04
ちょっと休もう。
そう言われて音楽の音を止められた。
理由は私が一番良く知っている。
リハーサル直前だと言うのに今日のダンスは最悪だった。
気持ちは乗らないし、ノーブルさんのアシストとのタイミングも全く合わない。
明日に控える本番に気持ちが焦るばかりで、ちっとも地に足がつかない。
「少し、風に当たってきます。リハーサルまでには戻ります、ごめんなさい」
頭を何度も下げて練習場にいる人たちに謝りながら、バル・マスケを後にした。
みんな心配そうに見守ってくれるも、引き留めないでいてくれるのは同じダンサーとしての優しさだろう。このまま無理に続けても良いことが無いことを、みんな経験上知っているからだ。
グラン・カルナバルを一望できる時計塔の文字盤の下には、腰をおろせるくらいの広い足場がある。
一人で風に吹かれたい今、この場所は誰にも邪魔されない格好の場所だと思った。
結んでいた髪を解くと、風に髪が吹かれて気持ちが良い。
時計塔から町を見下ろすと、さまざまに着飾った人たちが小さく見える。
ここが観光地であることが大きな要因だと思うけれど、道行く人たちはみんな楽しそうに笑っている。
視線を前に向けると、午後の光に照らされて輝く水平線が見えた。青い波間に、光の粒がこぼれ落ちてキラキラと輝いて見える。
「はぁー……」
こんなに美しい風景だと言うのに、見ていられなくて、膝を抱えてため息をついた。
王子様を誘惑する黒鳥の気持ちがわからない。
仕草や振り付けをなぞることはできても、彼女の気持ちになりきることはできなかった。
それを見事にノーブルさんに言い当てられてしまったものだから、ショックを隠しきれない。
誰かを好きになるなんて、そんな余裕も無かった。とにかく生きるしか無かった。
誰かが私を好きになってくれるなんて、お伽話みたいな話だ。
こんな薄汚れた経歴の自分を好きになる人なんて、いる訳がいないと半ば自分のことを諦めていた。
でもそれじゃあ、今は、ダメなんだ。
「星五つ取るって約束したのにな」
弱気な独り言がポツリとこぼれた。
私なんかじゃダメなのかもしれない。
世の中には愛されていて、そのことに何の疑問もない人たちは沢山いる。
そんな人たちの隙間に、私が入れる訳が無いんだ。
そこまで思考が至って、無性に寂しくて悲しくなった。首元のネックレスの小瓶を握りしめ、もう一度、膝に顔を埋める。
ひゅうひゅう鳴る、風の音だけの世界だ。
太陽は明るいのに、わたしの心だけはどうにも浮かない。
少しだけ顔をあげて、膝の隙間からもう一回、町を見下ろす。男女の恋人が腕を組みながら楽しげに歩いている姿が目に入った。
楽しそうな笑い声がここにまで届いてきそうだと思った瞬間、赤いマニュキアで彩られた綺麗な爪が、ローさんの腕に絡まる昨晩の瞬間がフラッシュバックした。
ザワザワとお腹の真ん中に気持ち悪い感情の渦が沸き起こり、えずいて吐き出しそうになる。
何故今、彼らのことを思い出すの。
私にはローさんがどこで何をしていようが、悲しむ権利も咎める資格も無いのに。
それでもあの女性の美しい指が、綺麗に引かれた赤いルージュが、首元にサラリと靡く髪が、耳元で揺れる大振りのピアスの光が、目に焼き付いて離れない。
「〜〜〜っ!」
何かを叫びたい気持ちになるけれど、このぐちゃぐちゃとした、自分でも理解していない気持ちに言葉なんて付けられない。
ただ、胸の内で黒々とした何かが嵐のように暴れ回って、むしゃくしゃして堪らなかった。
髪をぐしゃぐしゃと乱暴に掻き混ぜながら、声にならない叫びが喉の奥で鳴る。
ジョー!!
頭上から奇妙な鳴き声が聞こえてきたと思うと、バサバサと大きな翼を数回羽ばたかせ、足元にとまった。
「ハートちゃん?!」
時計塔の足場に降り立ったのはハートの鶏冠をしたノースバードだ。
同じ種類のノースバードはこの船にも何匹か居ると思うが、膝に手をつき目線合わせると、人懐っこく頬ずりしてくるのは先程ポーラータング号に降り立っていたハートちゃんに間違い無い。
先程掻き乱したボサボサの髪のままであることを、彼女は嘴で私の頭をツンツンと触って指摘してくる。
慌てて手櫛で髪を整え、教えてれてありがとうとハートちゃんの頭撫で付けた。
気持ち良さそうに自らの頭を掌に押し付けてくる彼女の姿を可愛らしいと思うと同時に、先程の激動のような荒々しい気持ちの揺れが、落ち着いていくことを感じた。
暫く頭を撫でていると満足した様子のハートちゃんが、両方の翼を口元に持っていき、ジョ〜!と海に向かって叫ぶようなジェスチャーをしはじめる。
叫ぶ言葉なんてないよ?そう言うとハートちゃんは憤慨したように、私の腕を嘴でつまみだした。
叫ばなくちゃいけない理由もわからないし、そもそも、先程胸のうちに抱えていた激情をどう言葉にしていいかよくわからないのだ。
だけど嘴でちょこっとだけ肌を摘まれるのはかなり痛い。分かった、分かったよぉ!と観念して立ち上がると、ハートちゃんは満足げに片翼を海の方面に向かって広げた。どうぞ、って意味らしい。
本当に叫ぶ事は無いんだけど、先程から言葉が出てこなくて胸が苦しい。このむしゃくしゃした気持ちをぶつけるのなら、
「ローさんの…
ばかーー!!!!!!!」
「……心外だな」
眼前に広がる海に向かって八つ当たりを叫び、なんだかスッキリした、と胸を撫で下ろしたのと同じタイミング。突然聞こえた予想だにしなかった声に、サァと頭から血の気が引いていくのを感じた。
「ロ、ローさん……」
一体全体どうしてなのか。私が立っている足場の左端にはローさんが立っていて、鬼哭を肩に担ぎながら愉快そうに口元をつりあがらせ、不愉快そうに眉を寄せている。
「お前ェも言うようになったじゃねェか……」
コツリ、コツリ。わざと足音をゆっくり立て、自分の肩に鬼哭の鞘をトントンと当てながらローさんが近づいて来た。
ヤバイ、多分怒ってる。
当たり前だ。目の前で大きな声で馬鹿と叫ばれたら誰も良い気なんかしない。
「ご、ごめんなさい…!」
彼が近づくのに合わせて、その圧に負けるようにジリジリと足が後退する。
ハートちゃんに助けを求める視線を送るけれど、本人はどこ吹く風で、口笛まで吹き出しそうな顔をしている。
こんにゃろ。という気持ちを込めて恨みがましい視線を送るが、彼女の口笛を吹くそぶりは止まない。
「これには深い訳があって」
「おれをバカだと罵る程の、深い訳とやらを聞かせてもらおうじゃねェか」
悪い笑みを浮かべながら着々と距離を詰めてくるローさんに気圧されて、もう一歩後ずさる。
瞬間、後ろに引いた右足が足場に着かずに想像以上に下に落ちた。
あ、と思った時には空中に身体が半分以上投げ出され、ようやく足を踏み外したということに理解が追いつく。
「バカ…!」
咄嗟のことに驚きすぎて翼を出す余裕も無いまま、手だけが前に伸びた。
空中に投げ出されて晴天が目の前に広がる。
太陽の光が眩しいと思った時には、グンと腕を引かれた感触に襲われた。
空が見えていたはずの視界は、黄色いパーカーで埋め尽くされている。
そう言えばシャボンディ諸島でもこんな景色見たことあったなと頭の隅で考えると同時に、背中に回る腕の温かさにローさんが抱きとめてくれたのだとハッとした。
「ドジも大概にしろ」
「……ローさんの所為ですよ」
彼の胸の中で咎められる。
本当は助けてもらったお礼を言うべきだということは頭では分かるのに、何故か今日は素直な感謝の言葉ではなく、憎まれ口が口をついてしまった。
ローさんは私の背中に回していた手を今度は頭に回して、私をすっぽりと抱きすくめる。
「……無理をさせたか?」
ローさんが言っているのはハートの海賊団のみんなの為に、私が五つ星をもぎ取ると言った約束のことだと思う。
抱きしめられながら頭の上から降ってくる優しい声色に、心がじんわりと温かくなった。
先ほど心の中を吹き荒れた風がなくなったわけではないのだけれど、それに耳をつぶるかのように彼の胸元に顔を埋める。
このまま、少しだけ。
ローさんの胸の内で甘えたい気持ちになった矢先、彼からいつもはしないタバコの香りがした。
私の知らないローさんの存在を、タバコの匂いにありありと見せつけられた気がして、思わず彼の胸を両手を突っ張って押し返す。
「任せてください」
ローさんの腕から無理やり抜け出した気まずさや名残惜しさを、笑顔を作って押し殺した。
「ローさんに会えたから、明日は頑張れそうです」
嘘じゃない。タバコの香りが不快となって鼻に纏わりついて取れないけれど、ローさんに会えてよかったことに変わりはない。
あなたがもう、私に優しくする義理などないことは知っている。
あなたがどんな女性と共に過ごそうとそれを寂しく思う事もお門違いなことも分かっている。
けれど、今、会えてよかった。
明日はあなたに恥じない踊りを、踊ってみせます。
白い翼を広げて、ローさんの両手を取る。
羽ばたいて宙に浮かぶと、ローさんは時計塔の縁に立って私を見上げた。
美しいものになど、なりたくなかった。
白い翼なんて今まで生成したことなどあっただろうか。
いつも黒や灰色、茶色の翼ばかりを身にまとっていた。アグリーダックとは、それ故についた異名だ。
だというのに、これは明日への自分の決意なのか。
それともこの船で別れた後にも、ローさんに少しでも美しいものとして、私を記憶していて欲しいのか。
そんなエゴにこの翼の色は似合わないと思うのだけれど、マフィアのボスにどれだけ見せてみろと言われても見せなかったこの羽の色を、ローさんに見て欲しい気持ちだけは間違いなかった。
ローさんの黄金色の美しい瞳に、私の白い翼が映ったことが誇らしい。
羽ばたく白い翼をローさんは少しだけ呆気にとられたように眺めた後、まるで眩しいものを見るように目を細めた。私もそれに笑顔で返事をする。
「明日は、見に来てくださいね」
「あァ」
私と彼の取引は、十分に与えられて終わっている。
だから彼の手をこうして取ることは、もう出来無いのかもしれない。
そう思うと手を離すことがとても名残惜しいけれど、彼と出会った一番最初の時から、それは決まっていたことだ。
「舞台で、待ってます」
私は私に出来る事をやるだけ。
なんだか漸く気持ちがまとまった気がする。
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