小説 | ナノ


04

目の前には、広い広い、抜けるような青空。


背後を海にしたまま後ろに倒れると、地面から足が離れて、視界が傾く。

太陽の光を一身に受けるように手を横に広げると、身体が完全に宙投げ出された。


潮風と深い水面の気配が、背面を脅かしてジリジリする。太陽の光が眩しくて仕方ない。



いつも空を飛んでいるくせに、いざ飛べないとなると自由落下がこんなにも恐ろしい。足元に地面がない恐怖に、震えそうになる奥歯を強く噛んだ。

ヒュウヒュウと衣装の間を通る風切り音が、どんどん海に近づいていることを知らせる、警戒音に聞こえる。


だけど、逆光の中、同じく空に飛びこんだ細身の背中だけは確かに思えた。
片手で帽子を押さえ、もう片手で鬼哭を持ちながら、こちらに背を向けて飛び降りたローさんの姿が太陽の光を割って目に入る。

たったそれだけで、胸に一杯だった恐怖の隙間に、このまま海に溺れてしまうのも悪くないかな。なんて馬鹿みたいな考えが頭をよぎり、自然と唇の端が上を向いた。


影がクルリとこちらを振り向いて、手を伸ばす。
伸ばされた手を掴むために私も真っ直ぐに右腕を伸ばせば、強く引き寄せられて黄色のトレーナーの色に目の前が染まる。

腰から広がっていたチュチュが、彼と私の距離を離そうと硬く反発している。けれど、少しでもローさんに近づきたいと思った。

海に落ちる不安からだろうか。
それとも私が、彼の腕の中に収まることを求めているからだろうか。


一体どちらなのかなんて、分からなかった。
理由など分からなくても、今は少しも離れたくなくて、彼の黄色のトレーナーにギュッとしがみついた。


轟々と下から音を立てて吹き上げる海風に、短く鼻で笑った声が頭上から降って混じる。その音の心地よさに顔を上げれば琥珀色と視線がぶつかった。


「よく言った」


ニヤリ、いつもの口角を片方だけをあげた不敵な笑み。
それは私が先程、貴族たちの目の前で『夜明け』という禁じられた踊りを舞い、どれ程のことをしでかしたかと喚くトレーロに言った返答への賞賛だ。

「わからないわ」と返した返答は、全くの嘘だ。分からない訳が無かったから、トレーロにもずっと秘匿し、自分の胸の内にだけ記憶し続けた踊りなのだ。

ただ、貴族に反抗しないことへの価値が、私にはもうわからなかった。
シャボンディ諸島で見た、天竜人を殴った麦わらのルフィの拳が忘れられない。ローさんが不敵に前を見据えながら海を渡る姿に憧れた。


落ちれば海。
何も掴まるものなどない、まして飛び移るものもない一面の青の中で、焦りも恐れもない笑みが、やけに美しい。


「"ROOM"」


ローさんの低い声が触れる胸板から伝わり、鼓膜を震わせた。彼の視線につられるように、ぐんと近づいた海面を見下ろす。命絶えるまで、後少し。

だがローさんの声と同時に、水面から黄色の細長い突起が見えたかと思えばどんどんと海面が盛り上がった。

はじめに船首が水面を突き破れば、浮力に従うように船体が海面へ顔出す。

他の船より小柄で可愛らしいその船は、今や私の大好きな潜水艦に間違いなくて。


その姿が見えた時に、何故だろうか胸が詰まって息ができなかった。



「"シャンブルズ"」


一瞬の間に船の看板に足をつけていて、波が船に打ち付ける音がサバンと響く。

良く知っている光景。


少し遅れて、足元にコツンと小さな石ころが転がった。


「……分からないの」
「……?」


声が震える。風が肌を撫でていく冷たさに、頬や目頭の火照りを自覚する。
船縁に波が当たる音だけが規則正しい。


"帰って来れた"


そう思ってしまった理由が、わからない。
私に帰る場所なんて、もう、無いのに。


あの孤児院は燃えてしまって、温かく迎え入れてくれた人たちも灰に消えた。

いつか、この船ともお別れする筈なのに。


地下を抜けてローさんの姿が見えた時、
この船に降り立つ事が出来た時、

何故だか、自分の場所に帰ってきた。そんな安心感を感じてしまったのだ。



甘えて良い関係じゃない。

私たちは契約上の関係で、海賊船の船長と元武器の密輸をしていた賞金首でしかない。


それなのに頭に優しく置かれた手が、温かい。
私の言葉を静かに待つローさんが何よりも大きな存在に見えて、泣きたくなる。

それを悟られたくなくて、太陽が眩しいフリをして目を細めて誤魔化した。


深く、息を吸って、吐く。


「何故、助けてくださったんですか」


『分からない』と言った言葉に続く様に彼に質問をして、自分の気持ちはぐらかした。見上げてローさんに問えば、彼は逆光の中、一つゆっくり瞬きをする。


「約束をしたからだ」


おまえと。言外に言い含めて見下ろすローさんの瞳は柔らかに細められていた。


ーーお前の安全が確認できる島に責任持って下ろしてやるよ


そう彼が約束をしてくれたのは、もう遠い昔の気もするし、昨日の事の様にも思える。

安全が確認できる島で下船させる。
海賊がしてくれた、似つかわしくない約束。

それは、自分の身を挺してまで守るに値する約束なの?
わたしにそんな価値は無いのに。


それなのに、
それなのに、
一度本気で死を覚悟した私が、またこの海賊船の甲板を踏みしめている。


「わたし、ぶん殴ってやったんです」


貴族を……果ては、天竜人を。
この世の革命を示唆すると言う事は、そう言う事だ。

私はきっと世界政府から追われる身になるだろう。今まで付いていた賞金とは意味が違う。
その事実に反して、なんて恐ろしい事をしてしまったんだと言う後悔は、実は、あまりない。


ただ、空や海の青さが目に染みるだけ。
燃える孤児院と共に失ったあの日に、ようやく一つ報いることができたという晴れやかさだった。


「あァ……そうだな」


クツクツと喉で笑う声。
私は吹っ切れた顔をしているんだろうか。

何かの呪縛が解けたように、背中がやけに軽い。

この空の青さも、忘れられない記憶の一つになりそうだと心に刻みながら、澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んで伸びをした。


「おーい!」


船内に続く分厚い扉が開かれて、駆け込んできたのは、まずはシャチ。次にベポちゃん、そしてペンギンさん。


「良かった!無事に脱出できたんですね!」


シャチがローさんに駆け寄りながら、労いの言葉をかける。続いてベポちゃんが、嬉しそうに鼻をヒクヒクと動かして私を力一杯抱きしめてくれた。


「おかえり!ショウト!!」


ーーおかえり。ショウト。


憧憬が蘇る。
午後の夕暮れに、髪を揺らした柔らかい微笑み。
夜の気配を含んだ風を揺らしながら、楽しみに帰った孤児院への帰り道。

もう、帰れない。あの、場所。


「……うん。ありがとう」


ここは私の帰る場所じゃない。
"ただいま"を言う場所は、私にはもう無いから。

言えない一言を飲み込んだ私を、ペンギンさんがどこか寂しそうな顔で見ていた。


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