故郷 「龍誠、おいで。」 ある非番の午後、桂木が愛息子を呼ぶ。 「とぅと〜っ」 トコトコと笑顔で桂木の元に歩いてきた龍誠を抱きかかえ、自分の膝に座らせる。 ズボンのポケットから徐に桂木が取り出した物は。 一本のハーモニカ。 「龍誠、いつものお歌、歌ってごらん?」 息子に歌を促すその桂木の声は。 普段、警護の際の固い声でもなく、部下を怒る厳しい声でもなく、勿論、夜に郁美に対して囁く甘く低い声でもなく、郁美が初めて聞く、親としての桂木の声だった。 そして、聞こえて来た旋律に暫し耳を傾ける。 その音は、龍誠の歌う声に合わせて奏でる、桂木の吹くハーモニカの音。 それは甘く、少し切なく心を揺さぶる。 昔、桂木が郁美に話した、『歳を取ったら郁美の田舎へ引っ越そう。』 帰るべき親のいる家とは絶縁状態の桂木。 郁美も、帰る家は田舎の祖母の家しかなく、そこに一番甘えたい母はもう、この世にはいない。 “故郷”が帰省すべき場所ならば、そこに親が居なければならないのなら、二人にはその“故郷”はない。 けれども、帰る場所が“故郷”ならば、互いに帰る場所は、この3人で住んでいるこの家なのだ。 『必ず郁美の元へと帰る』 何時も任務の前には今でも桂木が伝えてくる言葉。 ならば。 この家を。 龍誠を。 護るのは私の仕事。 いつの間にか、聞こえてくるのは、ハーモニカだけ。 遊び疲れた龍誠はいつの間にか、父親の膝の上で、逞しい身体にもたれたまま眠ってしまっていた。 「…龍誠、寝ちゃったね。」 そっと抱き上げようとすると、その手を桂木が制した。 「…もう少し、このままでいさせてくれないか?」 その瞳は、父親としての愛情を湛えていて。 和やかに穏やかに過ぎていく、贅沢な時間。 桂木と郁美は、飽くことなく、何時までも我が子の寝顔を見つめていた。 END |