小説 | ナノ


02

「あの…、海の生物の図鑑をお借りしてもいいですか?シャチとベポちゃんと今から釣りをしようと思っています。
それで…食べられるお魚だったらコックさんが皆さんの食事として出せるって言ってくれたので、…お魚を調べようと思って」


次の日の昼前も新聞とコーヒーを持ってきた羽根屋がそう言って口元に手をやり、楽しそうに責任重大なのだと微笑んだ。



昨日、頑なに船内を一人で歩かなかった羽根屋と、おれとの思惑が異なっていたことを説明したばかりだ。
頑固な性分かと思いきや、本人が納得したのか、存外こちらの言い分を素直に聞き入れたようだ。同じ説明を何度も繰り返すような面倒ごとにならなくて済んだと、意図せず安堵の息が漏れた。


それにしても、と。羽根屋の勘違いを思い出す。
船内を1人で歩いても良いと伝えなかった自分にも非があるのかもしれない。しかし、重傷を負った彼女の歩行の危うさを危惧してクルーを常につけていた事を、"一人で行動させない為"とごく自然に受け取った羽根屋の思考は、常に誰かの監視のもと生活してきた確たる証拠に思えて仕方なかった。


羽根屋はごく自然におれに言われた事を守っていただけなのかもしれないが、前の組織で"言いつけ"を守らないと罰があった事実が、本人も知らぬ間に今もなお行動を制約している。


その罰の内容がどんなものなのかはわからないが、羽根屋の足首に残る古傷を見れば碌なものではないのは明白だろう。



同情ではない。
そう自分に念を押す。


ただ、籠を抜け出しているのだから、今なら自由にどこまでも飛んで行ける筈の小鳥が、いつまでも籠の周りをぐるぐるとどうしていいか分からずに飛び続けているような姿を連想させた。


その翼は自由のはずなのに、外界の広さを知らずにいる、小さく、哀れで、惨めな鳥。
自由を象徴する能力を持ち得ながら、まるで依存するかの様に囚われ続ける、矮小な存在。



本棚から図鑑を取り出して渡してやると羽根屋は白い両手に大切そうに受け取った。
その白い指が、まるで彼女の非力さを物語っている様だと僅かな苛立ちを感じた。



その感情を見ぬふりをして、新聞は後で甲板に行くついでに持っていってやると伝えると、恐縮しながらも嬉しそうにハニカミながら礼を言ってきた。



本人は自分の不自由さに、全く気付いていない。その狭小な視野が見ていて歯痒い。
彼女が静かに閉めた扉をジッと見つめながら、振り向いた時に靡いた濡れるような彼女の黒髪を何度も思い出した。






*******





しばらく経って甲板に向かうと、船の欄干の隙間から足を海に投げ出してシャチ、ベポ、羽根屋が並んで座っていた。
シャチとベポは釣竿を海に垂らしているが、羽根屋は手元に図鑑があるだけで釣竿はもっていない。

2人が釣った魚を調べるのかと思った矢先、一匹の魚がキラキラと太陽の光を反射しながら宙を舞い、目の前を横切って行った。
そのまま3人の方へ飛んで行ったと思うと、彼らの足元に置いてあるバケツに放物線を描き吸い込まれる。


そのバケツの中を羽根屋が覗き込み、図鑑のページをさらさらと捲って指で文字を追う。

「えーっと、このお魚は食べられ…ます!」
「やったー!ショウト凄い!」
「なぁ、やっぱ思うんだけどさ。お前のそれ、釣りなの?」

今し方バケツに投げ入れられた魚は食べることができる種類らしい。それをベポと一緒に小さく拍手して喜ぶ羽根屋の隣で、シャチが訝しげに羽根屋に聞いている。


そんなシャチの方をポカンと不思議そうに見ながら、羽根屋は海に向かって人差し指と中指をクイッと持ち上げる仕草をする。
随分間抜けなツラをしながらの仕草だなと、その気取りのない表情をおかしく思った矢先、丁度水面から飛び跳ねた魚に翼が生えて先程と同じようにバケツに入る。

「餌が要らないし、魚が釣針を飲み込んじゃうことも無いから楽だよ」
「いや、そうじゃなくてよ」

訝しげに口を尖らせて話すシャチの言葉に、確かに、能力使って魚を捕獲するそのやり口を釣りと呼べるのか、疑問ではある。と、内心で同意した時、直感的な違和感が肌を撫でた。


シャチやベポと楽しげに会話をしている羽根屋が、自分の肩越しに先程と同じく人差し指と中指を向けて、後ろから前へひょいと指を動かした時に、その違和感は確信に変わった。


海面を見ていない。


「ショウトどうして魚の位置がわかるの?」

ベポが動かない釣り糸を垂らしながら羽根屋に不思議そうに聞く。
そうだ、彼女は魚が海面を跳ねる一瞬を目で見ることなく捉えていた。

「何となくかなぁ」
「なんだよ、それ。どうやったらそんな事できる様になるんだよ」

事もなさげに羽根屋は答えるが、シャチはその技に呆気にとられている様だ。

「うーん…。マフィアにいた時にね、機密事項の取引でカームベルトを渡らなきゃいけない事が何度もあったの。
いつ海王類が海中から飛び出してくるか分からない中気配を探って飛び続けてたら、何となくどこから来るか分かる様になってきたんだよね」
「……は?カームベルト?!」
「そうそう。あんまり上空を飛び過ぎても酸素薄いし、寒いしから長い時間は飛べないし、反対に適度な高度だと海王類はどこから来るかわからないから、とてもとても最悪だった」


もうカームベルトの上は飛びたく無いよ。とニコニコと和やかな雰囲気で話されたあまりの内容に、シャチやベポだけでなく俺まで絶句した。


カームベルトの上空は広大な海を渡るニュース・クーでさえ、その危険性故に飛ばない。
だからこそある程度、自分で状況判断が出来る羽根屋が飛ぶ羽目になっていたのだろうが、それでも海王類の巣の上空を飛び続けるのはあまりにも危険な行為だ。


命懸けの飛行を続けているうちに気配を探れる様になったと言うのか。
恐らく本人に自覚はない様だが、その力は見聞色の覇気に通じるものがある。



「お前苦労してたんだな」
「そんなの皆、お互い様でしょ」

しみじみとシャチが言う隣で、笑い飛ばす様に羽根屋はふふと口元を押さえて笑っている。ベポもシャチもその笑顔に毒気を抜かれたのか、そうだけどよぉと言葉を濁した後、その話には触れず釣りを再開し始めた。


周囲に花が舞う様にニコニコと笑う羽根屋からは、機嫌が良いのか鼻歌まで聴こえてくる。野蛮な海賊船の甲板だと言うのに、小さな鈴が心地よく鳴るような透明な音は、穏やかな波の音と混じり合い、ほのぼのとした空気で一帯を包み込んだ。


よくも裏社会で生きてきてあの様に笑顔を絶やさずにいられるものだと、初めは羽根屋の笑顔を見る度に能天気な奴だと呆れたくらいだった。
しかし、思えば手配書の彼女は微塵も笑っていなかった。


目の前で朗らかに笑う彼女は、やっと手に入れた自由の空の下、アグリーダックという厄介な異名を与えられながら、目えない鎖に気づくことも出来ずに、懸命に、もがいて、羽ばたこうとしている。


そう思うと、傷ついた一羽の鳥を保護した気分になっていた。
それはどこと無い庇護欲に似た感情だと自分でも自覚し、そっと腕を組み、息を吐く。
手に持ったままの新聞がカサリと服にこすれて音を立てた。

最初は何も感じなかった。ただのベポを助けた、都合の良い情報を持った女だと思っていた。
しかし屈託のない笑顔の裏に隠された彼女の凄惨な過去を垣間見て、存外気にかける自分がいる事に今更気づく。


彼女を足を拘束し続ける、見えない鎖をいつか振り解くことができるのか。それは自分には及知らぬことだと、一つゆっくりと瞬きをして、白く船に打ち付ける波を見た。


かつて白鉛病に侵され、この世の全てを呪った自分を掬い上げてくれた、あの笑顔を思い出す。
この船で過ごす時間くらいなら、今はゆっくり羽を休めて、この海の、空の美しさを目一杯楽しんでいけば良いと、風に靡く黒髪に目を細めた。





*******





次の日昼頃、新聞を持ってきたのはペンギンだった。ついでに報告もあったようで、備品の使用状況と船内のメンテについての状況を聞く。

「そう言えばショウトはキッチンで洗い物の手伝いをしています。夕飯の手伝いをするのだとコックと2人で張り切っていました」


羽根屋の作った飯は中々美味かった、とつい先日の朝食を思い出す。
気分が最悪に落ちていたが、どことなく懐かしくも温かみのある味にみぞおち辺りにあったドロドロとした怒りが溶かされていった。それが存外心地よく、気分が上向いた事もあり、礼をすると言ったのは記憶にそう遠くない。


あらかたの執務を片付けた時は15時を回っていた。
朝から何も食べていない事を思い出し、食堂にふらりと立ち寄る。
食堂の扉を開けると、カウンター越しにコックが顔を覗かせて挨拶をしてきた。


「キャプテン、お疲れ様です。何か軽食をお作りしましょうか」
「ああ」
明朗な声をかけてきたコックの方へ目をやると、カウンター席の一番奥に羽根屋が本を読んで座っている姿が目に入った。
例によって読んでいるのは鳥類図鑑の様だが、今日はノートに何か懸命に書き記している。

「随分気に入ったみてェだな」
「ローさん!ごめんなさい、挨拶もせずに…お疲れ様です」

俺が羽根屋の隣の椅子を引きながら声をかけると、弾かれた様にこちらを向いて挨拶をしなかった事に対しての謝罪をした。

ベポたちと釣りをしていた時に見せた見聞色の片鱗は、常時使える程精度の高いものではないようだ。

「図鑑、とっっても、面白いです。
ペンギンさんと同じ名前の鳥なんて、海を飛ぶように泳ぐんですよ」
「そうかよ」

握り拳を作って力説しながら、相も変わらず楽しげな表情で図鑑開いてこちらに見せてくる姿は無垢だった。
目線を少し下げ、机に向けると羽根屋の手元には、図鑑の記述と鳥や羽根の特徴を描き記したノートがある。今描いているのは、ペンギンの生態と翼の作りだろう。随分と丁寧に描いている。

「ショウトちゃん、キャプテンに持っていって」
「はーい!」

パタリと図鑑とノートを閉じながら、明るく通った返事を食堂に響かせた。羽根屋はくるりと椅子から降りると俺の後ろを通り、カウンターを回り込みキッチンへ入って行った。
コックから俺の軽食を受け取ると、盆に食事を載せ、俺の前にゆっくりと慎重に配膳する。
緩慢な動作なら、杖を使わなくてもバランスが取れるようになってきたようだ。


「これはショウトちゃんのおやつ」
「わぁ、私コックさんの淹れてくれた紅茶とお菓子大好き!」

カウンター席に座り直した羽根屋に、コックが紅茶の入ったカップと林檎のコンポートを差し入れてやると、満面の笑みで手をパチンと合わせて喜ぶ。
その姿にコックもニカッと嬉しそうに笑っているのを見ると、こちらも肩の力が抜ける。何にせよ、クルーが喜ぶ姿というのは船長としても嬉しいものだ。

汚さない様にと図鑑とノートを端に寄せ、紅茶に一口、口をつけた際に「熱ちち」と零している姿は、まるで平和の一言に尽きるような気さえした。
羽根屋はこちらの視線に気づいたのか、ふふと息だけで笑い、じんわりと目を細める。

「誰かと食事をすると、お食事自体ももっと美味しく感じます」
「そうか…」

短くそう答えて、右手で羽根屋の頭を2度軽く叩く。

驚いた顔をした羽根屋だが、すぐに満足気に笑うと、今の時間をゆっくり楽しむように紅茶を飲み始めた。
そのなんともぬるいような温かい空気を横目にみながら、昨日3人が釣ったと言う焼き魚の背骨に沿うように箸を入れた。

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