La Magic du chocolat
「お帰りなさいませ!旦那さま!ごはんにします?それとも先にお風呂にします?」
このところ相当ハードな仕事が続いたせいか、俺はついに幻覚を見る程疲れが溜まっているらしい。
今日は時子と結婚してから、初めてのバレンタインデーだ。
毎年、バレンタインデーは決まって手作りのチョコレートをプレゼントしてくれる時子だが、近頃は逆チョコだとか言って、男からチョコレートを贈るのが流行っているらしい。
「ごとーさんっ!今年は新婚生活初のバレンタインデーですね!いつも色々してもらうばっかりじゃなくて、たまには時子さんにサプライズで逆チョコなんてどうですかぁ?」
晴れて時子と結婚して、本当に幸せな毎日ではあるが。
やはり帰宅時間が深夜になったり泊まり込みになることも当たり前な勤務。日頃から気のきいた言葉もあまりかけてやれない俺は、黒澤からの助言がきっかけというのが癪ではあるが、ここはひとつ流行の逆チョコなるものを実行してみようと先日これまた黒澤からの情報で知った、若い女性に大人気だというショップでチョコレート…いや、今どきはショコラというらしいが、可愛らしいラッピングのそれを準備していた。
帰宅して食事が終わり、恒例の手作りチョコを時子が少し頬を赤らめながら差し出してくれる頃に、実は俺からもあるんだと言って取り出したら驚いてくれるだろうか。『えっ!?何ですかこれ!?え、まさか、このラッピングって、あのショコラティエの!うれしいです!誠二さん大好き!』
とか言って、抱きついてくれたりするだろうかなどと想像してニヤけそうになる表情をなんとか引き締めて、きわめていつも通りに帰宅の挨拶を終えようとしていたのだが。
確かに今、俺の妻は『旦那さま』と言った。
いや、古風な言い方だが俺が時子の旦那さんであることは間違いない。確かに間違ってはいないのだが、今までそんな呼び方をされた事があっただろうか。
もしかしたら俺の事を小竹や小杉なんかに、『うちの旦那さまはね』なんて話してるのか。
それはそれで嬉しいというか、照れくさいというか、まあ、こそばゆい感じではあるのだが、普段は『誠二さん』と呼ばれていたので少し違和感を感じた程度である。
が。
問題は目の前にいる妻の姿である。
なんだろう、この衝撃は。
俺の妻はいつも、こんなに短くてフリフリフワフワしたワンピースを部屋着にしていただろうか。
大学も卒業し、少し歳が離れているとはいえ何年も前に成人しているはずの妻が、ひと昔前の女子高校生が履くような白い靴下を履くだろうか。
そして、何より我が目を疑ったのは、彼女に、時子の頭に恐らく猫であろうと思われる、白い耳が生えて、もとい、付いていた事だ。
「時子。その…頭に猫の耳らしきものが見えるんだが、俺の目の錯覚だろうか?」
「やだ、錯覚って誠二さんたら!これは猫耳カチューシャですよ。可愛いですかにゃん?」
そうか、そうだよな。カチューシャか…………今、語尾に『にゃん?』と聞こえたような気がしたが、これも過労からくる幻聴なのだろうか。
まあいい。非常に俺の心の不埒な思いを募らせる格好ではあるが、とりあえず物凄く可愛らしい事には違いないのでいつも通りにアタッシュケースを渡して靴を脱いだ。そして、『先に風呂にする』と言った俺を先導すべく、バスルームに続く廊下を先に歩く時子の後ろ姿を見て、俺は今までの数倍…いや、かつて無いほどの衝撃を受けたのだった。
時子に尻尾が生えている。
そうか、俺の妻は猫だったのか…いやそんな事あるわけ無い。今日の俺は本当にどうかしている。そうだ、疲れているんだ。風呂でゆっくり疲れを取ろう。その後、やはり時子に尻尾が生えているように見えたなら、あのカチューシャの着用理由と共に訊いてみよう。時子、いつからそんな尻尾が生えてたんだ?と。いやいやそんな訊ね方はおかしいだろう。こういう状況の場合、どういう風に聞くのがいいんだろうか?取り調べで培った、相手に真実を吐かせるテクニックを総動員するんだ誠二。こんな時、石神さんならどう話を運ぶだろうか。
ぶつぶつ呟きながらバスルームへ向かった俺は、動揺のあまり、スーツのポケットに仕舞っておいた小さなショコラの包みの存在などとうに忘れていた。
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