満たされない欲求


catered by いと



溜息が、また一つ。
だめだな、郁美ちゃんの前だってのに。そう思ってオレは、案の定心配そうにしている郁美ちゃんの顔を笑顔で見つめ返した。


「………そらさん」
「んー?」
「……無理、してません?」
「してないよ?」
「………でも」
「昨日さ、やめときゃいいのに夜中に映画見始めちゃって……」


苦しい言い訳をする。こんなことを言ったところできっと、郁美ちゃんの表情は晴れないだろう。この子は普段ちょっと天然なくせに、こういう変化にはすごく敏感で。オレのことよく見てくれてるのは嬉しいんだけどさ。…って、オレだけじゃないか。この子はなんだかんだでオレらのことすっごいよく見てるよね。


降参しようかなあ……。


「…疲れてるなら、やめましょう?私、買い物は別に他の日でも…」
「ダメ!何言ってんの!」
「だって」
「オレにとっては郁美ちゃんと一緒にいることが一番癒されるんだから!」
「…でも…。本屋に行くだけですし、一人でも大丈夫ですよ?」
「ダーメ!情勢だって最近また不安定だし、何かあってからじゃ遅いでしょ!…オレならほんと、大丈夫だから。これも仕事のうちってことで、ね?」
「……だったら、いいんですけど…。さっきからそらさん、やっぱり元気ないですよ?」
「……はあ。敵わないなあ」


ぽりぽりと頭をかいて、郁美ちゃんを見た。無言のまま、それでもこれ以上ないってくらい、続きを促すプレッシャーをはらんだ視線が突き刺さる。


「…さっきさ、あったでしょ?」
「へ?」
「…郁美ちゃん、かわいーってショーウィンドウに張り付いてたじゃん?」
「ああ、あの……」


おもちゃのバイオリンですか?


ビルの間を風が吹き下ろし、彼女の長くて柔らかそうな髪が揺れ踊った。
ぶわっと、時間が巻き戻される。二人で並んで歩いていて見つけたバイオリンは最早遥か向こうに流れて行ってしまって。そのあとずっと向こうから、もう一個のバイオリンがこちらへと滑って来る。遠い遠い昔の、まだ子どもの頃に見ていたものだ。欲しくて欲しくて、学校の帰りには禁じられていた寄り道をして、毎日のように眺めていた。本物が手に入らないなんてことは痛いほどわかっている。奏で方だって知らないオレには宝の持ちぐされだってことも。だから、おもちゃなら、って淡い期待の混じった胸を抑えながら、そのバイオリンを見つめた。毎日しがみつくように見つめれば、いつかは手に入るんじゃないかなって思っていたんだ。だけど、いつの間にか消えていて。……売れたんだって気付くのに、そんなに時間はかからなかった。


「施設育ちのオレにそんなもの買えるわけなかったんだけど」
「………」
「あ、ごめん。オレ今ちょっと感じ悪かったよね?」
「そんなこと、ないですよ」


そんなことあるよ。郁美ちゃん、なんて言っていいかわかんないって顔してるし。オレが悪いんだ。誰だってそうだよ。そんなこと聞かされて、上手く切り返せるやつなんていないよ。


「遠い遠い、とおーい昔のことだからさ。ほら、今はぽーんと買えちゃうよ?」


ふふ、と郁美ちゃんは柔らかく笑った。そうですねえ、と微笑んで、彼女は紡ぐ言葉を選びながら静かに続けた。


「もしその時おもちゃのバイオリンをそらさんが手に入れてて…」
「ん?」
「…それで、意外な才能が開花したりして」
「あはは」
「そうしたら、音楽で生きて行くんだ!みたいになっちゃってたりして……」
「………」
「そうなってたら、今こうやって桂木班にはいないかもしれないわけで」
「………うん」
「って、話がなんか突拍子もないんですけど。…でもそらさん、案外器用だし」
「案外って、郁美ちゃんひどいなー」
「ふふふ。……ね?だからきっと見てるだけで良かったんですよ」
「まとめるねー」


茶化すように間の手を打って、でも不思議と胸の中は穏やかだった。さっきまでの灰色がかった溜息がウソのように消えていく。
同時に占めていく、柔らかい感情。


…やっぱりオレ、この子が好きだ、大好きだ。

抱きしめたいという衝動に駆られた手が、意識とは無関係に動く。郁美ちゃんの肩に添えようとした時に、理性が働いた。


これは、ひとのもの。
大事な仲間の、婚約者。


欲しくて欲しくて、きっとあのおもちゃのバイオリン以上に欲しいって思ったのって、郁美ちゃんがはじめてだろう、けどさ。


「……やっぱ郁美ちゃん、オレに乗り換えない?」
「何言ってるんですか。もう、そらさんはいつも冗談ばっかりなんだから」
「ちぇー……」



満たされない欲求
(一番欲しいものは、いつもこの手をすり抜けていく)






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