03
梯子を半ば飛び降りる様に着地すると、「わ!」驚きの声が耳元で上がったことに私まで驚いて叫んでしまった。
「まさか飛び降りてくるとは思わなくて…びっくりした」
「ノーブルさん!?」
ブロンドと蒼色の瞳を持つ彼のスラリとした体躯は、闇に紛れる様な黒い外套に包まれている。
リュムールさんの言った"彼が待ってる"と言う言葉が脳裏を過ぎった。
"彼"とはノーブルさんのことだった?
「地下は冷えるし、舞台衣装じゃ目立つからこれを着て」
そう言って外套を手渡そうとした彼は、私が胸に抱えるノースバードに驚きの表情を見せた。
「ジゼル!怪我をしたのかい??」
怪我に響かぬよう、そっと私からハートちゃんを受け取ると、彼女を労わる様に羽をそっと撫でる。ハートちゃんもそれを心地良さそうに受け入れていて、2人の仲の良さが伝わってくる。慈しみ、寄り添い合うみたい。
「ジゼル…?ハートちゃん、ジゼルって言う名前だったのね」
素敵な名前。
まさかシスターと同じ名前のノースバードに助けられるなんて思いもしなかった。
ーーあなたは必ず生きて!!!ショウト!!!
そう叫んだシスターの声は、私の記憶の奥深いところに焼き付いて離れることはない。
大好きだったシスター。
彼女の名前も、同じくジゼルだった。
「……同じ名前だよ」
思考を声に出してはいなかった筈だ。まるで私の頭の中を読み取ったかのようなノーブルさんの呟きに、思わず彼をジッと見つめてしまう。きっと私の顔は驚きでいっぱいだし、その表情を隠すことなんて出来ていないだろう。
進みながら話そう。ノーブルさんに従い、履いていたトゥシューズと、バックの中に入れていた靴を履き替え頷いた。
「あの、ジゼルという名前は……」
小走りにノーブルさんを追いかけ、我慢できずに早々に切り出した話題。もっと他に聞くべきことはあるだろうに、そんな性急さに嫌な顔一つせずに、ノーブルさんは足早に歩みを進めながら話し始める。
「この船にいた、プリマドンナの名前だよ。
彼女は僕の恩人であり、憧れだ。
ある革命家の振付師と"夜明け"を完成させて、この船を降りてしまったけれど……ノースブルーの何処かの島の教会で平穏に暮らしていると情報筋から聞いていた」
言葉を失う私をちらりと見て微笑むその表情はとても優しくて、少し寂しげだ。
きっとシスターが今は亡き人だと言うことも知っているのだろう。それを敢えて口に出すことは私には出来なかった。
「君をこの船で見かけた時に、驚いたよ。
ジゼルと同じ空気を感じたんだ。声をかけたのは興味からだったんだけど、君の踊りを見てさらに確信した」
ーー僕の初恋の人に、佇まいが似ていたから。と言ったら信じてくれる?
彼に劇場で投げかけられた言葉は、つまらない冗談だと受け流していた。けれど、まさか。
「見てご覧。この船の下層部には、行き場のない住民がたくさんいる」
剥き出しのパイプや配管、冷たい鉄の通路の間ではボロボロの服を纏った幼い子ども達が遊んでいる。
その装いは船上で見た美しい貴族たちのものとは程遠い。
Barロセウスから逃げ出した夜、ぶつかった相手の身なりを思い出した。汚れた麻布の生地はおよそ貴族にはそぐわないと思っていたが、この船の地下にいた住人の誰かだったのだろう。
子どもも大人もノーブルさんを見ると嬉しそうに手を挙げて挨拶をしてノーブルさんもそれに手を挙げて返す。
「僕もここの出なんだ。ジゼルが僕を表の舞台へ引き上げてくれた」
今じゃ歴代のプリシンシパルさ。それは先程見た悪戯なウィンク。リュムールさんも同じ仕草をしていた。
「かつてのジゼルと同じように、僕も貧しいここの住民たちに衣食や働く場を提供している」
外套を翻して、ある角を曲がる。
迷いなく進む彼の足取りについていく。
ほんの少し暖かくて湿った一陣の強い風が通り過ぎると、外套に釣られて背中で青と紫のヴェールが風に靡いてふわりと揺れた。
「このヴェールを届けてくれたのは、ノーブルさんだったんですね」
恐らく、昨日バーでリュムールさんに会った時点で彼女は私の首輪の意味を知っていた。それをノーブルさんにすぐに伝えたのだ。
革命の踊りを踊れるジゼル……つまり、シスターを知るノーブルさんは、私に"夜明け"のヴェールを託した。
私の戦う意志が挫けないように。
「それは……、僕のエゴでもあったんだ」
「エゴ?」
ノーブルさんは空色の瞳に影を落とした。
「"夜明け"を踊れる者は皆、政府の名の下に殺されてしまった。君なら、ジゼルの踊りを僕の目に見せてくれるんじゃないかと、そう期待したんだ」
秘密裏に作られた踊りは、革命に携わったごく数名を除いて秘匿された。当時まだ幼かったノーブルさんは彼女の革命の踊りを見たことがなかったのだと言う。
「そのヴェールは正真正銘、"夜明け"を踊る時にジゼルが使っていたものだよ。彼女が船を離れると言った日にどうしても欲しいとお願いしたんだ」
「そんな大切なものを……」
持つべき人が持つものだ。ノーブルさんはそう続けたけれど、私は立ち止まって首を振った。
そして、つけていたヴェールを丁寧に外して彼に受け渡す。少し寂しそうな顔でそれを受け取ったノーブルさんに、伝えたいことはそうじゃないと微笑み返した。
「今後…、私が"夜明け"を踊る時が来たとしても、シスターの意思を汲んで踊ることは無いと思います」
不安と不可思議を織り交ぜた青色の瞳を開いて言葉を失うノーブルさんに、なおも続ける。
「きっと、その時は……、私は私のために踊るから。
シスターの意思はノーブルさんが守ってあげて下さい」
振り付けの意味は分かっても、シスターがどういう気持ちで革命の踊りを踊ったのか、私にはわからなかった。
革命家の恋人と踊りを作り上げて、その後世界政府に追われるようになった経緯も私は全然知らない。
私には世界政府や海軍を恨む気持ちはあれど、革命まで考えたことはないし、考えることもない。
私には知らないシスターがここには居た。
その記憶を大切に、胸に抱いてきたノーブルさんにこそ、このヴェールは持っていて欲しかった。
「わかった。ありがとう」
私の瞳をジッと見つめたノーブルさんは、不安そうな表情を崩すとふわりと笑って頷く。僅かに頬を染めた彼の微笑みは、年齢よりも少し幼く見えた。
「さ、行こう。"彼が待ってる"」
目の前に続く梯子を登るように促される。
"彼"とはノーブルさんの事じゃなかったの……?
想像できない相手の存在を今更持ち出されて、不安に気持ちが支配される。なのにノーブルさんは早く行ってと私の背中をポンと叩いた。
おそるおそる梯子を登ると、天井は金属の扉になっていた。重くて冷たいそれを持ち上げると眩しい光が差し込んできて目が眩む。
風が木の枝をサワサワと揺すって通り過ぎる草木のざわめきに、出口は屋外なのだと直感した。
白む視界が太陽の光だと理解する前に、何かが立ち塞がって影を作った。
急な暗くなった事でチカチカとブラックアウトする視界が眩しくて、思わず手を翳す。
目の前に来た誰かは、フと小さく笑いしゃがみ込むと翳した私の腕を強引に引き上げる。眩しさに身を縮こませると、背に回された腕が私を支えた。
不思議と捕まったとは思わなかった。
何故か、背に回る腕に親近感を感じたから。
それでも急なエスコートに戸惑い身動ぎをしようとするも、僅かに香った消毒液と匂いに動きが止まる。
爽やかで、少し甘くて苦い、優しい香り。
眩む目が外の光に少しずつ慣れて来ると、そこにいたのは、居るはずのない人。
シトリンの瞳が不敵に細められる。
「随分と、待たせるじゃねェか」
「ローさん……!?」
グイと彼に引き寄せるように、地上に引き上げられて浮き上がった足。不安定に持ち上げられた身体は存外優しく地面に下ろしてくれた。
ここは船の端に近いのか、サクと草を踏んだ感触に続き、海風が頬を撫でて通り過ぎた。
何故?
船は午前中にしか出航できないし、リュムールさんの情報では問題なく旅立った筈だ。
一体何が正しくて、何が違っているのかわからない。
おかしい。
彼が、何故、今、ここにいるの?
混乱する私を他所に、ローさんは周りをチラリと見渡すと海楼石に繋がれた私の左腕を見下ろした。
「君なら何とか出来るだろ?」
「まァな」
後ろから梯子を上がってきたノーブルさんが、私の肩に手を置きながらローさんを見据える。
ローさんは仏頂面でその手を指先で振り払ってノーブルさんに視線を送るけれど、ローさんの表情は逆光になってしまって見えない。
「無事を心から祈っているよ」
「ありがとうございました。この船で、貴方に会えて良かったです」
ノーブルさんに向き合って感謝を伝える。すると、彼は口元に笑みを浮かべながら目をまん丸に開いた。その次には屈託のない笑顔が返ってくる。
太陽の光の下で見た、ノーブルさんの嬉しそうな表情は彼の金色の髪も相まってキラキラと輝いていた。
それは、僕の方だよ。
私の右手を取って、ノーブルさんは頬を寄せる。
まるで、何かを慈しむみたいに。
ああ。きっと、この人は、シスターを心から思っている。
それが私の右手を通して伝わってくるみたいで、ジワリジワリと頬や目頭を熱くする。
私だけじゃなかった。
シスターを想って生きてきたのは。
「お願いがあります。今回の夜明けに纏わる騒動は、全て私の単独犯ということに」
「いや……それは……」
リュムールさんやノーブルさんには誰からも余計な手出しをされたくない。微妙な表情をされてしまったけれど、強い意志を持って彼の瞳を見つめると、降参のポーズが返ってきた。
「敵わないな。強引な所も、ジゼルにそっくりだ」
「ハートちゃんも、ありがとう。怪我をさせてしまってごめんなさい」
滲む視界を誤魔化しきれずに、指で涙を拭う。
ハートちゃんはノーブルさんの腕の中で暴れたかと思えば、その大きな嘴を私のおでこめがけてつついてきた。
「痛ッ〜〜……!!!」
「ジョ〜〜〜!!!!!」
「ハハ、気にするなってさ」
ハートちゃん、お転婆過ぎるよ!
彼女独特の元気の出させ方には毎回泣かされて来たけれど、そのどれもが温かな気持ちにさせる。
私たちのやりとりを笑った後、ノーブルさんは私の後ろに視線を投げかけた。
「後は彼が何とかしてくれるだろう。君のナイトの視線が怖いし、僕は退散するよ」
ヘラりと柔らかく笑って、ノーブルさんは背後に手を振った。チッと無愛想な舌打ちが鳴る。
おい。不機嫌な声に振り向けば、
「いつまでもグズグスしてられねェ。行くぞ」
私に背を向けて歩き出す、スラリとした黄色いパーカー。その後ろ姿が何故だか無性に眩しくて、足が震えて咄嗟に歩けない。
歩き出さない私をローさんは怪訝そうな顔で振り返った。
「ろ、ローさん……あの…」
聞きたいことがありすぎて、何を聞いたらいいかわからない。
呆然と立ち尽くして動けない私を見て、ローさんはハァ……と、大きくため息をついた後、気を取り直してこちらに向き直る。
「飛び方を忘れると、歩き方も忘れちまうのか?」
私の手首にかかる海楼石を指していう内容は、冷静で物静かだけど、意地悪な言い方。片方だけ吊り上げた自信に満ちた笑みが、全身に湧き上がるような安心感と勇気を生んだ。
「踊ってみせましょうか」
私も釣られて小生意気に言い返す。
海楼石に奪われる体力や気力は気のせいだ。それは自分への無茶な気概だと思うけれど、本来なら両腕を拘束するはずの手錠は、幸いにも片腕の自由を奪っただけだ。
「そりゃァ、楽しみだ」
私の返答に気を良くしたのか、そう頷き返してローさんは私の右腕を取り、走り出した。
後ろを振り返れば、ノーブルさんたちの姿はもういない。きっと秘密の地下通路に戻ったのだろう。
見えなくなった彼らの姿に、もう一度「ありがとう」と口元でお礼を呟く。
船の端を目指して走っているのは分かっていた。
だんだんと木々に囲まれていた視界が開けて、鼻腔に届く磯の香りや潮風が、大海原の存在が近い事を知らせる。
だけれど、私たちには船がない。
飛んで逃げれたら良かったのだけれど、生憎海楼石がそれを阻む。
闇雲に何かをする人じゃない事は分かるんだけれど、彼の表情から何を考えているのかは分からなかった。
「あの、ローさん。みんなは…?」
「少し黙ってろ。舌を噛むぞ」
ぐいと腕を引っ張られ、急に感じた浮遊感。
グルリと視界が一変する。
同時にバン!と少し離れた位置で、銃声が響いた。
一瞬だけめちゃくちゃになった平衡感覚の中で、ローさんが一閃を放ったことはなんとなくわかった。
わ、わ、わ。
突如として失われた平衡感覚に、慌てて地面を確認して足を伸ばして着地する。視界が揺れて頭がぐわんぐわんした。軽くふらついた体勢をローさんが腰に手を回して、自分に引き寄せることで支えてくれる。
僅かに鼻につく硝煙の匂い。
武器を運び続けた性分から、嫌でも知っている火薬と酸化臭。
背後には船縁。
青い空と海が広がっている。
「き、貴様……ッ!」
どさりと音を立てて落ちた上半身と下半身は、腕をついてこちらを忌々しげに睨んでいた。彼の手元に拳銃は握られていない。
だがその顔には嫌と言うほど見覚えがあった。
先ほど舞台で戦ったトレーロの護衛だ。以前、私を小屋で襲撃して連れ去ろうとし、さっきは逃げ出そうとした私を阻止しようとした。
「余程、切り刻まれるのが好きらしい」
そんな男を鼻で笑ってローさんは見下ろす。
男はローさんに因縁があるのだろうか。忌々しげに歯軋りをして拳を握りしめた。
「やってくれたな……アグリーダック!!!」
「……トレーロ」
先程の銃声は、怒りに手元が震えている彼が放ったものだ。二度目を撃たないのは、おそらく不意打ちを狙って打った最初の発砲をローさんに躱され、反撃まで受けているから手を出せないのだろう。
しかし怒りに狂ったその声は、今までの私の身を竦ませて、自由を奪ってきた。
目の前の男に、私の全ては支配されてきた。
鎖に繋がれれば抵抗の意思は奪われ、
怒号を浴びせられれば頭は真っ白に染まり、
彼が一歩近づく度、体は震えて縮み上がった。
でも、どうしてだろう。
今はちっとも怖くない。
私が真っ直ぐ見据える視線に、これまでに感じなかった違和感を覚えたのか。トレーロは銃口をこちらに向けながら、猫が尻尾で足元を撫でていくような声色に変える。
「ショウト……、ショウト。あの会場にいたのは、俺の客たちだ。今ならなんとかしてやれる。お前があの場で踊った事は、無かったことにしてやれるんだぞ」
「結構よ」
ピシャリと言い返せば、まるで初めて飼い犬に手を噛まれたかの様にトレーロは驚きと不愉快さに顔を歪めた。
事実、私が彼へ明確に抵抗したのは初めてだ。
彼の焦りを隠せない顔色をどこか意識の遠くで眺める。
「羽根屋、このまま飛び降りるぞ」
ローさんの耳打ち。
しかしこの場から飛び降りたとして、下は大海だ。
海のど真ん中に浮かぶ船から飛び降りれば、真っ逆さまに行き着く先は深い海の底だ。
能力者の私たちは途端に全身の力を失い、海に沈んでおしまい。
ローさんと言えど流石に言っている意味がわからない。
不安を抱いて見上げると彼はトレーロを見据えたままニヤりと唇に弧を描いた。
それがローさんらしくて、根拠もないのに命を預けられる気がした。
一歩も動かず、いつまで経っても服従しない私に痺れを切らしたのかトレーロは青筋を浮かべて喚き散らし始める。
「お前!!一体何をしでかしたのか、わかってるのか!?」
背中にまわっていたローさんの手が、ポンと合図を送った。
それが、全てだ。
ローさんを真似るように片唇を上げて、目前の敵を、目の奥で笑う。
私はトレーロを見据えて、こう、言った。
「わからないわ」
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