「葵ー上がったー」
お気に入りの部屋着に着替えてアイスバーをくわえた私は、家のソファで夕の声を聞いた。
二人ともびしょ濡れだったので、とりあえずお風呂に入ったのだ。
薄いオレンジとレモン色のボーダーの部屋着はタオル生地で、着心地もいい。
ショートパンツ丈だから涼しいし、私にとっては夏の定番の格好だ。
「あっ、ガツンとみかん食ってる」
「残念、ラス1〜」
予備のジャージ(流石に私の服を貸すわけにはいかなかった)を着た夕がソファの後ろから顔をにゅっと出した。
左耳の後ろにほくほくとした熱気を感じながら、私はアイスバーを口に運ぶ。
「あ、夕、おばさん達連絡ついたよ」
さっきまで見てた携帯を出して、メールの画面を開いた。
夕がお風呂に入っている間に今の状況を伝えておいたのだ。
後ろの夕に見せると、彼は大きな溜め息をつく。
「……………はあ」
「しょうがないんじゃない?この雨だもん」
『電車止まってて帰れませーん。葵ちゃん悪いけど、鍵を忘れたアホ息子をよろしくね』
窓の外では依然として横殴りの雨が降っていて、ひっきりなしに我が家の窓ガラスを叩いていた。
お尻に振動を感じて隣を見れば、そこには首からタオルをかけた夕。
下は膝までの半ジャージ、上のTシャツには『短絡的』と無駄に達筆なプリントが施されている。
……いつも思うけど、このTシャツシリーズはどこから仕入れてきているんだろうか。
「葵、お前のおばさん帰ってくんの何時だ?」
「えーと……一応日付が変わる前…には…?」
いや、この雨で転んで怪我した人がいたりしたら、帰宅はさらに遅くなる。
お父さんは今頃カナダ辺りじゃないだろうか。
シンガポールから帰ってきたと思えばこれだから、ここ2ヶ月ほとんど顔を会わせていなかった。
「まあ多分そのうち帰ってくるよ」
「そうだな!」
手元を見るとアイスは溶けかかっていて、慌ててかじりつく。
不意に夕の肩が当たって、その意外な固さに驚いた。
ちらりと覗く鎖骨はくっくりと浮き出ていて、節くれだった指はふとした瞬間夕が『男』であることを私に認識させる。
世の中には鎖骨フェチなる性癖があるらしいけど、わからなくもないかも知れない。
筋肉シャングリラ
「? どこ見てるんだ?」
新たな趣味に目覚めるか目覚めないかの瀬戸際、あまりに凝視し過ぎていたのか夕が不思議そうに自分の体に目をやる。
「いや、夕の鎖骨くっきりしてるなって」
「鎖骨?」
「うん。てか全体的に筋肉ついてる」
「そうかー?」
まあ筋トレとかしてるからな、と自慢気に言って、夕はTシャツを軽く捲った。
………………なんと。
夕の腹筋はシックスパックに割れている。
「え、すごい!バキバキじゃんムキムキじゃん!!」
私より小柄なのに、私より確実に筋肉はありそうだ。
触ってみてもいい、と聞けば、何も楽しくねえぞと笑われる。
肯定と取って恐る恐る手を伸ばして触ると、固いような柔らかいようななんとも言えない弾力が私の指を押し返した。
「何これおもしろい!」
「お、おう。そんなおもしろいもんなのか」
「すごいよ、だって私は全然ないもん」
薄オレンジの裾を捲れば、そこには見慣れた自分のお腹。
割れ目なんてこれっぽちもない、しかも若干肉のついた腹だった。
「一応運動は得意だからさ、私も人よりは腹筋ある方だと思ってたんだけどなー」
ふにふにとおへその周りを摘まみながら、夕のお腹と自らのそれを見比べる。
「……………もうちょっと」
でも女子で割れてる人って格好いいよなあ、なんて結構真面目に考えていたら、夕がぼそりと呟いた。
うまく聞き取れなかったので、顔を腹から夕に向ける。
「もうちょっと、肉ついてた方がいいんじゃねえかな」
葵は細過ぎなんだよ。
白い歯を見せて、夕がニカッと笑った。
だけど、その笑顔はどことなくいつもと違う。困ったような、諦めたような、そんな感情が込められていた気がした。
「……な、何言ってんの!」
なんだか急に変な空気になって、私はわざと明るい声を出した。
夕の肩を強めに叩く。すると、持っていたアイスが溶けて、その破片が夕の上に落ちた。
「わっ、ごめん」
急いでティッシュを2、3枚取り、どろどろになったガツンとみかんの一部を掴む。
ティッシュ越しの指先に伝わってくるひんやり感。
バーにギリギリ残っているアイスもまとめて口に放り込み、落としてしまった分をティッシュで掴んだ。
拭いていた夕のお腹から目線をはずし、顔を上げた、その時。
視線が、至近距離でぶつかり合う。
丸めたティッシュを持ったまま、私は固まった。
夕が瞬きもせずに見つめてくるものだから、私も瞬きができない。
異様な空気を感じて何か言おうとするのに、口が動かない。
唐突に時間と空気の密度が高くなったみたいで、夕の瞳の奥で妖しく揺れる火から目をそらせなくなった。
ゆっくり、ゆっくり。
少しずつ夕が、近付いてくる。
本能でわかった。
夕の目に灯るのは、紛れもない欲情だ。
夕のまつ毛が目の前に来た。今前にバランスを崩せばあっさり唇が重なりそうな距離だった。
心臓が、普段の3倍くらいのペースで鼓動を刻んでいる。
なんだ、なんだなんなんだこの気持ちは。
頭がようやく追い付いてきた所で、私の意識が今に戻った。
キス、え、キスをするの?
夕と、私が?キス?を?
頭の中はこんがらがっているのかすっきりしているのか。焦りと緊張がない交ぜになっていて、整理がつかない。
鼻が触れ合う距離にきた夕を見て、私は心の中で覚悟を決める。
―――あ、キスされるなこれは。
せめて目だけは瞑ろうと直前に瞼を思いきり閉めた。
吐息を間近に感じ、瞑った瞼に更に力を込め唇にもたらされるであろう柔らかさを待つ。
そしてその瞬間、窓の向こうを激しい稲光が走った。
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