って夕を見ると、若干俯いた顔は耳まで真っ赤なのがわかった。
その時、私の頭が何を考えていたかなんて覚えていない。
だけど気が付けば、私は唇を動かして返事をしていた。



『…………………………はい』



でも結局今、私と夕は幼馴染みの距離にいる。
あの夏の日に私が別れを切り出してから、私と夕は温かくてぬるい幼馴染みを続けている。


ねえ夕、私が別れようって言ったのは、別に夕のことを嫌いになったとかじゃないからね。

私がああやって言ったのは――――









―――――扉の開く音がした。
誰かが部屋に入ってくる気配、でも今は目を開けるどころか身じろぐ事も辛い。

曖昧な意識のまま横たわっていると、おでこにひんやりとしたものが当たった。
どこかゴツゴツしているのに柔らかくて、冷たいのに気持ちがいい。


「………うお、熱!」

「ん………」


熱を確かめるように当てられていた手が段々と移動していき、首筋をツ…となでられる。
その手は次第に下がり、ついにシャツのボタンに指がかかった。

第2ボタンが、夕の手によってぷつりと外された。


12/28

[ prevnext ]

[ back ]

×