小説 | ナノ


 and six Beli in her shoe.



久しぶりの上陸はワクワクする。
夏が暮れた秋島の風は、静けさを含んで肌寒い。快晴の空は高く澄んでいて太陽の光は心地よかった。

午前中の早いうちに上陸して早々、他のクルーたちとは分かれてショッピングに足を運んだ。男所帯だと買いたいものは違うし、イッカクも今回は見たいものがあるそうで自然と別行動になった。

私たちが日々を過ごす潜水艦内の行動はチームワークが大切で、自由に生きる海賊と言えど規律もそれなりにある。だからまるっきりの一人で行動するのは久しぶりだ。いつも着ていた揃いのつなぎを脱ぎ、カッターシャツという普段は着ない格好で街を歩くとついつい歩みが軽くなる。


それに、今日はどうしても買いたいものがあった。
船長の誕生日に日ごろの感謝を込めてささやかながらもプレゼントを贈りたい。何か素敵なものがあれば良いのだけど。期待と不安を胸に街並みを早足で歩いた。



戦火に焼かれた瓦礫の中で、野犬のように育った私を拾い上げてくれたのは船長だ。この世への憎悪と絶望ばかりを抱いていた私に、世界の醜さを認めつつ、それに飲み込まれないような強さと覚悟を示してくれた。

焼けた教会跡で彼が「弱ェ奴は死に方も選べねェ」と言った言葉に、「自分の生き方は自分で決めたい」と泣きじゃくって答えたあの日の出来事は、間違いなく私の胸に希望の火を灯し、今に続いている。

あの時の言葉があったからこそ、私は自分の足で歩いていける。


ウインドウショッピングしながらガラス越しに並んだ品々に目を走らせていると、ショーウィンドウに並べられた一つが目に止まり、思わず足を止めた。

ゴールドの蓋が付いた、ハンターケースの懐中時計。繊細なアンティーク作りのそれには、雪の結晶の装飾がされており、蓋を開いた文字盤の真ん中では中の歯車が透けて見えた。その所々に散りばめられた深い紺色や黄金の石飾りが、船長の髪と瞳の色に似ていて一際美しい。


「これ!ください!」


店のドアを勢いよく開けて、店内に顔を突っ込み勢いそのまま声を張り上げる。すると驚いた表情をした女性の店主がカウンターから出てきて私が興奮しながら指差した懐中時計を取り出して見せてくれた。

ガラスケースから取り出されて日光に当たる懐中時計はショーウィンドウ越しにみるよりも一層輝いて見える。テンプが規則正しく動き、カギ車を回している様は細かく打つ脈に似ていて、懐中時計自体が鼓動を打つ、一つの心臓に見えた。

船長の誕生日プレゼントをこんなに早計に決めて良いのか一瞬躊躇するも、今日の私にはこれ以上のものが思いつかない確信めいた予感があった。ジーンズの小さなポケットは懐中時計を入れていた名残だと聞いたことがある。普段ジーンズを履くことの多い船長の邪魔にならなければ嬉しい。


「プレゼントですか?」
「はい!」
「メッセージカードはいかがしますか?」


店主が定型文の書かれたサンプルを並べてくれた。予定していたよりも随分と早く買い物が済んでしまったから、お店が用意したものではなくて自分でメッセージを書いてみようか。
なんとなくそう思って、青い無地のメッセージカードだけを選んで、プレゼントは包装してもらうことにした。

さて、なんてメッセージを書こうか。伝えたい感謝の気持ちはたくさんあるけど、たくさんありすぎてうまく言葉にならない気がした。



綺麗に包装してもらったプレゼントを手提げの紙袋に入れてもらって意気揚々と道を曲った時、前から強い衝撃を受けてよろめいてしまった。文句を言う程のものじゃないけど、一体誰なのかと非難の目でぶつかってた相手を振り向く。


目のあったその人物は、私と同じ長さの髪の女性で、背格好も似ていた。そんな目の前の女性の姿に、自分にどこもなく似ているかもしれないなどと直感的に呑気な感想を内心呟く。

ところがほとほと悠長な私とは正反対に、ぶつかってきた彼女は必死の形相で何かを警戒して後ろを振り返り、焦りに焦っていた。マーガレットの花を模した大きめの髪飾りが印象的にキラリと光る。

彼女の動きについ周囲への注意払うと、そう遠くないところでバタバタと複数の足音が聞えてきた。経験上、追われるものと追うものの関係性が見える。

その音に一層顔を真っ青に染めた彼女をなんだか放って置けなくて咄嗟に腕を鷲掴み、路地裏に引っ張り込んだ。


ドタドタと数名の黒い服を着た男女が走り去っていくのを、彼女を背中側に匿いながら狭い建物の隙間から息を殺してやり過ごす。追われていた彼女といえば、不安そうに私の後ろから外に注意を払っていた。


喧騒が過ぎ去り、往来に身を乗り出し左右を確認するも怪しげな人影は見当たらない。ワケを聞こうと後ろを振り返ると、彼女の瞳にはあれよあれよと水の膜が張り、安心したのかボロボロと泣き出してしまった。





「ーー顔も知らない結婚相手と結婚するためにこの島に連れてこられたけど、もともと心に決めていた人がいた。それで、その人がこの島まで貴女を取り戻しに来てくれて、その彼と逃げ出す最中だったと」


泣きじゃくる彼女が言うには、そうだった。
嘘か真か分からない話だけど、よく見ると手や足には大小沢山の擦り傷がある。育ちの良さを思わせる可憐なワンピースを着る人物が負う怪我には見えなかった。

さらに詳しく聞けば、この島で囚われていた屋敷から窓伝いに決死の脱出をしたという。なんでも結婚式の身支度をする直前、人目を掻い潜り屋敷の庭に潜入してきた彼の姿を見て、ついに自分の置かれた理不尽さに耐えられなくなったのだそうだ。

これから島の反対側の入江に向かい、待ち合わせしている彼とこの島から逃げ出す予定だった。なのに途中で見つかってしまい、捕まりかけていたところを私に助けられたらしい。


「何故、心に決めた彼がその場所で待っていると確信できるの?はぐれた時に彼は捕まっているかもしれないし、あなたを置いて先に逃げたかもしれない」


酷な言い方かもしれないけど、逃げた先に本当に希望があるのか。それは盲信ではないのか。恋は盲目とはよく言うけれど、目の前の絶望にただ前が見えていないだけじゃないのだろうか。
かといって、彼は今も入江で待っているのだと言う彼女に、じゃあ頑張ってと突き放すような気持ちにもなれなかった。


「彼のビブルカードに異常はありませんし、はぐれたときは必ず入江で集合することになっていました。……もし仮にあの場所に彼がいなくても、私は1人でだってこの島を出て、生きていきます」
「理不尽な結婚をしたくないから?」


そう聞けば、目の前の彼女は真っ直ぐこちらを向いて頷いた。

好きな人と共に生きることを約束する結婚というものは、きっとこの女性にとってかけがえの無いものなのだろう。一緒に島を逃げ出して、2人で幸せを誓って生きていく未来に、もう少しで手が届きそうなのだ。
仮にそれが叶わなかったとしても、彼女は今、自分の未来を自分で掴み取ろうとしている。


「そりゃぁ、結婚って女の子の夢だよね」


ぽつりと呟いた私の言葉に、赤く目を腫らす女性はこちらを見上げてきょとんとした。よく彼女の顔を見れば、瞳の色も、髪の色も、目鼻立ちも、やはり自分とよく似ている気がする。だからなのだろうか、彼女を放っておけない気がするのは。

それになんとなく気に入ってしまった。
育ちの良さそうな彼女が危険を冒して窓伝に脱出を図り、髪も手も足もボロボロになってまでも自分の未来を掴み取ろうと奮起する姿を。
たとえ彼とはぐれたとしても、1人でこの島を出るという彼女の瞳に宿った決意の光に曇りはなかった。


「化粧でごまかせば、なんとかなるかな」
「??」
「脱いで」
「えっ?!」


手首のボタンを外し、着ていたシャツを脱ぎ始めた私に、彼女はあからさまに戸惑いの声を上げる。だけど早くしないと追手に見つかってしまう。


「身代わりになってあげる」
「そんな……!見ず知らずの方に!!」
「今日は、自分に後ろめたいことしたく無いの」


だって今日は1年のうちで1日しかない、特別な日だ。

着々と服を抜き出す私に、彼女は狼狽るも最後には意を決してワンピースの裾を掴み、下からめくり上げるように脱いだ。


「ご恩は一生、忘れません」
「私は良い人間なんかじゃないから、覚えてなくて構わないよ。悪いけどその素敵な髪飾りは貰うね」


お互いの服を交換して、彼女の白い髪飾りを頭につけた私は、路地裏から街ゆく人たちを確認する。
すっかり私の服を着た彼女に、少々ここで待っているように指示した。コクリと頷きで返してきた返事を横目に、剥き出しの配管に足をかけてスルスルと屋根に登る。風にはためくスカートが少し邪魔だが問題はない。

屋根に登り、往来をざっと見渡す。彼女を追いかけてきた人たちの姿は見えないが、その代わりにここからほど近く、見慣れたオレンジ色が目に飛び込んだ。
これは願っても無いラッキーだとばかりに半ば飛び降りるようにして路地に着地し、下で待機していた彼女の腕を掴んで狭い通路から飛び出した。


「ベポ!!ちょうどよかった!」
「あれ?チャーシュー!いつもと違う格好だね。キャプテンと一緒じゃないの?」


見慣れないミンク族がいる事に引き連れてきた彼女が緊張したことがわかったが、丁寧に説明している暇は残念ながらない。助けて欲しいことがあるとベポを引き留めて、船長のプレゼントが入っている紙袋からメッセージカードを取り出す。

本当はじっくりメッセージを悩みたかったけれど仕方ない。彼女の身代わりとして街から逃げる際に、宿に置いてきた自分の荷物を諦める事も視野に入れる必要があった。だけどこのプレゼントだけは絶対に、諦めたくは無い。

バッグの中からペンを取り出して、メッセージカードの上を走らせる。船長が私に与えてくれる全てに感謝して、手短な言葉になってしまったがお礼の言葉を書き入れた。
書いた文字はいつもの癖で少し右斜め上になってしまったが、手早くカードを袋に戻してベポに差し出す。


「これを船長に渡して欲しいの」
「うん。いいけど」
「あとこの女の人を島の裏手の入江まで送り届けてあげて。よろしくね!」
「えっ、ちょっと!」


ベポの返事を聞く前に甲板掃除の交代で手を打って欲しいと言い残して、彼女が逃げて来た道を走り出した。細かい説明はしてられない。けど、ベポに託したならもう大丈夫だ。同じ船に乗るクルーへの信頼を胸に、いち早く彼女と離れる為に石畳の道を駆け出した。




*******





「結婚式でも近くでやるのか?」
「いいなァ〜花嫁」


買い出しの最中、一緒に歩いていたペンギンとシャチが道端で足を止めた。数名の男女に囲まれて、白いウェディングドレスを着た女性が静々と歩いている。ペンギンもシャチもその美しい姿に目を奪われて、呆けながら呟いていた。

総レースのマーメイドドレスは、ヴェールに顔を隠した女性のスタイルを美しく引き立たせる。長いトレーンが彼女の歩みの余韻を漣のように残した。手に持った白い百合と青い薔薇のブーケは純潔や可憐さを象徴しているようだ。


「はァ!?」


しかし、目に入った美しい女性の姿に思わず声が荒がった。
ヴェールをかけ、伏せ目がちに下を向いているのは、自分が殊更気に入って目をかけているクルーのチャーシューに間違いない。思いを伝えていないまでも、お互いに引かれ合い、そろそろどうやって船長とクルーという関係を脱却しようか考えていた、まさに恋人未満の関係と言っても良い。


荒廃した島で初めておれたちが出会ったあの日、チャーシューはおれに希望の片鱗を見せてくれた。「自分の生き方は自分で決めたい」と涙に濡れた彼女の瞳の奥には揺るぎない強い光があった。

コラさんの本懐を遂げるために、強大な敵とどうやって差し違えるか……自分の死に方を求めていたおれに言い放ったチャーシューの「生きる」という決意は、まさに希望だった。
そこから胸に宿った光は、温かくも力強く、いつも隣でおれの背中を支え続けてくれている。


彼女の滑らかな手を取れば、照れてはにかむように笑う姿をいつまでも見ていたいと思う。2人きりの時にはお互い名前を呼び合い、そっと甘い囁きを投げ掛けると頬を染める彼女は、思わず胸にかき抱きたくなるほど愛おしい。


一夜限りの関係ばかりだったおれが、初めて大切にしたいと思っている存在だ。だからこそ、今の関係から抜け出せずに足踏みばかりしている。それが歯痒くもあり、心地よくもあった。
そして自分が単なる一介の人間だという、どうしようもない事実を何度も思い知らされた。


「なぜ、あいつが……」
「あの女性と知り合いですか?」
「めっちゃ綺麗じゃないですか。どこで知り合ったんですか?」


ペンギンが不思議そうに首を傾げる。シャチも訝しげにおれに矢継ぎ早に質問を投げかけた。いや、なぜ気づかねェ。訝しげな視線を返すのはむしろこっちの方だ。


「どう見てもチャーシューじゃねェか」


結い上げた彼女のうなじから伸びる首筋が美しいこと、睫毛に光が落ちて艶やかなこと、口角の上がった唇の形が可愛らしいことも、いつもは揃いのつなぎに隠されているメリハリのある身体の滑らかな曲線も。純白のドレスは彼女の透明な美しさを際立たせていた。

いつもはラフな格好ばかりしている彼女の見れない姿は見目華やかだったが、いかんせん着ているものが問題だ。何故、ウェディングドレスを着ていると疑問に思うよりもまず先に湧き上がったのは、怒りだ。


逃げ出す事を許さないかの如く、人に囲われながら連れられて歩く彼女はこちらに気づきもしない。いつか、チャーシューが望めばそのドレスを着せるのは自分だった筈だが、その特権を一体あいつはどこのどいつに許した。
太陽光を浴びた彼女のドレスの刺繍糸がキラキラと生地を輝かせる。彼女の姿が美しければ美しいほど、酷い憤りが煮えくるかえるような気さえした。


「あー!いたー!キャプテーン!!」


遠くから聴き慣れた足音と大きな声に一同振り返る。大きな体でドタドタと走ってくる姿は往来でも目立った。


「はい!キャプテンに、って」


差し出された上品な質感の小さな手提げ袋は大きなベポの手には不釣り合いに感じた。
袋の中を見れば、小さな小箱と青いメッセージカードが入っていた。中身を見るために、シャチが傍からおれの手元に顔を覗かせる。


「……!!」
「船長……!これって……!」


"Thank you for everything."


右上がりの筆跡はまさしくチャーシューのものだった。
自分の気持ちを言葉にする事がうまくなくて、それでも一生懸命思いをおれに伝えようとする姿はいじらしい。しかし、彼女が残したこの一文に、おれは頭を殴られるほどの衝撃を受けた。


「"今までありがとうございました"……?」


ペンギンが不穏な言葉を読み上げる。
彼女が残したメッセージは、相手に感謝の気持ちを伝えると同時に別れの言葉でもあった。直訳すれば、何もかも、ありがとうございますと、多くのことに礼を言う文面だが、この言葉は基本的に別れの挨拶だ。

街中を通り過ぎて行った花嫁衣装を着た彼女が、このメッセージを残していったことへの不穏さが胸中をざらりと撫でる。


「これじゃあ……」
「キャプテンどうします?」


これじゃあまるでおれたちとの別れの決意だとシャチもメッセージを見て呟いた。ペンギンがこちらを見上げておれの意図を汲もうとする。ベポだけは事態をよくわかっておらず、え?!船を降りちゃうの?!と目を白黒させているが、結論を言わせりゃァ……


「勝手に船を降りる奴があるか」


みすみす手放すわけがない。

あいつの性格上、何かに巻き込まれたに違いないが、船長を差し置いて勝手に船を降りることは許さない。本人の意思だとしても、そうでなかったとしても、彼女を誰かに明け渡すことなど到底受け入れることなどできるわけがなかった。


「迎えに行くぞ、あのバカを」


メッセージカードを袋の中に放り込み、鬼哭を担ぎ直して彼女が歩いて行った先を見据えた。シャチが待ってましたとばかりにヒュウと安い口笛を吹く。


「ログは」
「日が暮れる前には」


ペンギンがベポに目配せしながら答えた。ベポも頷いている。さっさと彼女を奪い返して島を出てしまおう。仮に何かの事件に巻き込まれたなら尚更だ。

奪われるのは性に合わない。
海賊なら、欲しいものは奪い取ってみせるべきだ。彼女の真意は分からないが、それは後々ゆっくり聞けば良い。


「ちょっと待った!」


勇足で歩き出そうとしたおれをシャチが大声で止める。一体なんだと彼を見やれば、シャチは人差し指を立ててニヤリと笑った。


「いーい考えがあります。サプライズしてやりましょう」





*******




あれからそう時間もかからず、私に似た彼女を追っていた人たちに予定通り捕まった。そしてそのまま、結婚式までに時間がないと大慌ての彼らに近くのブティックに押し込められ、猛スピードの身支度が始まる。

ブティックの店員に大急ぎで言いつけて私の花嫁衣装の準備をさせる彼らは、急いでいたからなのか彼女と他人の私とが入れ替わっていることに気づきもしない。
顔も見たことのない相手との結婚だと聞いていたが、この島から逃げる彼女との結婚は形式でしかないのか。白いマーガレットの髪飾りは確かに象徴的だが、仮にも花嫁の顔を服と髪飾りでしか覚えていない程度なのか。そんなのことを思わせるほど、彼女自身への関心は無いようにさえ見うけた。


(そりゃあ、嫌なわけだ)


コルセットを身につけ、髪を結い上げ、水化粧を肌に施し、ブティックの店員が私に似合うドレスを用意する。


それなりに時間をかけた婚礼の用意が済めば、その足で街並みを通り抜け、あっという間にバージンロードの前に立っていた。

通路の左右に並んだいくつもの座席には、先ほど私を追いかけていた同じ黒いスーツを着た人たちが着席している。やり取りの中から親族と言うよりも彼らは部下やメイドだという事が推察できた。
形式でしかない立会人たちに、やはりこの結婚式自体にそう多くの意味はないのではないかと、ヴェールから視界の端に映る光景を盗み見ながら一歩一歩、前に進む。


壇上に登った際に向き合う結婚相手の男の顔も、なんだかパッとしないし惹かれもしない。まさか自分がこんな気持ちで教会に立つことがあるとは思わなかった。

指輪の交換で左の薬指にはめられた指輪がぶかぶかで、なんだか冷めるというよりも寂しい気持ちにさえなる。この結婚式は彼女の幸せに続く道ではなかったのだろう。そして、彼女でなければいけないものでもなかったんだろう。

指輪が抜け落ちないように指を曲げて、拳を握った。
世の中に疎い私でもわかる。結婚って、きっとこう言うものじゃ無いはすだ。

私だって純白のウェディングドレスに身を包み、船長と結婚式を挙げられたらどんなに嬉しい事かと雑誌の特集を読んで思いを馳せたことはある。けど船長はそういうの好きじゃないし、というかまだ付き合ってもいないのだから夢みたいな話でしかないと開いた雑誌は閉じて捨ててしまった。

ウェディングドレスに憧れはあるけれど、大切なのは形よりも在り方だ。船長の側にいられるのなら結婚式が挙げられなくたって、ウェディングドレスが着られなくたって構わない。

こんな形式だけを踏襲した結婚式より、ずっと良い。



「ーー健やかなる時も……」


神父が誓いの言葉を私たちに求めるが、後ろのステンドグラスから差し込む少し西に傾いた光が眩しくて美しいと、よそ見をしていた。


「新婦、誓いますか?」
「…………」


何も言わない私に会場に静かなざわめきが起こる。
永遠を誓う相手は後にも先にも船長しかいないのに、大人しくこんな茶番に付き合うのもなんだか馬鹿馬鹿しくなってきた。こんな気もそぞろな花嫁が神の前に何を誓うというのか。身代わりをした上で言うのもなんだが失礼にも程がある。

彼女は無事島を脱出することができたかな。
彼と合流することは叶ったのだろうか。

何にせよ、そろそろ彼女たちのための時間稼ぎも十分にできたと思う。船長やベポに仕込んでもらった体術で新郎を殴り飛ばした後に、ガラスを突き破って脱出でも測ろうかと逃走経路を横目で再度確認した。


「6番目の妃では不満か?」


無言を貫く私のヴェールに手をかけ持ち上げる。
白いチュールに覆われて見えにくかった視界が晴れて、男と目が合った。優しく細められているように見えるが、傲慢さが滲み出て隠せていない。誰がお前の妃になんかなるか。握り拳を固めたシルクのグローブがギュッと小さく音を立てた。

軽く膝を落として、相手の顎に拳を叩きつけようとしたその時、


「ちょっと待ったーーー!!!!!」


教会の扉がバン!と豪快な音を立てて大きく開き、眩い光が厳かで薄暗い会場を照らした。扉の向こうには逆光の中誰かが立っていて、後光が差した神々しい存在を連想させた。

徐々に目が光に慣れて見えたのは、大太刀の鬼哭を肩に担ぎながら隣のシャチになんでおれがと不機嫌な文句を言う船長と、それを宥めるシャチ、その後ろで長槍を構えて笑うペンギンだった。


「船長……!その格好は……」


思わず呟いたのは船長の服装を見たからだ。
白いタキシードに黒のベストをきっちりと着こなした姿はスマートかつ洗練されていて腰が細い彼のスタイルの良さをさらに引き立てている。濃い目のグレーのシャツは彼の日焼けした肌によく馴染み、はっきりとした顔立ちに似合っていた。黒いネクタイは結び目の下に小さな宝石がワンポイントに遇らわれていて、シンプルだけど上品にまとめられている。

だけど船長は普段そんな格好しない。
まさか教会に強襲を仕掛けるからと言って新郎みたいな格好で乗り込んできたら、まるで私を奪い去りにきたみたいじゃないか。


そんな私の驚愕と思惑を読み取ったかのように船長はこちらを見据え、不敵に笑う。目の奥で笑った瞳は余裕と自信を湛えていて、逆光だというのにやけに印象的だった。


「悪ィが、そいつには先約がある」


耳慣れた振動音と青い膜にあっという間に包まれたかと思えば、腰に手が回る。その感触は随分と身近に感じていたもので、無条件の安心感を生んだ。力強くその胸元に引き寄せられると、船長が鬼哭を横に一閃に振るう。

太刀筋に入って斬られたスーツの男女の叫び声が教会中に反響し、会場が一変して恐怖に染まった。
綺麗に胴体が分かれた人もいれば、片足や半身が切られた人もいるし、あのサングラスかけた男の人なんて悲鳴を上げる首だけがゴロゴロと床を転がっている。

くっつければ元に戻るんだけどな。船長の能力を知っている私からしたら、落ち着いて自分の部品を探せば良いことは自明のことなのだけど、わざわざ敵にそれを教えてやるほど馬鹿じゃない。混乱しているなら返って好都合だ。

一瞬にして阿鼻叫喚に包まれた教会で、船長の攻撃を逃れた人たちが武器を持ってようやくワラワラと臨戦態勢を取り始めた。教会の壇上にいた結婚相手だった男は腰を抜かしながら、何かを叫んでいる。


武器を持った複数人が、じりじりと距離を詰めようする。ドレスじゃかなり動きにくいけど、反撃くらいならできるだろう。高いヒールを履いた足を一歩後ろに軽く引いた。だが、すぐさま私たちの後ろから二つの影が飛び出す。


「よいしょー!」
「どっこいしょー!」


息の合った掛け声と連携プレーでどんどん敵を倒すのはシャチとペンギンだ。シャチがこちらを振り向きながら、ここは任せろと親指を立てた。その隙を狙ってサーベルを振りかぶったスーツの男性を、ペンギンが槍で薙ぎ払う。


船長が私の背中をトンと叩いたことを合図にして、私たちは走り出した。わかってはいたけど、あまりの走りにくさに辟易してため息が出そう。
ドレスは嵩張るし、何よりヒールが高くて地面を蹴りにくい。長いトレーンが地面を引き摺って重いし、ヴェールが風を受けて後ろにはためいた。

いっそヒールを脱いでしまおうかと思うが、そうすればドレスの長い裾が足に絡まってもつれるだろう。なにより私は他の誰かのシンデレラになるつもりなんて無かった。脱げた靴を置いて、船長以外の誰かと結ばれるなんて想像はしたくない。
だから、走りにくいことは我慢するしかない。


隣を走っていた船長がふっと視界から消えると、背中と膝裏に腕が回った。ひょいと足が地面から浮くと、真っ先に見えたのは、高く青く澄んだ空だ。規則正しく揺れる振動に視界が上下に動く。


「落ちるなよ」


身体に響いた低い声の主は、透明に冴えた青空を背に私に優しい影を落とした。細められた瞳は先ほど見た男の視線とは全く違う柔らかさで、愛情に満ちている。振り落とされまいと恐る恐る彼の首に手を伸ばせば、満足そうに片方の口角を吊り上げた。


秋の肌寒くも爽やかな風と、海が近いのか荘厳な音楽にも聞こえる潮騒の音、天高く青い空が美しく吹き抜けて、心を晴れやかにする。まるで門出を祝っているみたいだと夢見心地に思う。
好きな人が意図せず迎えにきてくれた事実に、迫り上がる幸せに胸がじんわりと熱くなった。思わず甘えるように船長の肩に頬を寄せれば、それを許すかのように抱きしめる力が強くなる。


島の西の端に近い崖にたどり着くと、船長は一度私を地に下ろした。その時、握りしめていた拳が解けて、ぶかぶかの指輪がするりと指から抜け落ちてしまい、あっ、と小さく驚きの声が出る。シルバーの指輪は光を反射してキラキラと輝きながらと空中に放り投げ出され、そのまま海に吸い込まれていった。

何故だか、ごめんなさいと、誰に言うもなく心の中で謝りたくなる。きっとあの指輪は誰かの縁を結ぶことを期待していたのかもしれない。その願いを叶えてあげることができなかったことを、煌めきの余韻を残した虚空に後ろめたく感じた。


そんな私の横顔をじっと見ていた船長がごそごそとスーツのポケットに手を突っ込んで何かを取り出す。 そして私の軽くなった左手を取り、薬指に新たな重みを与えた。


「お前にはこっちの方が似合う」


そう言って添えられた薬指にはほとんどぴったりの、立て爪の指輪が当てはめられていた。真ん中にあしらわれた一粒のブリリアントカットのダイヤは、キラキラと鮮やかな光彩を放っている。

大きすぎず小さすぎない、手の骨格に合った指輪は私の指先を美しく魅せた。同じ指輪だというのに先ほどのものとは打って変わって、その輝きから目を逸らせない。指輪を見るためにひっくり返した手の甲が、震えた。

指先から、足の先から、頭のてっぺんから、ジワジワと滲み出て身体中を駆け巡った衝撃を理解する頃には、視界が波打って、目頭が熱くてたまらない。


「色んな順番を、すっ飛ばし過ぎですよ」


そんな軽口を叩いても、涙声は誤魔化せなかった。目の前にいる船長の顔はこみ上げてくる熱さでどんどん霞む。

頭を柔らかく一撫でしておでこにキスを落とされると、ポロポロと瞳からこぼれた涙の粒が頬を伝った。
鼻の奥はツンと熱くなり、わんわんと破顔して泣く私を船長は仕方ない奴だなとため息をつきながら抱きしめた。

幸せ過ぎて泣いたことは生まれて初めてだ。
目に溜まった水分の膜が、いよいよ傾き出した太陽の光を受けて眩しい。溢れた涙の粒がぽたぽたと球体を保ってキラキラと地面に落ちていく様をみて、自分の涙まで美しいと自画自賛してしまいそうだ。


「船長のこと、絶対、幸せにじまずね"っ」
「そりゃァ楽しみだ」


船長の腕の中で半ば叫ぶように言った言葉に、私の背中を優しくあやすように撫でながら、船長はクツクツと笑った。岸壁を叩きつける潮騒の音が、大きな音楽にも拍手にも聞こえてくる。

船長が私からほんの少し身体を離して内ポケットを探ると、チェーンに留められた懐中時計を取り出した。
雪の結晶の装飾が施されたそれは、私が船長にプレゼントしたものだ。

思った通り彼に似合っていて、片手でパカッと蓋を外し目線を落として文字盤を読む彼の長い睫毛を見て、このプレゼントを選べた自分が誇らしく思えた。


「そろそろだな」


私の腰に手を回したまま崖のきわに進み出でて、海を臨む。深く青い波立つ海にオレンジ色に染まる太陽が近づき、海面に一筋の光の道を作っていた。それがやけに心に染みて、大きく吸った息を一つ吐き出す。


「メッセージの通りなんですが、船長には感謝したいことが沢山あるんです」
「……ありゃ、別れの言葉だぞ」


全く想定していなかった船長からの返答に、え"!?っと裏返った驚愕の声を上げると、船長は肩を落として溜め息をついた。そして、「ドジだな」と、首を傾けてこちらを見下ろした口角は上がっていて、蜂蜜色の瞳は甘く細められる。

彼は長い指の背で私の頬についた涙の跡を拭い、頬を撫でた。その優しい掌に頬擦りすると、顎に手をかけてクイと救い上げられる。

そうする事がまるで当たり前のことのように瞳を閉じると、甘く柔らかい感触が唇に触れた。いつもよりも幾分も高いヒールを履いているから、船長とキスをする時に背伸びをしなくて良いな。なんて、さっきまで邪魔だと思っていた高いヒールを都合の良く感じがらしっとりと吸い付く唇をじっと合わせる。まるで、誓いの言葉を交わすようだ。

軽く触れ合った唇は、最後に私の唇をひと舐めして離れた。間近に見える黄金の瞳が夕日の明かりを取り込んで、美しく煌く宝石と見紛う。

コツンとおでこを彼のおでこにあてると、小さく笑う船長の柔らかくて甘やかな雰囲気に、幸せってきっとこんな形なのだと予感させた。


もう一度唇を触れ合わせようとした時、ザザーッと大きな波音が立つ。
次いで、キャプテーン!と大きな声が崖の下から聞こえて身を乗り出して覗き込めば、馴染みの黄色い潜水艦が海上にその姿を表していた。タイミングが良いなと呟く船長は少し残念そうにも見えて、それがまた愛おしい。


「船長」
「ん?」

「お誕生日、おめでとうございます」


船長に差し上げられるものはそう多くないけれど、私の全てでよければもらって欲しい。


右手をかざす船長は、上機嫌に唇の端を上げた。
空気を震わせる音とサークルに包まれ、腰を強く抱かれる。

二人が消えたあとに残るのは、夕陽を浴びたマーガレットの髪飾りだけで、私たちはまた1年……いや、その先までずっと、一緒の時を刻みながら航海を続けるのだ。



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