影絵師と異国の夕暮


 誰もが家路を急ぐ夕暮れ通り。帽子の中で音を立てる今日の稼ぎを抱えて、バアドは異国の空を仰いだ。たなびく雲の腹は真っ赤に燃えて眩しい。長く尾を引く光は、暮れ行く日を惜しんで太陽が手を振っているかのようだ。
 各地を渡り歩きながら芸を見せて生計を立てる者の宿命か。時折、自らが本当に帰るべき家の存在が恋しくなる。それは夕方がもたらす一過性の感傷に過ぎないのだろうが、抗い難い魔力を秘めていた。
 道は続く。旅人がそこを終わりと定めるまで、旅人自身が旅を諦めてしまうまで。砂埃を被った黒いシルクハットを小脇に抱えながら思いを巡らせていると、バアドの無防備な背後に隆起する影がある。はっと気づいた時には既に遅い。突如として現れたのは真っ黒い熊だった。両肩をがっしと掴む毛むくじゃらの腕はまるで丸太のよう、同時に頭頂部へ落ちてきたのはきっと顎なのだろう。だらりと垂れてくる獣臭い唾液に耐えかねて、纏わりつくリアルテディベアを引き剥がしながら、バアドはぐるりと通りを見回した。
「おい、お前の仕業だろうティニエラ! さっさとこの食欲本能の権化を消しやがれ!」
「えー、つまんなーい。せっかく作ったのにな」
 ひょいと建物の軒先から出てきたティニエラは、拗ねたような声音とは裏腹に、満面の笑みを浮かべて歩み寄る。術者がパンと一度両手を叩けば、まるで水風船が弾けるような呆気なさで大熊は姿を消した。体に圧し掛かるプレッシャーがようやく消えると、無意識の内に長い長い息が漏れる。
「バアド、溜息をつくと幸せが逃げるよ?」
「とっくに逃げてんだろ。なんだろうな、この疲労感……溜息もつきたくなるっていう話じゃないか」
「もう一回、かわいい熊さんと戯れれば元気になるんじゃない?」
「あの獣性の塊が可愛いだなんざ、おれは認めないからな。ったく、ティニエラも今日はもう店じまいだろ? 何が楽しくて同業者に芸を披露してんだよ。おれは見物料なんざ払わないぞ」
「むー、バアドは意地悪ばっかりだね。せっかく心配してあげたのに」
「そいつはどうも。そんな余裕があるって事は、今日はたんまり稼げたのか?」
「たんまりってほどじゃないけど、バアドよりはマシじゃないかなー。私はちゃんと大衆ウケがなんたるかを弁えてるから。えっへん」
「どうせおれはホラーが専門だよ。芸風なんざ人それぞれなんだから、ほっとけ。ただ、今日はもう少し天気が良けりゃな。そうすれば濃い影が出来て、ゾンビのグロい造型がもっと緻密にできただろうに」
「悪趣味ー」
「今更それ言うか?」
 夕焼け小焼け。とぼとぼと道を辿っていた足取りは、何時の間にか軽く。行き先は仮初の宿と分かりながら、胸が躍るのは何故だろう。二人の旅人は肩を並べて、帰路を楽しむ人の波に合流した。
 一人でいる事には慣れたつもりだった。同時にそれは、誰かと一緒にいる頼もしさと楽しさを忘れてしまう事でもあったのかもしれない。
 あと少しで沈みきる太陽を指して、よく熟れたオレンジみたいと笑うティニエラの笑顔を、ふと見つめる。他愛の無い話、訳も無く隣を歩く幸福。先程ついた溜息で逃げ去った幸福は案外にも、早く戻ってきたらしい。
「……有難うな、ティー」
「――え。なになに、よく聞こえなかった。もう一回言って、バアド。もう一回ありがとうって言ってー」
「おい待て聞こえてるじゃないか。二度も言うか、恥ずかしい」
 交わり、離れて、再び会おう。何時かの今日も笑いあうため。







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