雨宿り的恋心
地下鉄を降りて長い階段を登ると、地上は雨だった
朝の天気予報でこんなにも雨が降るなんて、言っていただろうか
傘を持たないそらさんのことだから、強い雨の中でもきっとずぶ濡れになって、そして、きっと少しだけ遅れて待ち合わせた場所に走りこんでくる
そんなことが簡単に想像できて、この雨が直ぐに止んでくれるようにと、鈍色の空を見上げた
足元に叩きつける雨粒が、この季節特有の湿ったアスファルトの香りをむせ返るほどに立ち昇らせて、ただ立っているだけで全身が錆びついていくみたいだ
少しの間雨宿り出来る場所を探そう、そう思って手にしていた日傘兼用の小さな傘を開きかけて、止めた
強い雨から逃げるように走る人の中に
見覚えのある金色の髪を見つけたから―――
図らずも合ってしまった視線に、濡れた細身の靴がこちらに向きを変えて、しなやかに私の横に滑り込んで来た彼の瞳が、動きを止めた私を映す
「偶然だね、お嬢サン」
「・・・お久しぶりです、国府田さん」
「こんなところでどうしたの?誰かと待ち合わせ?」
「ええ、まあ」
「へえ、それは残念。何もないならオレがお嬢サンをデートに誘ったのに」
湿り気を含まない軽口のあとに鋭く尖った瞳を少しだけ細めて、国府田さんは笑った
それはそれは、少しの悪意も感じさせることも無く
だから私は、つい手を伸ばしてみたくなるんだ
優しい目をした“迷い犬”に
「国府田さんはお仕事・・・の、帰り・・・ですか?」
「一応そんなとこ。あー、働いてるように見えない?」
「い、いえ。そんなことないです」
「あはは、分かりやすいなー。お嬢さんは」
「あの、国府田さん」
「ん?」
「その・・・お嬢さんっていうの、止めてもらえません?」
「え?いいじゃん。トクベツって感じがしてオレは良いと思うけど」
「別にあたしは特別なんかじゃ・・・」
「雨。止まないねぇ」
するすると流れると思っていた会話をぷつりと一言で止めて、視線を投げた国府田さんの横顔が近くて遠い
高層ビルの谷間にかかる雨雲みたいに、重くて暗い影が白い横顔に落ちた気がして、私は勢い込んだ言葉を飲む
少し前に“お節介だ”と言われたことがあったけれど、こんな時に限って気の効いたお節介な言葉は出てきてはくれなくて、湿った指先を握りしめた
蒸した空気のせいで錆びついた心が、もどかしさで動けずに、ぎしりと軋む
不意に、途切れた会話の間に入り込むように、走りこんできた人が背中に強く当たって、バランスを崩した私の足元の水がばしゃりと音を立てて撥ねた
傾いた私を引き寄せるように受け止めて、薄着の服越しに体温を感じたかと思えば、“大丈夫?”と、息がかかるほどの至近距離で言葉が降ってきて、思わずどきりとした
傷付けあった過去の時間と、包み込まれている今この時間が、私の中で目まぐるしく交錯する
あれほど聞こえていたはずの雨音が遠くなって、その代わりに暴れ出した心臓の音がやたらと大きく耳の奥に響く
無意識のうちに引いていた距離という境界線を越えられた途端に、湿気でくちゃくちゃになった髪だとか汗ばんだ背中が急に気になって、今まで彷徨わせたままの両方の手に意識を戻した
「・・・っすいません」
受け止められたままの身体を押し返すと、その反動で頭上のシルバーリングのピアスから一粒、水滴が零れた
ぽたり、と私の手の甲に落ちた透明な滴が何故だかとても冷たい気がして、思わず金色の髪に手を伸ばす
雨に濡れた髪に触れた指先から、一筋の水が私の腕を伝い流れていく
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