4.たったひとつ、掴むために
大きく船体が揺れて、思わず壁に手をついた。
ガタガタと音を立てて上下左右に振られる船の手すりを、咄嗟に伸ばした手でしがみつく。
何が起こったのか確認するより早く、船内にいくつもの喧騒が響いた。
「急速潜航する!!」
「このままじゃ沈んじゃうよ!」
「何とかしろ!」
慌てふためく声に全身で緊迫感を受け取った。
後ろを振り返り、船尾の分厚いドアの小窓から海中を確認すると大きな氷の柱が次々と船に迫っている。
自然災害級の攻撃が、自分たちに真っ直ぐ向かって牙を向けてくる様は目を疑うほどの光景で、目の当たりにしてしまえば一瞬で足が凍りつきゾッと背筋が寒くなる。
マリンフォードの上空から恐ろしいと思って遠目で見ていた攻撃が、今まさに自分たちに向かって放たれているのだ。
「当たる〜〜!!!全速力だ!!!」
「海底へ!!!」
それらを振り切り、躱そうとするも、押し寄せる氷塊が海流を生み、小さな潜水艦では海流に揉まれてスピードがうまく出せない。
追手は攻撃の手を緩めることなく更なる追撃を繰り出してきたのか、大きな氷塊を割っていくつもの光の弾丸が注がれた。
息つく間もない攻撃の嵐をすんでのところで回避し、何とか当たらずに済んでいるが、ぶつかったらひとたまりもないだろう。
考えている時間は無い。
カバンから一冊のノートを取り出すとザッと紙を雑に捲り、目当てのページを見つける。
そのページを開いたまま、ノートは床に投げ置いた。
ページに書き記した羽根の構造を目に焼き付けて、手を胸の前に組む。
ーーローさんに貸していただいた図鑑に載っていた、海の中を飛ぶように泳ぐ「ペンギン」ーー
この羽根を船体に生やせば、海中でも船はバランスを取り戻し、急速潜航を可能にするだろう。
海の中で羽根を生やすなんて芸当、今までやってみたことも考えたこともなかった。
けど、やるしか無い……!!
意識を集中させて、潜水艦の船体に翼を形成し始める。
「……うっ、」
足元がふわりと浮くような重心を失う感覚に襲われる。それから全ての力を奪う異様な程に強い倦怠感が全身を支配し、膝から崩れ落ちそうになった。
だけど、今ここで倒れる訳には絶対いかない。
揺れる船体に氷塊や光の球が当たったら、船のみんなは海の藻屑へ消えてしまう。
そんなことにはさせたくない。
お願い……!!
額から汗が流れ落ちて、頬を伝う。
悪寒が背中を這い上がった。
それでも、胸に組んだ手を緩める訳にも諦める訳にはいかない。
ーーいけ!
ガダガタと激しく揺れた船体が、一瞬、止まった。
「今だ!!!!!!」
ジャンパールさんの声が船内に響き、体がぐんと後ろに引っ張られる。
「このまま逃げきれ!!」
他の船員も続いて叫び声を上げた。
それと同じタイミングで、
ズドン!!!
「……ぅ!ぁぁ、ぁああああ!!!」
いくつもの灼熱が背中に刺さった。
数秒遅れてそれが痛みなのだと理解するも、まるで銃弾を受けたような痛みに上手く呼吸が出来ない。
まさか船内で背後から撃たれるようなことはない。
十中八九、船に生やした羽根が被弾したんだ。
そんなことを確認する間もないまま、あまりの痛みに意識が遠のいた。
いつの間にか頬は冷たい床に押し付けられている。
立ち上がろうにも身体中のどこにも力が入らず、どんどん遠ざかる視界に成す術もない。
背中にドクドクとした痛みと、背筋を伝う血液を感じながら私は意識を手放した。
*******
「脈拍は安定しています」
一定のリズムを刻むモニターを見ながら伝えると、キャプテンは、そうか。と安堵のため息をつく。
麦わらルフィとジンベエの手術は数時間にも及び、特に麦わらのルフィの損傷は激しさを極めた。
一体全体、どんな無茶をしたのか。
文字通り身も心も限界まで酷使した結果に負った数々の深傷は、彼の命をこれでもかというほどに脅かした。
この船の医療設備がなければ、そしてキャプテンの類稀なる医療技術がなければ、重体の命を繋ぎ止めてやることもできなかっただろう。
麦わらの命を救おうとするキャプテンの手術は鬼気迫って無駄がなく、的確で正確だった。
一瞬の気の緩みもミスも許されない、まさに綱渡りの数時間を俺たちは固唾を飲んで見守り、側で支えた。
キャプテンの技術と麦わらのルフィの並々ならぬ気力。この二つが、麦わらの極めてか細い命の一本の糸を断ち切らせなかった。
どちらかが欠けてはこの奇跡は実現しなかっただろう。
麦わらのルフィと海峡のジンベエという二人の男たちの命を繋ぎ止めたという意味で、キャプテンがマリンフォードに向かった判断は正しかったかも知れない。
それが今後どんな出来事を導くのか、今はわからないが……。
キャプテンは人の命の重みを知っている人だ。
そこに敵も味方も無く、命を助ける理由に打算など無いのかもしれない。
多くを語らない彼の胸中は、彼のみが知っている。
かつて自分自身もキャプテンに命を救われた身だ。
一度は千切れてしまった右腕の手術痕が、今では自分の誇りだと言える。
不意に、ショウトの顔が浮かんだ。
彼女もまた、キャプテンに助けられた命の一つだ。
俺たちは彼女を受け入れたくているのに、彼女はどう思っているのか。あの花のような朗らかな笑みはどこかで明確な一線を引いていた。
特に、彼女が怪我だらけでこの船に乗った後よりも、グラン・カルバナル号から戻ってきた時の方が、その境界線は濃くなった気がする。
彼女にも彼女の心情があるのだろう。
自由を尊ぶキャプテンがそう望むように、いつか彼女が自らの足でその一線を乗り越えてくれることを、俺たちは出来る限り待ち続けたい。
スースーと呼吸器を通す一定のリズムが、目の前の患者の存在を強く意識させる。
今は峠を越えて、麦わらのルフィは呼吸を助ける器具をつけて深い眠りについていた。
いつ容体が急変するか分からない。
しかし出来ることは全てやった。
俺たちにできるサポートはあとは見守るだけだ。
ここからは本人の気力で地獄の淵から這い上がってくるしかない。
呼吸器やさまざまなコードに繋がれた麦わらのベット脇に、抜身の妖刀、鬼哭が突き立てられている。
麦わらの深く深く沈んだ意識に死の気配が近づいたとしても、鬼哭が寸分の隙もなく警戒の眼を光らせているようであった。
がんばれ、麦わらのルフィ。
シャボンディで見せつけた、天竜人を殴るほどの常識はずれで、生命に突きつけられた困難を乗り越えてくれ。
じゃないと、俺たちやキャプテンが危険を侵して駆けつけた意味を失っちまう。
残った細かな処置を施し、手術の内容についての記録を残す作業にキャプテンは取り掛かった。
いよいよ手伝うこともなくなった俺はシャチと共に手術室を出る。
「はー……まじで、逃げ切れて良かった」
「だよなー」
シャチが安堵の溜息をつく。
ドッと緊張の抜けた俺たちは、背中を丸くして船内の通路をいつもよりゆっくりとした足取りで歩いていた。
急速潜航がうまく行ったから、あの海軍からの猛追から逃げ切れたようなものだ。
……それにしても、あれだけ揺れていた船内がほんの一瞬凪いだのは、ただの偶然だっなのだろうか。
あの奇跡みたいなタイミングがあったからこそ、酷く危機的な状況を切り抜けるきっかけが生まれた気がする。
「ペンギン〜〜」
舌を出してヘロヘロになったベポが怠そうにこちらにすがるように駆け寄る。
「もう浮上しようよ……おれ、暑くて限界」
「わー!やめろよ!汗つけてくんなよ!」
汗でビショビショだと言うベポが、俺とシャチをじっとりと湿った毛皮で抱き込んできた。
「た!大変だ……!!」
そんな俺たちのもとに、クリオネが駆けつけて叫ぶ。慌てふためく彼の様子に、戯れあっていた俺たちも動きを止めた。
「海軍の船が……!」
「何だって?!」
マズい。こんなにも早く追手に追いつかれるとは。
今キャプテンは麦わらのルフィの処置を続けているし、手術の疲れもそうだが未だ重体の患者を看ているのにすぐさま戦闘はさせられない。
俺もシャチもベポもお互い顔を見合わせて頷き、甲板に駆け出した。
勢い勇んで出入り口の分厚いドアを開けると、そこには黒髪を靡かせた美女が一人、立っていた。
立ち姿だけでハッと息を飲むほどに美しい女性には、見間違えるはずのないほどの覚えがある。手配書でさえ隠すことのできない美貌の持ち主だ、間違えるわけがない。
「海賊女帝……?」
思わず口をついたのかシャチが呟くと、その美女はこちらに視線を向けた。不遜で冷たい印象を与える目線を向けられるだけなのに、心臓が高鳴るのは男の性だ、仕方ない。
その証拠に隣のシャチも彼女の視線だけで、だらしない顔をしている。
「ルフィの容態はどうなのじゃ………!!!」
しかし女帝から飛び出した第一声は意外なものだ。
語調を強めて俺たちに尋ねたのは、麦わらのルフィのことだった。
「よくおれ達がここに浮上してくるってわかったな。海軍がまだ追跡してきたのかと思ってキモ冷やしたよ」
余計なことを考えていたら、恐れ多くもベポが女帝に向かって話しかけ始めた。ミンク族の彼にとって、海賊女帝の醜美は関係ないことなのかもしれない。
しかし勝手に話題を逸らしたことに、女帝からとんでもなく強い語調でピシャリと言い返されてしまった。俺たち喧嘩したってベポのことをケモノって言ったことないぜ……と、彼に放たれた言葉に多少なりとも同情したし、打たれ弱いベポはしゅんと項垂れて謝罪している。
まあ、といっても。女帝に話しかけてもらえるのなら、どんな罵声でも俺だったら歓迎したい。
そんなやり取りをしていたら、ガチャと船のドアが徐に開く。手元についた血をタオルで拭いながらキャプテンが現れた。
「やれる事は全てやった。オペの範疇では現状命は繋いでいる……だが」
「………」
俺たちの騒ぎが聴こえていたのか、キャプテンは麦わらのルフィの状態について淡々と口を開く。キャプテンが表情を変えずに話す手術の結果を、海賊女帝は一言も漏らさないように息を飲んで聞いているようだった。
「有り得ない程のダメージを蓄積している……まだ生きられる保証はない」
告げられた、予断を全く許さない状態。
女帝の目に宿った隠しきれない動揺と心配の色に、彼女と麦わらの関係は一体どんなものなのだろうと疑問を抱いた。
「それは当然だっチャブル!!!ヒィ〜〜〜ハ〜〜〜!!!!」
「何だあいつら!!」
突然海軍船から聞こえてきた大声とデカい顔に、俺は思わず叫んでしまった。
聞けばインペルダウンの囚人で、麦わらの味方らしい。カマバッカ王国へ行くとか、ニューカマーがどうとか言っているが、俺もシャチもベポも、その珍妙な格好をした男どもに一歩足をずり下げた。
「麦わらボーイはインペルダウンですでに立つ事も出来ない体になっていたのよ!!よくもまァあれだけ暴れ回ったもんだっチャブル!!!」
全ては兄である火拳のエースを助けたい一心からだと言う。彼の必死な姿はショウトが映した電伝虫の映像から知っている。
噴煙が立ち登るあの戦場で、誰よりも真っ直ぐに処刑台を目指していたのは、まさしく麦わらのルフィだった。
「その兄が自分を守る為に目の前で死ぬなんて…神も仏もありゃしない……!!精神の一つや二つ崩壊して当然よ!!!」
「何という悲劇じゃ……できるものなら、わらわが身代わりになってあげたい…可哀想なルフィ……」
デカイ顔の男が深刻そうな顔でそう分析する。
確かにもう少しで救えた命だった。
自らの手の内に、光を掴みかけていた。
それなのに目の前で零れ落ちた命を誰よりも実感してしまったのも、他ならぬ麦わらのルフィ自身だっただろう。
それよりも、さめざめと泣く女帝の姿を見て、(い、いいなー……海賊女帝にあんな風に想って貰えて)と、場違いなことを考えていたのは俺だけじゃ無い。
少なくともシャチだって絶対考えてた。
なんだよ、うらやましいだろ、ふつうに。
「ところでヴァナタ、麦わらボーイとは友達なの?」
睫毛をバシバシさせながら、女装をした男はキャプテンに尋ねた。
「……いや。助ける義理もねェ」
先日のシャボンディで初めて顔を合わせた、言ってしまえば敵同士だ。
キャプテンが何故マリンフォードに出向いたのか、そよ胸中はハッキリとは分からないが、キャプテンも麦わらも最悪の世代と呼ばれる者同士なだけで、もそもそも友達でも何でもなかった。
「親切が不安なら、何か理屈をつけようか?」
何故助けたのかを問われれば、いくらだって後付けの理由は付けてやれる。だが、全てはどんな行動をしたかの結果でしかなく、理由なんて何でも良いってことだ。
「いいえ、いいわ。直感が体を動かす時ってあるものよ」
腕でバツを作って返ってきた言葉に、キャプテンも悪い気はしなかったみたいで口の端を少しあげていた。
俺たちもそれで十分だ。
キャプテンの意思に従って、いつの間にか身体が動いていた。
本当はキャプテンの心の内にはもしかしたら、何かしらの理由があったのかもしれない。
だけど俺たちがここに来たのは、ほとんど直感に近い何かだった気がする。
おい待てって!!
クルーの誰かの、相手を引き止める焦った声に続き、潜水艦のドアが開けられるとそこには海峡のジンベエが息を切らしながら甲板に出て来た。
「"ノースブルー"トラファルガー・ローじゃな。
ありがとう、命を救われた……!!」
「寝てろ。死ぬぞ」
立ち上がることも困難なはずだ。無理に動いたから傷口が開きかけている。
麦わらのルフィもかなりの重傷だが、彼も随分と深傷を負っていた。
彼もまた、絶対安静だ。
キャプテンの言う通り、命に関わる。
それでも、此度の戦争で失ったものがデカすぎて心が落ち着かないのだと重症のジンベエは言う。
そして、女帝同様、麦わらのルフィの心配を口にした。
命を取り留めても、目覚めた時が最も心配だ、と。
「ケモノ!電伝虫はあるか?」
「あるよ。あ…!……あります、すいません」
ケモノ呼ばわりされて、言葉遣いにも気を使い始めたベポを見て俺が思うことは、
「いいなーお前、女帝のしもべみたいで」
そんな感想でしかなかった。
うらやましいだろ、ふつうに。
女帝が俺たちに提案した内容は、破格のものだった。
女帝が所有する九蛇の海賊船を呼べば、凪の帯を潜水艦ごと渡ることができるらしい。
先の戦争で麦わらを庇ったことで、王下七武海の称号を剥奪されていなければ、"女ヶ島"で匿ってくれるとの話だった。
男なら誰しもが憧れる、あの、男子禁制の女ヶ島に入れる。
まさに夢のような提案に聞こえた。
シャチも同じ気持ちらしく、お互い腕で脇腹を小突き合い、喜びを分かち合う。
そんな話をしている真っ最中だった。
潜水艦の扉の前に立つ船員を押し除けて、イッカクが甲板に飛び込んできた。
「キャプテン……!!」
「……?」
青ざめたイッカクの表情に、一同不穏な空気が漂う。
走って来たことで途切れ途切れの呼吸を整えぬまま、イッカクはもう一度声を荒げて叫んだ。
「ショウトが!!!」
「!!」
嫌な予感がサッと甲板全体を撫でて、キャプテンも目を見開いた。
知らなかった。
俺たちに訪れた千載一遇の機会は、人知れず起こされていたものだったなんて。
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