道草


「ねえ、お出かけしようよ、サイトさん」
 理由、こんなにも天気がいいから。
 そんな簡潔な理由にも抗い難い誘惑を宿して人をたぶらかすのは、マヨアが吸血鬼であるからだろう。その気はなくとも、相手が心の奥底で強く願っている事をそ知らぬ顔でちらつかせてみせる。
 ネイヴェがもし事前にこのやり取りを見ていたら、あっさりと吸血鬼の野望を阻止していたに違いない。しかし幸か不幸か、かの魔女は今、ドクスと話に花を咲かせている真っ最中。マヨアはさながら、バルコニーから颯爽と令嬢をさらい出そうとする義賊がごとく、人差し指を唇の前に立ててウィンクをしてみせる。
「ちょっとだけなら大丈夫だよ、ほんのちょっとだけ。いざってなったらすぐ帰ってくればいいんだもの」
 ああ、そうか。そうだろうか。サイトの心はほんの少し、眩暈をともなって揺れる。自分ひとりだけで出かける訳ではないのだ。マスターを持たない人形を狙ってやってくる人形さらいも、おいそれとは近づいてこないだろう。
 咎める良心、ネイヴェとの約束、けれど手を差し出してきたマヨアの笑顔があんまりに、楽しそうで。
 結局、サイトはその掌に自らの手を恐る恐る乗せたのだ。

 近くの街に辿り着いた彼らは、目に付く店を片っ端から冷やかしていった。特に何を買うという目的はない。目を輝かせて手を引いてくるマヨアに、サイトが微笑を浮かべて付き合うという構図が暫く続いた。けれどマヨアが指し示すものは全て、サイトの身丈にあうような洋服であったり、色とりどりの花たちばかり。やがて、マヨアが彼自身のために店を選んでいるのではなく、伴うサイトの興味を惹きそうな所を目指しているのだと気づいて、人形の浮かべる笑みは一層柔らかに華やいだ。
 めぼしい場所は一通り巡った後、街路樹の木陰に据えられたベンチに並んで腰を下ろした。真上にあった太陽が傾き始める頃、二人は心地よい疲労感と共に空を仰いだ。
 偶然同じタイミングで、同じところを眺めていたから、のびのびと羽を広げて飛ぶ鳥が同じように視界へ入った。
 見えたものが同じであったとしても、抱く感慨はまったく違っている。マヨアは遠目に見えた鳥の名前を考えている。サイトは。
「――マヨアさん。少し」
「うん?」
「ほんの、少し。変な話をしても、いいかな」
 たどたどしく、迷うように。マヨアはぼうっと開いていた口を閉じ、ためらうサイトの方へ体を向けた。
「いいよ、どうぞ。サイトさんが変な話をするなんてレアだよねえ、是非とも聞きたいな」
「ううん、思ってみるとそんなに変じゃないかもしれないんだけど……ふと、考えてしまったんだ。
 ねえ、マヨアさん。ずっと鳥篭に居る鳥はいつの日か、飛び方を忘れてしまうんだろうか、って」
 黒緑の瞳はふと遠くを見て、細くなる。飛び去った鳥の影は跡形もない。けれど何とかして、この広い空から見つけようと懸命になるかのように。
 マヨアは体を折って、自らの太ももに肘を立てて頬杖をつく。今日の夕飯はなんだろうかなんて漠然と考える子供のような顔をして、暫くサイトの言葉を吟味していた。
 鳥は本当に、飛び方を忘れてしまうのだろうか。
 飛び方を失った鳥の余生に、鳥としての価値はあるのだろうか。
「……まあペンギンなんて、飛べない代わりに泳げちゃったりするけどねェ」
 ぽっと出た返答はそれだった。弾かれたように此方を見るサイトに、へらりと笑った。
「サイトさんは、ブリオニア邸にこのままずっと居るのが不安なの? このまま、ずっとさ」
「私は――わからない、な。あそこにはかげがえのない思い出があるし、なにより居場所がある。私だけじゃなくて、立ち寄る旅人さんたち皆の居場所が。嫌気が差したとか、そういうことじゃなくて。ただ」
 このままずっと、長い時間変わらずにいる事への畏れ。
 その間に人間は老いて死んでいく。老いないものは変わっていく。そうして自分は何時か壊れる。
 一人きりだと、答えの出ない夜に迷い込んでしまう。出口なんてもしかしたら、最初からないのかもしれない。
 語り始めてようやく気づいた。こうして言葉にできないからこそ、不安は影のようにいつも自分の足元にはりついて消えないのだと。
 マヨアはまた暫く口をつぐんだ。黙り続けて、不意にすっと手を伸ばす。気づけば膝の上で固く組まれていたサイトの指を解くように、マヨアは自らの手をそこに重ねた。
 返答はない。明確な解決策や、救済もなく、ただ手が触れ合っているだけだった。たったそれだけの仕草がこんなにも心強いのはきっと、誰もたった一人では、祈るように組んだ両手を包む三本目の手を持たないからだろう。
 えてしてそれは、一人ではないという雄弁な証だった。

「サイトさん、このままどこかへ行ってみる? 遠く、遠くにさ。僕が乗ってきたバイク、今から取ってきてあげる。二人で暫く帰らないでいてみようか」
 普段の冗談めいた軽薄さはなりを潜め、マヨアは真摯にそう提案する。一度だけサイトは手首を揺らしたが、やがて引き結んだ唇を綻ばして微笑んだ。
「ありがとう、マヨアさん。でももうそろそろ帰らなくちゃ。あんまり遅いとネイヴェさんが心配するからね」
 視線はやってきた道の先、ブリオニア邸がある方角を辿る。それを見守るマヨアは安堵したような、ほんの少し残念なような面持ちで、くしゃりと笑い返した。
「うん、そうだね。僕もそう思うよ」
 じゃあ、帰ろうか。
 理由、もうすぐ夕方だから。帰るきっかけもごくシンプルでたやすく飲み込めるもの。だから立ち上がる瞬間さえ同時だった。
 そのまま手を繋いで歩き出す二人の影が、並んで地面に伸びていく。さあ、家へ帰ろう。






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