03
シャチと別れてからバル・マスケでノーブルさんと講演の舞台内容について詰めながら、音合わせや踊りの練習をした。
今回私が踊らせてもらえるのは、「白鳥の湖」の黒鳥の踊り。
ーー悪魔によって白鳥に姿を変えられてしまったお姫様と、恋に落ちた王子様。
彼女の呪いを解くためには、王子様が彼女に真実の愛を誓わなければいけない。
けれど、悪魔の差し金で白鳥のお姫様に姿を似せた黒鳥が、王子様を誘惑する。
まんまと騙された王子様は黒鳥に愛を誓ってしまうーー
これが大まかなストーリー。
その中に出てくる王子様の心を奪う悪魔の娘……黒鳥の役が、今回私が演じる役柄だ。
しかもノーブルさんの好意で、今度の舞台の演出まで提案させてくれることになった。
だから思い切って、登場の仕方から踊りの選曲まで、今回限りで形に囚われずに構成する提案をしてみたところ、彼らは快く受け入れてくれた。
劇団の方々の踊りの変更もあったが、皆ノリの良い人たちばかりで、むしろ彼らの方からたくさんのアイディアを出しくれた。
皆で一つのものを作り上げようとする団結が、これまでに感じたことのないほど胸を躍らせる。
絶対に良いものにしよう。そう胸の内で熱く誓う。
「根を詰め過ぎるのも良くないね。どこか食事にでも行こう」
ノーブルさんに言われて初めて気がついた。
思わず舞台の演出の話と踊りの音合わせに夢中になってしまったが、窓の外はもう、とっぷりと暗くなっていた。
食事へ、と言われるがままに彼に手を引かれて劇場近くのレストランに連れられる。
店内にはピアノニストがしっとりとしたクラシックの演奏が流れていて、襟付きのワンピースを着てきて良かったと内心ホッとする程に雰囲気の良いレストランだった。
こういう場所は馴染みが薄くて、落ち着かないし緊張する。
メニューも何が書いてあるのかイマイチよく分からない。
ああ、困った。
文字を追うばかりで、どんな料理かもわからない私には内容が頭に入って来ない。
「何にする?」
「え、え、と……あの、……」
「もし良かったら、僕のお勧めにしてみる?」
そんな体たらくに気づいてくれたのかノーブルさんは片手でウェイターを呼ぶと、作法のよく分からない私の代わりに食事の注文をつけてくれた。
料理が運ばれてくる前に、グラスにシャンパンが注がれる。
ピンク色のシャンパンって初めて見た。
シュワシュワと立つ泡が、店内の照明を受けてキラキラと光ることが美しく、じっと見続けてしまう。
ピンクの中に輝くゴールドが散らばって宝石みたい。
そんな私の様子を見て、クスクスと笑うノーブルさんの小さな笑い声が耳に届く。
まるで場違いな自分に恥ずかしくなって、膝の上に乗せてある、緊張感に結んでいた握り拳に視線を落とした。
「いや、咎めたわけじゃ無いよ。思った通りだと、思っただけ」
「……?思った通り、ですか」
こういう敷居の高いところには似つかわしく無い、何か不躾なことでもしてしまったかとギクリとするも、彼の続けた言葉は予想とは違った。
「君も"これしか無い"と踊りを踊ってきた人なんだな、そう思ったんだよ」
「それは……」
その通りだった。
マフィアにいた頃に拠り所にしていたのは、孤児院で過ごした過去の幸せな記憶と踊りだけだった。
他は何も知らない。
ただ、それだけが私を支えてきた。
運ばれてきた料理を食べながら、かつての自分が頭をよぎっては消えていった。
今まで生きてきた軌跡を辿ってみても、
そこにあるのは、細長い筒を覗いて遥か遠くの先に見える、小さな幸せの空間を眺めながら、
死を胸に抱き、生きるために過ごした時間だけだ。
私には自分を肯定できるものが、他に何も無かった。
ノーブルさんが勧めてくれた鶏肉のコンフィという料理は、ジューシーで身もやわらかく、ホロホロと歯ざわりが良い。
昔の自分はこんなに美味しい料理を食べることもなかった。でも、今となっては贅沢な料理よりもハートの海賊団のみんなと食べたコックさんの料理が懐かしい。
ああ……今は何をしてもハートの海賊団のみんなを思い出してしまう。
「僕も君と同じだったから、分かるんだけど…」
テーブルの向かいに座るノーブルさんが、金色の睫毛の影を頬に落としながら始めた言葉に、いつの間にかボーッとしていた意識が浮上する。
「このまま君が踊っても、星五つは取れないよ」
「え……」
思わず手が止まった。
カチャリとナイフとフォークが指から離れて、料理の乗ったお皿にぶつかる。
自分に出来うる限りの技術と熱意を注いでいるつもりだった。
それでも真剣な目で見つめてくる彼の目に嘘や冗談は、一つもない。
「演出も素晴らしい、踊りの技術も申し分ない。だけど決定的に足りない」
彼の言い放った言葉に、息が止まった。
「誰かを欲しい。そう思ったこと、ないでしょ」
ガツンと横から頭を殴られたような衝撃が走った。
「君の踊りは純粋すぎる。
誰かを求める気持ちは、時に美しいばかりではないんだよ」
誰かを欲しいと思うこと……
物だって欲しいと思うこともそれ程無ければ、
まして誰かを求めるなどという、熱烈な思いを抱えた事は無かった。
彼は純粋だと私を言うけれど、きっと、それは違う。
誰かを求めるなんて、私には到底、想像もつかない感情だ。
「それに…時折感じる自己評価の低さも、気になる」
道具として生きてきた、何も持たないこんな私が誰かを求めることなど許されるのか。
自分のことを大切に思えない人間に、果たして、誰かを愛することなど出来ようか。
誰かを手に入れたいと思う気持ちが、確かに私には分からなかった。
でも、ここまで見破られるなんて思ってもみなかった。
「誰かを心から好きになったことが、無いんだね」
「……、…」
未だ真っ直ぐ向けられる、柔らかな照明の光を宿した碧眼は、私の心の奥底を見つめるように細められている。
組んだ手に顎を乗せて、こちらを見据える彼に、何も言い返す事が出来なかった。
*******
ーー君に欲しいと思って貰えるのが、僕の役目だったら良かったけど。どうやらそうでは無いらしい。
そう微笑んで呟いた後、何事もなかったように食事を再開したノーブルさんにつられて、のろのろと私も料理を口に運んだ。
けれど動揺で揺れに揺れた心の内では、食事を楽しむ事もできずに時間ばかりが過ぎてしまう。
所在ない焦燥感を抱えつつも、食事を終えた私はノーブルさんとは別れ、レストランを後にすることになった。
というのも、彼に急な所用が出来てしまったからだ。
彼の子伝電虫に掛かってきた電話は劇場からの呼び戻しの連絡であったらしく、気をつけて帰るんだよと私に何度も念押しして、ノーブルさんは足早に劇場へと戻っていった。
トボトボと夜の灯りに照らされる街並みを歩く。
なんとなく真っ直ぐ宿泊先に帰りたくなくて、
夜風に気持ちを落ち着かせる為に目的地もなく歩き続けた。
人目を避けつつ当て所なく歩いたためだろうか。
どこかで道を間違えたのか裏道に入ってしまった様で、気づけば薄暗い道の間に連なったネオンが時々怪しく光る路地へ入り込んでいた。
何か元の道に戻るための目印はあるかと、遠くに視線をやると、前方に白色にブチ模様のある見慣れた帽子が目に留まった。
知った顔に声をかけようとするも、
彼の隣から伸びた、ネイルの施された綺麗な爪がその腕を絡め取ったことに、足が止まる。
美しい女性だと思った。
アッシュラベンダーの首元で切り揃えられた髪がサラリと揺れ、彼の肩にしな垂れ掛かる。
耳元では大ぶりの雫型をしたゴールドのピアスが煌めき、口元には赤い口紅が弧を描いている。
路地裏の一角にあるバーのような店の扉を、彼らが開けた際に鳴ったチリンという鈴の音が、嫌に耳に残った。
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