去りし幾多の夜に


 吹き渡る風が、風見鶏を軽やかに踊らせるある日の穏やかな午後。
 ブリオニア邸の庭を臨む窓際で、ネイヴェは紅茶を片手に読書をしていた。細かな文字がびっしりと並ぶ魔術書と、あどけない少女は一見すると不釣合いである。しかし、恐らくこの世界において彼女ほど、魔法に精通した魔女はいない。本それ自体がうっすらと魔力を帯びたそれは、長い年月を経て色が変わっていた。気の遠くなる樹齢を重ねた大木より切り出したかと思える堅牢な表紙の中で、飴色のページが舞う。一定の調子で読み進めるネイヴェの集中を絶ったのは、不意に肩へ置かれたひやりとした掌だった。
 振り返らずともわかる。
 ほんのりと淡い林檎の香りを連れて姿をあらわしたのは、この真昼には似つかわしからぬ吸血鬼だった。
「――これはまた、随分貴重なグリモワールですね。私も過去に二回しか原本に触れていない。エトリヴ家の蔵書には、更に貴重なものもありそうだ」
「吸血鬼の使う魔法は、一種の超能力に近いもんだと思ってたけどねえ。ドクス、お前さんはこういう学術的な魔法にも精通しているのかい?」
「火のおこし方を知るのと、火の使い方を知るのはまた別の話である、というのが自論なものでしてね。私達が最初から会得している超能力は、いわば労せず火をおこすための力だ。それを使って外敵を追い払ったり、肉を焼いたりといった方法は、各々の機転や閃き、経験でも得られるが……先人が素晴らしい知恵を残しているならば、拝借した方が利口という事もあるのですよ」
「ああ、わかるとも。アタシが言いたいのは、その気になれば辺り一帯を一瞬で廃土にしちまえるだけの炎を事も無げにおこせるのに、それを更に恐ろしくしちまう方法を知りたいのかって事さ」
「……少なくとも、私は扱い方を知りたいと思って、貴方がたの世界に足を踏み入れました。稀有な魔力を持つひと、貴方もそうだったのではないですか? いつか、強大な魔力に対して自らの制御が追いつかなくなるのを恐れた。例えば己の体に飼った竜をいかに飼いならすか――手綱の正しい扱い方を知るまで、眠れぬ夜に体を震わせた事もあったでしょう?」
 今や後ろから肩を抱かれる形で、回された腕は柔らかく彼女の双肩を包む。
 さて、今となっては思い出せない童心だが。
 もしも。ドクスが言う。触れ合う手に僅か力が篭った。
「もしも、そんな夜が貴方にまた訪れたら。その眠りを私に守らせてくれますか?」
 あまりにも、あまりにも遠まわしな発言は、その印象に反して切実な響きが込められている。ネイヴェはこっくりと微笑んで、目を閉じた。
「そうさね。その時は寝ずの番をお願いするから、そんな顔はおよしよ。お前さんには似合わない顔じゃないか」
「おや、この位置から私の顔が分かるのですか? ネイヴェ嬢」
「なに言ってるんだい、見えなくたって分かるさ。大方、途方に暮れた迷子みたいな顔をしてるんだろう」
「さあ、どうでしょう。振り返って、ご自身の目で確かめて頂きたい」
 一拍の間の後、二人の視線は交わって。






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