傷のあと
白い手の甲に傷が咲いている。いたましさよりも美しさを強く感じるのは、アッシュが心底からイミルイを慕っているからだ。相手を構成する全てが美しい。
アンヴェルの技術をもってすれば、ものの数分で修復できてしまうだろう些細な裂傷。そうと分かっていながら、アッシュは同じソファを分け合って座るイミルイの手を離さない。傷を避けて柔らかく包みこむ、彼の掌をさすり続けた。
任務から戻ったイミルイが怪我をしている。
それを一番最初に見咎めたのはごく当たり前のように、彼へ並々ならぬ恋慕を抱くアッシュだった。驚き、遂には崩れ落ちそうになるほど取り乱した彼女を、イミルイは何時ものように淡々と――些少の茫然もあっただろうが――宥めていた。その内、徐々に本来の冷静さを取り戻してからも、アッシュは勢いで握り締めた彼の手を頑として離そうとしなかったのだ。
そのまま休憩所として使われている一室に到着して今に至る。落ち着いた当初は息を荒げてひたすらにイミルイの手を愛でていたアッシュも、どうやら様子が違ってきていた。本人は気づいているのだろうか。条件反射のように、気持ち悪いです、と報告し続けていたイミルイも何時しか自然と口をつぐむ格好になる。
イミルイが、痛く、辛く、苦しい思いをするのは絶対に嫌だ。どうして、どうしてこんなに気高く、優しくて、穏やかな人が傷つかなくてはならないのだろう。
しかし、彼がひとたび抱えたのなら、その傷は賞賛に値する神々しさを持った。けして触れてはならない。侵し難い聖域のように、肌へ刻まれた痛覚。その半ば相反した衝動に、アッシュはゆらりゆらりと溺れていく。
――イミルイさん。
――なんですか、リクニス。
――どうしてイミルイさんが、怪我をしなくてはならないんでしょう。
澄んだ問いかけに、迷いの無い返答があった。それは自分の大切な人たちを、ひいてはアンヴェルを守るためだと。
――それに、今回のこれは……僕の判断ミス、です。
人形は何ら気負う事ない潔さで、自らの非を認める。その正当性を、同じく人形であるアッシュも理解していた。しかし、機械的な思考の合間で疼き続ける感覚がある。
――イミルイさん。
――なんですか、リクニス。
――イミルイさん……。
――リクニス……言ってもらえないと、なにもわからないです……。
時計の針だけが規則正しく進み続ける。指摘されるまでもない、名前を呼ぶだけでは的確な意思疎通がはかれようもないと、彼女が誰より知っている。
それでも、入り乱れた想いはどうしても、整然とした文章にはならない。
――イミルイ、さん。
落涙の代わりに、名前を呼び続ける。
――なんですか、リクニス。
見えぬ雫を拭う代わりに、応え続ける。
いかないで。ずっと此処にいて。
言語化されない本心を見透かしたように。
イミルイはそっと、アッシュの頭を撫でた。