小説 | ナノ


 インサイド・アウト



潜水艦特有の高くも低くもないモーターの音が夜の闇に溶けていく中、私は自室のベッドで重くも冴えた意識を持て余していた。


深夜特有の色々な種類の静寂を混ぜ合わせたような……まるで闇が音を吸収しているような静けさが、今日はやけに眠りから遠ざける。

どうしても眠れないのなら水でも飲んで気分を落ち着けよう。手近にあった上着を引っ掴んで、歩きながら袖を通す。
月明かりに照らされる廊下を歩いて食堂を目指していると、前半の不寝番が終わったペンギンとシャチと鉢合わせになった。

この船の不寝番は、クルーの負担を減らす為に前半と後半に分けられている。前半の不寝番の彼らの当番が終わったということは大体時刻にして午前2時か3時くらいなんだろうとぼんやり頭の隅に時計が思い浮かんだ。


「こんな時間まで起きてたのか?」


ペンギンが驚きながらも至極心配そうに私に声を掛けてきたので、どうしても眠れないから食堂に行こうと思っていたところだと白状する。
するとその隣で同じく私の顔を覗き込んでいたシャチが、まるで名案を思いついたようにポンと拳を手のひらに乗せて言った。


「じゃあ、眠くなるまでトランプでもするか!」


俺、明日早く起きる予定ないし。シャチの提案により、今現在、食堂のテーブルを3人で丸く囲んでいる。シャカシャカとシャチが軽快にトランプを切る音が静かな食堂によく響いた。

シャチもペンギンも声を揃えて、ちょうど寝るには勿体無い気分だったんだと笑う。けれど、彼らとの付き合いもそこそこ長くなった今、それは面倒見の良い2人の気遣いだということは明白で、その気持ちの温かさに自然と笑みがこぼれてしまった。

「簡単にババ抜きでいいよなー?」

カードをリズミカルに配りながら、シャチがゲームを指定する。お互いがそれぞれ順番にカードを引く中、ペンギンが懐かしそうにしみじみと口を開いた。

「夜更けにトランプをやると、海に出た頃を思い出すよ」
「満月の日にベポがスーロンにならないようにって、キャプテンと4人で夜通しトランプやったこともあったな」

シャチはくすくすと笑いながら、私にカードを引かせる。
ベポがまだ幼くて未熟故に、満月の夜には自身に眠る、スーロンという扱い切れない力を持て余すことを怖がった。だから、ベポが不安にならないように皆でトランプをして夜を過ごした、懐かしくて大切な思い出。

そんな昔話に花が咲く内にテーブルの真ん中には数字の揃ったカードが山になっていった。

昔を懐かしんで話す2人の雰囲気はとても楽しそうで優しい。この人たちはお互いを心から信頼して、支え合いながら今まで生きてきたのだろう。
そんな旗揚げ当時の話を私にも聞かせてくれることに、私も間違いなく、この船の一員として受け入れられている事実を感じ取り、胸の内が燻るように熱くなる。

出会った頃のキャプテンは俺たちより背が低かったのに、今では手も足も伸び、押しも押されもせぬ最悪の世代の1人となったと、2人はまるで自分達のことのように喜んだ。
この船の船長との昔話を誇らしげに話す2人の様子を見ていると私も誇らしくて楽しい。2人の昔話に頷きながら夢中になって聴いていると、ガチャリと食堂のドアが開いた。

「あ、キャプテン」

噂をすれば影とはこのことか。
ドアの方を見やったシャチにつられて視線を向けると今しがたシャワーを浴びてきたのだろう、若干髪をしっとりと濡らし、適当に袖を通した前開きのパーカーを着た船長が食堂に入ってきた。

彼は私たちを一瞥すると私の隣の空席に腰掛け、長い足を余らせるのか、いつものように足を組んだ。

「船長もババ抜きします?」
「あァ」

試しに聞いてみただけ、だったのに。
彼がゲームに参加するなど、歳を重ねた今となっては珍しいとシャチもペンギンも驚いている。
けれど、せっかく船長が参加してくれるなら本人の気の変わらぬ内にと、ゲームが途中にも関わらず、カードを手にしていた全員がすぐさまテーブル中央の山に手札をすぐに返した。

シャチがカードの束を一纏めにした後、先程と同じようにトランプを切って、今度は4人分を配る。私は隣に座る船長にトランプを引いてもらうために、両手で扇状に広げたカードを自分の視線の前に掲げた。

ところが、彼は私の手元のカードではなく私の目をじっと見つめる。

食堂の柔らかな照明を受けて長い睫毛の影を濃くを落とした、蜂蜜色に輝く瞳。それがあまりにも真っ直ぐに見つめてくるので、恥ずかしくなって咄嗟に手元のカードに視線を軽く落とした。

吸い込まれそうに美しい瞳だと、瞬時に目に焼き付いてしまった黄色の宝石色に染まる光景を何度も反芻する。

例え荒波の中であっても、自分の行く進路を、進むべき未来を見据えている瞳の光。その虹彩は船長の多様な強さを内包している様でとても好き。
だけどこうも正面から自分に向けられてしまうと、どうにも我慢できないくらい恥ずかしい。

時間にして、ほんの数秒だったと思う。

それでも至極長く感じて、気恥ずかしさにいよいよ目を瞑ろうかと思った矢先フッと小さな笑いと、ゆっくりと瞬きを一つ落とす気配がした。

かといって船長は私に何か言う訳でもなく、長くしなやかな指で私の手元からカードを一枚選び取る。ただ、それだけ。一体何だって言うのだ、心臓に悪い。


二巡程したところでペンギンから選び取ったカードの引きが悪かったのか、シャチが小さく「げっ」と呟いた。
あまりにもわかりやすい反応に、どうしても笑いを口元にしまいきれない。彼は口を尖らせて自分のカードを丹念にシャッフルした後、カードを広げながら疑問を投げかけてきた。

「いつもこんな時間まで起きてるのか?」
「読みたい本とか、やりたい事もたくさんあって」

海に出てから毎日が楽しくて仕方ないのだ。

群れをなして海面を泳ぐ魚が太陽の光を浴びて、キラキラと鱗を輝かせる光景を見るのも、
甲板に干した洗濯物が空一面に広がり、石鹸の香りが潮風とともに一面に広がるのも、
ガヤガヤとした笑い声が響くこの食堂で、クルーたちと揃って食べるおいしい食事も、

それら全ての思い出を、一つとして欠けることなく大切に抱きしめていたい。

今日あった出来事を、1日の最後に目蓋の裏で何度も頭に思い描いては心に刻む。そうしていると、嬉しくなって、少しも忘れたくなくてついつい眠れなくなってしまう。

だから、本を読んで次の航海に備えたり、今日の日の思い出を絵にして描き加えながら日記に書き記したりしていると、いつの間にか時計の針は深夜を指している。


「でもチャーシュー、日中も結構働いてるよな?」

そんな私の生活にシャチもペンギンも、いくらなんでも心配だと声を上げる。

「癖になってるんだろう」

私のカードを迷いなく選び取り、揃いの2枚を手札から山に捨てつつこの船の船医でもある船長が答えた。

「そうかも知れませんね」

その言葉に苦笑混じりに応える。
生活のリズムが狂ってしまっている。要はそういうことだ。
シャチが私に向かって広げるカードの内、不自然に1枚飛び出したカード"以外"を引いた。あからさまにがっかりしたシャチを尻目に、私の言葉を聞いた船長は浅く溜息をついた。

「いつからだ」
「結構前から…もう慣れっこです」
「……そうか」

船長は私の手元からカードを1枚抜き取る。
そして、自分の手にある最後の1枚と合わせてテーブルの中心に、粗雑に投げた。

「もう終わりだ。寝るぞ」
「えっ?!キャプテン、早っ!」

シャチとペンギンが驚く中、彼はスッと立ち上がり私を見下ろした。食堂の光を背に受けた、彼の長い影が私を染める。

「ついて来い」
「え、あ、はい!……?」

横目で見下ろしながら、軽くたてた人差し指をクイと動かして、船長は私を促す。
一体何処についていくのかも分からないのに、反射的に椅子をガタンと鳴らし立ち上がってしまったので、その勢いのままさっさと歩き出した彼の元へ駆け寄った。
船長の背中を追いかけながら扉をくぐる前に、眠れない私に付き合ってくれた2人を振り返る。

「ペンギン、シャチ!ありがとう!」

2人が手を挙げて返答の仕草をしてくれた事を確認して、私は先を行ってしまった船長の背中を小走りに追いかけた。





「やっぱ、何やらせてもキャプテンには敵わないなぁ」

今まで使っていたトランプを纏めながらシャチは感嘆の声をあげる。その様子を顎に手を置いて何かを考えるような仕草をしていたペンギンが、ハッと何かに気づいたように頭を上げて、その後、納得するように頷いた。

「あー……、だからキャプテンは、チャーシューの目を見ていたのか」
「さっきの?」
「瞳の中のカードを見つめてたんだ、多分」

元々の引きの強さもさる事ながら、確実に自分が勝つ戦略の策定を、事もなさげにやってのける自らの船の船長の手腕。
キャプテンはいつだって格好いいな。2人の笑い声が食堂に溢れる。昔からそうだ。自分たちの居場所を与えてくれたあの存在は、歳を追うごとにどんどん頼もしくなっていく。


「……でも、俺……キャプテンはチャーシューが疲れた目をしてる事を気にかけたんだと思ったんだけどなぁ。……だって、あの人…」

シャチが小さく零した言葉は、食堂の灯りと夜の闇の間に、淡く消えていった。





 
「入れ」

そういってドアを引き招かれたのは、ポーラータング号の船長室だった。

「えっと…」

何故、船長室に招かれたのか全く見当がつかない。ドアの前で立ち往生している私に、船長は早くしろ、と顎をしゃくり入室を促してきた。

「お邪魔します…」

部屋に入る意味も分からぬまま、心もとない気持ちでそろそろと彼の部屋に入る。
おっかなびっくりの私を他所に、部屋の持ち主はパーカーを脱ぐと執務机の椅子にバサリと放り投げるように引っ掛けた。


背中に現れた大きなジョリーロジャーの入れ墨が露わになる。あれは船長の覚悟の証だ。
荒くれ者の海賊にも挟持や野望がある。
言葉に出してそれらを語らずとも、多くを語る船長の背筋は凛と伸びて美しい。


鍛えられた筋肉に描かれた海賊旗に見惚れていると、彼は机の引き出しから何かを取り出して、ベッドに腰掛けた。そして、僅かに小首を傾げながら自分の隣をポスと片手で叩く。

いよいよ訳がわらかないと扉の前で混乱している私を面白そうに眺めた後、ローさんは腕を組みながら片唇をあげた。


「ここで寝ろ」
「は?!いえ!!結構です。遠慮します。おやすみなさい」


一緒に寝てやるというローさんの申し出に驚きすぎて、この部屋から退散する為に思いつく言葉を並べ立てる。

何を言っているんだ、この人は。
戯れにしたって酷すぎる。

船長に憧れて、彼の姿を追いかけながらクルーの一員として今までやってきた。
一人で胸の内にしまっていたとしても、ひとかたならぬ思いを彼に抱いてきたというのに。まさかそんな私の心の内を嘲笑うようなことを彼はするのだろうか。



怒りとも悲しみとも、恥ずかしさとも取れぬ気持ちがごちゃ混ぜになって、立っている床がぐわんくわん波打つ。
何に一番心を乱すのかと問われれば、どんなに想いを寄せていたとしても、結局、船長にはなんとも思われてなかったと言う悲しみが1番辛い。


船長に女として何とも思われていない。
そうでなければ、こんなこと言わない。


クルーとして船長と一緒に居れることが幸せだった。それだけでよかったはずなのに。

いつからなのか、憧れの中に恋心をひた隠しにしていたのは。そんなことは到底、許されないことだったのかもしれない。

身に過ぎる思いを抱いて、一人で勝手にショックを受けるなんて馬鹿みたい。
それでも目蓋にこみ上げてくる熱を、グッと奥歯で堪えた。


「何か勘違いしているようだが……眠剤は癖になる。眠れねェなら、おれが寝かしつけてやるって言っているんだ」

医者の言うことは大人しく聞くもんだ。至極真っ当に聞こえる言葉をかけられたが、いくら医者の言うことだからと言っても患者にも選ぶ権利はあるだろう。確かなんていうんだっけ、インフォームド……専門用語は忘れたけれど。そもそも、これは治療なのか。


兎に角。頭を殴られる程の衝撃を与えられた、"女として見られていない"云々については、思い違いなのかもしれない。この仕打ちにも近い扱いは患者としての対応なのかもしれないと気を取り直しかけるも、状況は変わらない。


現実を直視したくない気持ちが強くて、船長から言われた言葉そっちのけで考えを散らしては巡らせてしまう。でも、それで現状を打開できるかと言ったら、それはまた別の話。


どうか。落ち着いて、わたし。


考える事が多すぎて、頭がパニックになっている。深呼吸が必要だ。
私がこの状況に何かしらの混乱を抱えていることを船長は絶対に、勘付いている。その証拠に船長の片唇は上機嫌につり上がっていた。
なんてイイ性格だ。そういう不遜なところも船長の素敵なところだ。……ちがう、そうじゃない。
平たく考えれば、想いを寄せている人と同じベッドで寝るなんて、幾らなんでも私には出来ない。


どうにか適当な理由をつけてこの部屋から逃げ出さないと。


私が後退りをした時、片眉をぴくりと動かした船長が、組んだ腕を外し、先程机から取ってきた"何か"を自分の背後に落とした。
そのまま右手を膝の上に置いて、掌を下に構える。その筋張った指がタトゥーと相まって美しいと見とれたのは、幾らなんでも脇が甘すぎた。
見慣れた青いサークルに囲まれる。マズイ。咄嗟に思ったが、彼の早技に間に合う訳も無い。 


「"シャンブルズ"」
「わ!」


軽い浮遊感があった後、爽やかだけど苦くて甘い、ほんの少し薬品の香りが混じるふかふかのベッドに背中から着地していた。
私が立っていた場所にはベポにそっくりの熊の装飾がついた鉛筆がコロン、軽く弾んで転がる。
ベットの縁に腰掛けている船長の体重が、軽く沈み込むマットから背中に伝わった。


「あの、眠くないのですが……」


最後の抵抗とも言えなくもないけれど、そういって身体を起こそうと肘をベッドにつく。でも、こちらに背中を向けて座っていた船長が振り向きながら、私の肩を押してやんわりと静止した。


「バカ言え。そんなに疲れた目をしてよく言う」
 
その言い方のあまりの優しさに、身体を起こそうとしていた動きをハタと止めてしまった。
肩を押す力に止められたのではない。それは殆ど添える程度のものだった。
私を見下ろす船長とかち合った、瞳に宿る光の想像以上に柔らかさに、全ての思考が停止してしまったのだ。
背中はベッドに沈められたままだというのに。


船長も身体をベッドに倒し、肘で自分の頭を支えながら私の隣に横向きに寝転がる。
見下ろされる形は変わらないけれど、随分と近くなった目線。


こちらを向いている船長に合わせて、つい私も彼の方へ身体を向けけしまった。
無意識にとった体勢とはいえ向き合ってしまうとその近い距離が恥ずかしくて、心許なくて、咄嗟に自分の両手を頬の近くに置く。


自然となる上目遣いで船長を見上げれば、優しい瞬きが降ってきた。
船長の黄金色の眼差しを見ていると、幼い頃、夜眠れない時に飲んだ蜂蜜を入れたホットミルクがふと頭をよぎる。
そんな、綺麗で、優しい瞳だと思った。


「眠れない夜は父様や母様……、いや…、両親と一緒に寝たもんだ」


一瞬、呼吸が止まった。

伏せ目がちながら片唇をあげて言った内容が、まさか彼の幼少の頃の思い出だったことに、全ての時が止まったかと思った。


言い直しながらも自分の両親を呼ぶ船長の声は、はっきりと懐かしさと慈しみを含み、夜の静けさに溶けていく。

以前甲板でふたりきりになった時にちらりと聞いたのは、フレバンスの辛い過去の一片だった。
生まれ育った白い町が灰に消えた出来事は、歳を重ねた今なお忘れ難い、胸を貫くような思い出に違いない。

そんな彼から、家族と暮らした幸せな過去の記憶を聞くことが出来るなんて。
思わず熱くなる目頭を、深く目を閉じて瞬きと共に誤魔化した。



ーー願わくば、船長が思い出す家族の記憶は幸せなものであって欲しい。


そう思っていた。それが今、私を通してその記憶の一端に触れてくれているのだとしたら、こんなに嬉しいことは無い。

込み上げてくる想いがどうにか目頭で止まりますように。握った拳をおでこを押しつけて、もう一度深く、息を吐いた。


どうした。心配したように覗き込む船長の声に言葉もなく首を振り、数秒遅れて、なんでもないです。と、なんとか笑顔を絞り出す。


そんな私の様子から何か伝わったのか。
船長は困ったように肘をついた手で首の後ろを掻いた。
そして先ほどの自分の言葉を反芻して、わたしの奇妙な笑顔の理由に気づいたのか、僅かに目を見開いた後、それは、それは、柔らかく瞳を細めた。


嬉しさとも、泣きそうだとも取れる、くすぐったいそうに綻んだ視線で、表情自体は僅かに口元をゆるませる程度だった癖に、蜂蜜色の瞳だけは雄弁に慈しみを語る。


「睡眠は免疫に関わる。毎日楽しく航海してェだろ?いつもみてェに」
「はい、船長」


言い方は少し乱暴だけど優しく語りかけながら、シーツを私の身体にかけ直してくれる。船長の香りが鼻から胸へ落ちて、普段こんなに近くに彼を感じることのなかった緊張と安心感との二律背反な感情が複雑に絡み合った。
 
"いつもみたいに"
クルーたちの姿を常日頃から船長が見守ってくれているから出てくる言葉なのだろう。
私の気付かないところでしっかりと私たちを見てくれている。その事実に、いちクルーとしてこそばゆい嬉しさを覚えた。あとでみんなにこっそり教えてあげよう。きっと喜ぶ。


「いつも私たちのことを見守ってくれているんですね。嬉しいです」
「まァ……そう、だな」


途端に、珍しく歯切れの悪い返事が返ってきた。
おまけに視線まで外して。
船長?今度は私が彼の顔を覗くために頭を起こそうとすると、乱暴に掌で目隠しされて、その勢いのままベッドに頭を押し戻されてしまった。


「何をするんですか?!」
 

急に奪われた視界に慌てふためき、日に焼けて少しカサつく船長の掌に触られていることに冷静な判断を奪われる。

それでも船長はその手を離してくれない。
割合強い力で押し付けられた掌を引き離そうと、仰向けされたまま両手で彼の腕を掴むも、いつも大太刀を振り回すほどに筋肉のついた腕は、そうそう引き剥がせるものではなかった。


そんな必死の私を差し置いて、大きく長いため息が船長から漏れる。
何かため息を吐かれるようなことをしてしまった覚えはない。そんな事より船長がこんなに近くにいる状態で、視界を奪われる事が恥ずかしい。
頭がベッドに縫い付けられているから、首から下を無防備に晒してしまっているようで居た堪れないのだ。
おまけに船長の長い小指の付け根が、私の鼻の頭に触れている。その関節が自分のものとは違って筋張っていて男らしくて、性差を意識してしまうから、更に変に意識してしまい酷く決まりが悪い。


「……お前だけだよ」
「……………、…へ?」


ポツリと呟かれた言葉が耳に届くも、最初意味を為さなかった。
呆気にとられて暗闇の中、瞬きをすると私の睫毛が船長の掌にぶつかりガサと音が立つ。


「こんなにも姿を追うのは、お前だけだ」
「船長……?」
「わからねェか?」


フ、と鼻で笑う船長が動いた気配。
船長の重心の動きに合わせて、目蓋を押さえる大きな掌の力がほんの少しだけ緩んだ。
それでも変わらぬ暗い視界。
石鹸の爽やかで優しい香りが降ってきて、おでこにまだ水分の残る前髪が触れたことに気を取られた時には、唇に柔らかい厚みが重ねられた。


少しだけカサついた、でも、しっとりと穏やかな唇は、私の唇の形を確かめるように優しく包む。


「……ん、…ぅ」


急な船長からの優しい口づけに、驚きと深い心地良さを感じて、思わず声が漏れた。
船長の腕を掴む指先に自然と力が入る。


まずい。まるで、船長にすがるとも取れる仕草をしてしまった間抜けな私は、自分で自分を煽ってしまった。
ほんのわずかに離された唇同士の隙間に、彼の熱い息と甘やかな香りが鼻腔をついて、戦慄く。


視界を奪われたまま、もう一度。
何度も角度をかえて、私の唇と合わさる。

目を隠してくれていて、良かった。
気持ちいいです。って顔を見られずに済む。
自分の唇を求める、自分以外の熱に浮かされる。性急な出来事に一体誰にキスかれているのか倒錯しかけるが、時折顎をかすめる髭が、船長の存在を色濃く確信させる。


押さえられた掌でグイとおでこの方に力を込められると、顎が上を向く。曝け出された首筋が
、更に深くなったキスをさらに焚きつけた。
押さえられた目蓋は、船長の掌でどんどん温かくなっていって、それが正常な思考を溶かす。


私も口を開いて船長の唇の形を味わえば、更に深くなる口づけ。合わせた唇を柔らかく動かす船長の動きに応えるように、いつの間にか私も彼を求めていた。

まるで唇だけが生を持ったかのように、そこしか感じられない。私の自由になる唯一の部分は、船長に奪われて食べられてしまった。
余裕がなく求めるようで、その実慈しむように重なる。何度も吸い付くようにしっとりと重ねるそれが、どうにも離し難くてもっと欲しいと求めてしまう。時折、船長の鼻と私の鼻が触れ合うことがくすぐったい。


視界を失っている分、耳が敏感に音を拾う。
肌の、触れ合う唇の感覚が研ぎ澄まされる。
船長の石鹸の香りと、爽やかで甘い汗の匂いが鼻腔をくすぐる。


たまに、はぁ……とうっとりした、ため息のような船長の息継ぎが低く鼓膜を震わせて、私まで釣られて、熱いため息が出てしまう。
そうすると、その息さえも奪うようにまた唇は重ね合わされる。


船長のキスは優しくて、深くて、温かくて、心地良かった。押しつけられた掌が目元で熱を持ち、じんわりと熱くなる。



ずっとこうしていたい。
それでも離れていった唇が、どうにも寂しくて、無意識に顎を上げて追ってしまった。
自分でも予期しなかった自身の反応に、空気に触れて冷たさを感じた唇を意識してしまい羞恥心が疼く。


物欲しそうに見えなかっただろうか。未だ目蓋には温かな掌が乗せられたままだ。だから私の表情は見えなかったと思う。
きっと……大丈夫よね?


なぜ、キスをしてくれたのだろう。
私を見ていてくれたとも言っていた気がする。
今更ながら、キスに夢中になりすぎて湧き上がらなかった、もっと早く気にかけるべき疑問が今度は頭をいっぱいにした。


「あの、船長……」


視界を奪われたままの私を船長はどんな瞳で見ているんだろう。
流されやすいバカな女だと思って蔑むだろうか。
ずっと船長のことを思い続けた私には、貴方を拒むことなんて出来ないのに。


怖かった。
けど、知りたかった。

今なら腕も退かしてくれるかもしれない。
いつの間にか船長の首に回していた手を離して、腕に添える。
簡単に彼の腕が外れて、部屋の明るさを眩しく思う前に、船長は乱暴にベットサイドに腕を伸ばしてバチンと部屋の明かりを落としてしまった。


そのままゴロン、彼の胸に抱き竦められる。
頭と腰を押さえて、まるで抱き枕にされているみたい。だけどこれでは船長の表情が見えないじゃないか。

どんな顔をしていますか。
馬鹿なクルーだと非難する冷たい表情?
それなら、何故あんなに優しいキスをしてくれたの?こんな風に大切なものを守るように抱きしめないで欲しい。期待してしまうから。


「船長……」


もう一度、呼ぶ。
船長の腕がもう一度ギュッと私を引き寄せた。
頭に回された大きな掌は優しく後頭部を包んで、大きな入れ墨の入った胸板に押しつけられる。
そして大きく息を吸って、たっぷりとため息をひとつ。チャーシュー。ゆっくりと丁寧に、名前を呼ばれ、顔を上げた。


「好きだ」


船長の胸板を震わせて私の耳に響いたその一言は、にわかに信じがたいのに、真っ直ぐ私の胸に届いた。


でも何と反応したら良いのかわからない。
嬉しいと思う反面、言葉が理解できてもこれが現実なのか、まったくわからなかった。
もしかしたら都合の良い夢なのかもしれない。


「クルーのひとりとしてずっと見守っていることもできたが……」


お前の鈍感さに我慢ならなかった、と。
どれだけ自分なりに優しく接しても、"船長"としての優しさとしか受け取らないお前に、焦れて仕方なかったのだ、と。


ポツリポツリと話す船長の低い声が、じわりじわりと現実感を積み上げていく。

そもそも何とも思わねェ奴を自室のベッドにあげるか、とか
それなのにお前はおれの気も知らねェで"良いクルー"で居やがって、とか


だんだん愚痴まじりになってきているのに、頭に回された手は私の後頭部を柔らかく撫でている。
大きな掌で頭を包まれるように撫でられるのは気持ち良くて、船長の小言みたいな文句も優しく聞こえる。


顔を少しだけ見上げれば、暗がりによく見えないけれど少し唇を尖らせた顔がちょっとだけ幼く見えて、胸に甘い痛みが走って痺れた。


「船長。あのね、」


私も同じ気持ちです。

彼の胸に顔を埋めてそう伝えれば、頭を撫でてくれていた掌の動きが、止まる。
大きく息を吸い込んだ船長の胸が大きく膨らんで、私の頬を押し返した。


「そうか」


深く吐いた息にはどことない安堵の色が見えた気がする。私の頭を撫でていた掌と腰に回した手が、一層キツく抱きしめた。 

少し、苦しい。
けれど、温かい体温が頬や服越しに触れ合う肌が心地よい。しっかりと回された腕の中は、世界中のどこよりも確かで、安心できた。
相変わらず髪を撫でる掌は大きくて、心配とか不安とかそういう不確かな気持ちを解きほぐした。
思わず込み上げたあくびを噛み殺すと、鼻先で柔らかく笑う音が鼓膜を伝う。
 

「寝ろ」

ぶっきらぼうな物言いは変わらないのに、触れる指先はどこまでも優しい。
おやすみなさい、船長。
私たちにしか聞こえない声がなんだか擽ったくて、ぐりぐりとおでこを船長の胸におしつけ私は目蓋を閉じた。



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