遊泳図書館


 図書館は静寂に身を任せてまどろんでいる。誰もが手に取る流行のラブストーリーから、誰にも貸し出された痕跡のない難解な学術書まで。全てを本棚へ平等に抱え込んだまま、今日も明日もこの場所は来るものを拒まないのだろう。
 硝子から透けて入ってくる日差しが、まるで海底で揺れる水の煌きに似ていた。ラウトはあえてその光がたゆたっている所を選んで進む。特に目当ての本がある訳でもなく館内を歩いていると、閲覧スペースにイミルイの姿を見つけた。
 少し離れていたが、小さく手を振ると視線を上げた相手を目が合う。控えめな微笑と共に空いた隣席を指され、勧められるまま腰を下ろした。
「イミルイさん、良い本はあったのかい?」
 館内ではお静かに――その張り紙を横目に、ラウトはそっと話しかける。すると返答に代わる軽い頷きと、掲げられた本の表紙が目に入った。
 タイトルは、猫と尻尾。なるほど、猫好きなこの人らしい選択である。そのまま、熱の入った調子で――勿論あくまでも小声ではあるのだが――覚えたての知識を披露してもらった。
 曰く、猫が最大級の好意を示した時に見られる状態と、激怒した際に表れる尻尾のサインはよく似ていて、イミルイは今まで混同していた節があったと言う。
「……尻尾がぴんと立っていると怒っているんだ、と思ってたんです……。でもこの本だと、怒ってる時はもっと、毛並みが逆立つそうなんです。ただ、尻尾が……こう、なる時は驚いている様子で……それも、好きだっていう意味かもしれない、だそうです」
 身振り手振りを交えて語られるのに合わせて頷きながら、ラウトも頭の中に一匹の猫を思い描く。しかし、思えば最後に猫をじゃらしたのは何時だったろう。自分や知人が飼っていない限りは偶然に野良と遭遇するか、或いは彼らが飼われている場所に足を運ぶしか接触する機会はない。
 せっかく詳細な教授を受けても、経験が浅いばかりに実感を伴って理解できないのが少し悲しい。僅かに肩を落としていると、イミルイはきょとんと首を傾げた。
「どうかしましたか、ラウト」
「ううん……君の話は凄く興味深いんだけれど、僕自身があんまり、その、猫と触れ合った事がないんだ。
 勿論、今までの生涯で一度も彼らと会った事がない、なんてないよ。でも如何せん、あんまり外に出ないものだから……」
「ラウトは、箱入り王様……なんですね」
「そんな大層なものじゃあなくて、単に出不精なんだ。本を読めばなんだって分かるからね。それが真実であるかどうか、この目で確かめないと夜も眠れないっていう性格でもないから、読書だけで知識欲は大概は満足する。でも……」
 イミルイが好きだと言う猫。彼らが尻尾を使って雄弁に語る様や、怒ったり、なだめられたりする様を実際に見ていたい――と思う。読者としての体験は一方的な傍観でしかない。展開する物語を余さず把握できるが、本の中で語られるのは常に、他の誰かの話である。つまり、読み手は永遠に当事者にはなりえないのだ。
 しかし、現実は違う。イミルイに並んで猫に触れる事ができるし、その場で感想を伝え合う事だってできるだろう。そんな想像にひとしきり胸を躍らせてから、ふと初歩的な問題に行き当たる。だからつまり、都合よく猫と一時を過ごせる場所があるのかという避けようのない難題だった。
「……ありますよ、気軽に猫と会える場所」
「えっ」
「猫カフェ、です……ラウト」
 猫カフェ。その現代的な名詞をすぐさま脳内で照会し、合点する。思わず、成る程! と出しかけた歓声をなんとか押し留めた。すっかり失念していた解決策を、まるで魔法のように提示したイミルイに惜しみない賞賛を送る。
「そうか、今の世界にはそういう素晴らしい場所があったんだね。すっかり忘れていたよ。イミルイさんは行った事はあるのかい?」
「はい……ただ、ワンドリンク注文しなければいけないので……僕ひとりでは行けないのですが」
「そうか、じゃあ……今度もし良かったら、あの……連れて行って貰えないかな? それで、さっきの尻尾の仮説を、この目で確かめてみよう。きっと有意義な一時になると思うんだ」
 決まった人物としか接点を持とうとしない性格が災いしてか、それとも単純に口下手なのか。楽しみである事がどれだけ伝わったのか不安だが、幸いにもイミルイは小さく笑みながら快諾してくれた。
「僕の分のドリンクも、お願いして大丈夫ですか……?」
「ああ、いいとも。寧ろ、一杯分の値段で二杯も貰えてしまうなんて、此方が申し訳ないくらいだしね」
 ぱたん。本が閉じる音と共に、結ばれた約束が穏やかな時の中で淡い輝きを放つ。
 きっとその日は晴れるだろう。館内を浸す陽光の温もりを指先でなぞりながらどちらからともなく、くすりと笑いあった。







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