小説 | ナノ


03

夢から覚めないような、熱に浮かされた心地がずっと続いている。

茫然自失に舞台袖を抜け、ふらふらと楽屋に引っ込むと、気づけば椅子に座るでもなくその場に立ち尽くしていた。


私は本当に踊りきれた?

ここまでどうやって来たんだっけ?


感情のままに手足が伸びて、重心が乗り、視線が動いた。
客席には沢山の人がいたのに、たった一人に見て欲しかった。



こめかみから汗が顎に向かって流れるのを感じながらカラカラに乾いた喉に唾を飲み込んだ。張り付いた喉が痛いくらいだ。
未だに切れる呼吸を肩で整えても、まだ現実に帰って来た気がしない。


夢みたいだと思った。

熱いと感じるくらいに強く眩しい舞台の照明にあてられて、大勢の観客の中に彼の気配だけを探した。
何もかも自由になった気がした。


いつもと音を取るスピードが違ったかもしれない、間の取り方も変わってしまったかもしれない。
それでもノーブルさんが安定してアシストしてくれたおかげで、悪魔の実の能力で背中に翼を生やした時のように不思議と身体が軽くなった。


視線はおかしくなかった?仕草も変じゃなかった?

自分の役までもを忘れた訳じゃなかったけれど、王子様にローさんへの気持ちを重ねて、客席にいる彼のことばかり考えていた。

舞台の上だけではせめて、彼の心が欲しいと求めてしまった。



だけど、


「ふふ……」


両方の手のひらで顔を覆えば、漏れ出て来たのは込み上げて来た笑いと抑えきれない快哉の渦だった。


「ああ……、楽しかった」


ごめんなさい、ハートの海賊団の皆。
皆のために踊るって決めてたのに、結局のところ私は私自身の為に踊った。

ローさんへの気持ちだけを胸に、頭が空っぽになった。そして、それを最高に楽しんでいた。


舞台の真ん中で音楽に身を任せながら表現できることが、
抱え込んでいた感情を全て役にのせて解放したことが、

すごく心地良かった。
未だに身体が興奮で震えている。


ステージに立った瞬間からあまりにも気分が高揚していたし、その上彼と目があった気がしたから、
思わず内心で言ってしまったんだ。



ーーそんな女の人より、私の方が良いでしょ?



あんなに焦げ付くような思いを抱いたことなんてなかった。心の奥に燻っていた黒い感情が勝手に言わせたと思うくらい、自分でも意図せずスルリと出てきた気持ちだった。


ああ、まずい。
こんなドロドロとした気持ちが喉を通ってお腹に落ちていくことを、最早気持ちいいと思い始めているなんて。役に食われてしまいそう。


早く、息を整えなければ。

無意識の拠り所になっている黒い羽根の入った瓶を握らないと、自分が自分に帰って来られない気がした。それなのにどこに置いたのか咄嗟に思い出せないくらい思考がついていかない。



コン、ドアが一度だけノックされた音に、背後を肩越しに振り返って、思わず息を飲む。


「…、……!」


「よォ」


短く応えた低い声は、誰もいない部屋に良く響いた。


彼が緩く握り拳を作って、顔の位置で拳の内側を見せているのは、内側からドアをノックしたせいだ。



驚きのあまりに言葉を失ったけれど、その代わりに胸が高鳴った。

舞台上であんなに求めていた彼が、今目の前で相変わらずの片唇をあげる笑い方をして立っているのだから。


嬉しい、
うれしい。
会いに来てくれた。
想いが伝わった。


どうやって部屋に入ってきたのかとか、
まだ舞台の途中ですよとか、
そんなのはもう気にならなかった。


ただ、ただ、彼が来てくれたことが嬉しかった。




彼の金色の瞳に釘付けになったまま震える手を伸ばしてみれば、まるでエスコートされるかのような手つきで腕を引かれる。


そのまま彼の腕の中に導かれると、視線はもっと間近で絡まった。


火照った体に、彼の掌は冷たくて心地良い。


呼吸を整えなければと、役にのまれないようにしなくちゃいけないと思っていたことは、彼の視線の前にとうに忘れた。

私も視線を彼に合わせて、唇の端をあげて笑っていたかもしれない。フ、と彼が息を漏らして笑っていたから。


頸の後ろに彼の手が静かに回ってきて、
私も右手は繋いだまま、左手を彼の胸に添えて、

どちらからともなく目をつぶった。


彼の匂いを強く感じた時に、厚くて柔らかい唇が合わさる。
触れただけの唇から、甘い痺れが背筋を通って全身に走り、頭の隅が白くピリピリした。


ちゅ、リップ音が耳に響いて、それにさえうっとりとした夢心地になってしまう。


水が潤うように満たされる。心が渇望して止まなかったのは、確かに、ローさんだった。


夢より素敵な夢ね。


頭のどこか冷静な部分がそう呟いた気がするけれど、それが本当に冷静な感情から湧いたものなのかは知らない。

だって、こんなに満たされる気分なんて知らないもの。




「観てくださったの、嬉しいです」
「あァ、良いもんが観れた」


ローさんの低い声が頭の上から降ってくる。
彼の胸に抱かれながら、それだけでもう胸がいっぱいだった。願いが叶った。それしか今、頭になかった。


逞しい腕の中に包まれると、彼の胸板に頬を預けてみたくなる。まるでそれを許すかのようにローさんが抱きしめる力を少し強めた時、

微かな甘いタバコの香りが鼻をついた。


ザッと冷水を浴びせられたかのように全身に冷たいものが走り、指先が凍った。
今まで震えていた呼吸も、止まる。


「……お連れの方を待たせちゃ、いけませんよ」


添えていた左手で力任せに押し返し、ローさんと身体を半ば無理やり引き離した。

そうだ。彼はこんな場所にまで連れてきていたお気に入りの女性がいたはずじゃないか。


私の気持ちが大きくなってローさんを呼びつけてしまったから、優しい彼はここに来てくれただけな違いない。

お互いそういう雰囲気にのまれてしまっただけだ。
馬鹿ね。彼は船から別れ行く私の、盛大な"独り言"に付き合ってくれただけ。

彼から貰えたキスは、船のために頑張った私へのご褒美だ。


思い上がってはいけない。
それこそ、後から辛くなってしまう。
彼に他の女性ではなくこちらを向いて欲しいなどと、私が望んで良い感情なんかじゃなかった。

あれは、ステージが私にかけてくれた魔法なのだから。
魔法はもう、解けてしまったのだから。


「……あ"?おい、お前何か勘違いしてねェか?」
「勘違いなんて、してません」


くるりと背を向けた私の腕を、ローさんが少し痛いくらいに掴んでくる。
向けられる言葉は少し怒っていて、不機嫌に語調を強められているけれど、もう彼の方を見ることは出来なかった。


「……、支度をしますので」


さっきまで腕の中にいたのに、突然態度を変えた私に呆れただろうか。小さく舌打ちをしてローさんは腕を離した。

それにさえ名残惜しさを感じてしまうのだから、私はとても自分勝手だ。イライラする。


「今日、21時に"ロセウス"という店に来い」


それだけ言い残すと、今度はドアのノブを回してガチャと扉を引いてローさんは出て行ってしまった。



この場に彼が来てくれたことが嬉しくて胸が熱くなる気持ちと、
それは身に余る思いだったと頬を殴り付けられたことが寂しくて情け無い気持ちとが、ごちゃごちゃになって私の胸を掻き乱す。


震える身体を押さえつけるように、自分の身体を抱きしめて、ただただその嵐が過ぎ去る事を待つしかできなかった。


動けない。

こんな感情知らなかった。


ーー誰かを求める気持ちは時に、美しいばかりではないんだよ


ノーブルさんの言葉が頭に蘇って、更に辛くなる。

二律背反で独りよがりな黒々しい感情を持つ私を、私は嫌いになりそうだ。


私の事だけを見ていて欲しいなんて、
誰かと一緒にいないで欲しいなんて、
こんな、価値のない私がまさか貴方に言えるわけないじゃない。


ひと時だけでも、彼の視線を独り占めできた。
それだけで充分な筈だ。

道具として使われ続けた私には、あの船の上でたくさんの穏やかで幸せな時間をもらった。

それで良いじゃない。

これ以上は、もうーー



「随分、辛そうだなァ。俺の最愛の籠の鳥」



聞こえては、いけない声が、聞こえた。


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