小説 | ナノ





幸福の欠片


catered by 緋月綾椰


けほん、と乾いた咳に眉をしかめる。
昨夜からやけに喉の調子が悪く、咳が出ていた。

「甘子、大丈夫?」
「ん…何か昨日から咳が出るんだよね。背筋もぞわぞわするし…風邪かなぁ」
「今の時期、インフルエンザが流行ってるって言うもんね。今日は早く帰って休んだ方がいいんじゃない?」
「そうする…」

この分ではサークルどころの話ではない。
出ても迷惑がかかるだけだろうし、素直に帰ることにしよう。
甘子はみどりに部長への伝言を頼むと、早々に大学を後にした。



「…おかしいな」

携帯を睨み付けていた桂木は、困惑気に首を傾げる。
時刻は夜の九時過ぎ。
いつもなら帰宅するとメールが入るはずなのだが、その時間が過ぎても一向に携帯が鳴らない。
ここ最近は忙しさにかまけてなかなか会えずにいるので、メールはお互いに欠かさずやっていたのだが…。

「平日に飲み会…と言うわけでもないし、あったら連絡が入るはずだしな…」
「どうしたんですか、班長?」

ブツブツと一人唸っていると、任務を終えた海司と昴が入ってきた。
顔を上げて労いの言葉をかけ、桂木は溜め息をつく。

「いや、大したことじゃない。それより変わりはなかったか?」
「特には。総理もお休みになられました。今はそらが部屋の前についてます」
「そうか、ご苦労だったな」
「俺たちは報告書書いてから帰るんで、班長ももう上がってください。明日は遅番でしょう?」
「甘子も待ってるんじゃないっすか」

海司の言葉に照れ笑いを浮かべ、改めて自分のデスクの上を確認して頷く。

「…そうだな。じゃぁ、先に上がらせてもらうよ」
「お疲れでした」

携帯をポケットにしまい、上着を片手に控室を出る。
車に乗り込んでからもう一度携帯を取り出して電話をかけてみるが、コール音だけが虚しく響くだけで求める声は得られない。

「…行ってみるか」

何もなければそれに越したことはないのだ。
一人納得させ、滑るように車を発進させると恋人の家へと向かった。

「まだ帰ってないのか?」

駐車場に車を停め、部屋を確認するが灯りがついていない。
時計を確認すれば、もはや十時を回る頃だ。
さすがにこんなに遅いなら連絡があってもいいはず…。

「…ん?」

その時、携帯の着信が鳴り響いた。
期待を裏切る人物ではあったが、急を要する内容かもしれないとすかさず通話ボタンを押す。

「どうした、海司?」
「班長、甘子のとこに行きました?」
「いや、家の前にはいるが…」
「なら、すぐに部屋に行って確認してください。さっきみどりから連絡があって、体調不良で早引きしたから気になって連絡したけど、繋がらないらしいんですよ」
「体調不良…そうか、わかった。ありがとう」

そう言えば、昨日の夜のメールに少し咳が出ると書いてあった。
もしかすると悪化したのかもしれないと、桂木はすぐに車を降りて彼女の玄関へ向かった。
イヤホンに指をかけ、室内の電気がついてないことに暫し考えてから、以前渡されていたスペアキーを取り出し鍵穴に差し込む。
つい仕事の癖で気配を殺してしまう自分に苦笑し、肩から力を抜いて部屋に上がった。

「甘子…?」

寝室を覗くと、ベッド脇にある小さな間接照明が淡い光を放っていた。
光に浮かんだ寝顔が目に留まり、ホッと安堵の息をつく。
静かに近づいて間近で顔を覗き込むと、少々寝苦しそうに呼吸をしていた。

「熱が高そうだな…」

そっと手を伸ばし、額にかかる前髪を払い落として、汗ばんだ額に掌を当てると予想よりだいぶ高い温度が感じられた。

「……ん…、かつらぎ…さん……?」
「すまない、起こしたか?」
「てのひら、冷たくて……気持ちいい……」

目を細めた甘子が、額に触れていた桂木の手を取って頬を寄せる。

「っ……」
「大丈夫かっ?」

ひゅ、っと喉が鳴った瞬間、激しく咳き込む。
慌てて体を起こしてやり、背中を擦ってやると大きく息を吐き出した甘子がくたりともたれ掛かってきた。

「ご、めんなさい…桂木さんにまで風邪、移しちゃう…」
「気にすることはない。鍛えているから、そんなに簡単には移らないよ。それより何か食べるか?薬、飲んでないだろう」
「…食べたくない」

ちらりとこちらを窺うように見上げた瞳が、申し訳ないように逸らされる。
予想通りではあるが、それでは治るものも治らない。
少しでも食べられるものをと考えていると、ぼそりと甘子が呟いた。

「ん?」
「…アイス…バニラアイスが食べたい…」
「アイス?」
「冷凍庫の中に入ってます」
「じゃぁ、持ってくるよ」

ベッドから降りて、勝手知ったる他人の冷凍庫を漁ると小さなカップが二つあった。
銘柄を見て僅かに目を見開いた。

「甘子、これ…」
「前にまた食べたいって言ってたから、買っておいたんです。それに、疲れてるときってそれなりに甘いものが欲しくなるでしょ?」
「…ありがとう」

それは、三ヶ月ほど前に出掛けた際偶然食べた物で、甘すぎなく食べやすいと桂木が絶賛していたものだった。
あまりこの近所で手に入るものではないから、大方取り寄せでもしたんだろう。
感謝の意味を込めて彼女の頬に軽く唇を押し当てると、甘子は嬉しそうに微笑んだ。
熱で潤んだ瞳に見つめられ、思わず体が反応しかけたが、すぐに気を逸らして甘子の髪を撫でながら告げる。

「明日は遅番だから、病院に一緒についていくよ」
「え、でも…」
「一人で行かせるのは色々と心配だからな」

苦笑し、バニラアイスを一口放り込む。
確かに、疲れきった体にほどよい甘さが心地よかった。
潤されるような気持ちに、ふと湧く心の灯火は、彼女がもたらしてくれる光で。
ささやかな幸福に、桂木は甘子を引き寄せ、そっと熱っぽいそれに自分のを重ねた。







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