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村上が教えてくれた東屋にそろそろ近付き、腰高の壁に囲まれたそこを上からひょいと覗き込む。
三上は六角形の建物に沿うように作られたベンチで膝を曲げて横臥していた。
「三上くーん?」
怒気を孕んだ声で呼ぶと、切れ長の瞳をぱちりと開け、ちっと舌打ちされた。
舌打ちしたのはこっちだが見逃してやろう。
三上の足元に座ると彼も上体を起こし大きく欠伸した。
「今日は結構時間かかったじゃん」
「なにを呑気に!すごく探したよ!」
「だってお前俺を探すの趣味だろ?よかったじゃん」
「しゅ、趣味だけど……」
惚れた弱味。好きになったほうが負け。痘痕も靨。
三上がどんなに横柄で意地悪でも顔を見ると許してしまう。
そもそも許すなんて上から目線で考えられない。
ぞんざいな扱い、汚い言葉、冷えた視線、ゴミのように捨てられたって好きをやめられない。
どんな形でもいい、そばに置いてくださいと脚に縋って泣き喚く。
施しや赦しを乞うのはこちらのほうで、彼は徒に飴を放り投げたり鞭を振りかざしたりする。
「…喉乾いた」
「あ、ジュースあるよ」
村上にもらったパックのココアを差し出した。
「なんで夏にココア選ぶんだよ」
「村上にもらった…」
「あいつか…」
「三上の居場所を教えてくれたのも村上」
「もう一回殴ろうかな」
「だ、だめだよ。僕の貴重なお友達ですから」
「そうですか」
三上はパックにストローをさし、一口飲んでこちらにずいと差し出した。
「甘い。喉に絡む」
「いらないの?」
「いらない。水買って来い」
「二度も同じ手には乗りません。いくら僕が馬鹿でも三十分前のことは覚えてるから。お駄賃ももらってないし」
自分も一口ココアを飲み、確かにこれは少し甘すぎるか?と検分するように首を捻ると、後頭部の髪を鷲掴みされ、触れるだけのキスが降ってきた。
離れていく顔をぼんやり見ながら金魚のようにぱくぱく口を開閉する。
「こここ、ここでしろとは言ってないよ!」
「耳まで真っ赤。もっとすごいことしたのにな」
「わー!あー!あー!」
両耳を塞いで奇声を上げた。
三上はそんな僕を見て愉しそうに笑いながら両腕を掴み、耳元に顔を寄せた。
「次はいつにする?今から?」
「いいい、今から…!?」
「そう、今から」
「あ、う……」
うん、と頷きそうになり、待てよと考える。
三上がこんなことを言うなんておかしい。
「……さては勉強したくないんだな?僕を黙らせる口実に使ってるな?」
図星だったようで、彼は明後日の方向に顔を背けた。
僕の純情を弄ぶなんて、なんてひどい奴。
愛の確認作業を口封じの手段にするなんて。
どんな思惑があろうともしてくれるなら大歓迎だが、ここで自分が負けたら三上の進級が危うい。
心を鬼にし、邪な欲望は端に寄せ、まずは勉強をしなくては。
わかっているが、この機を逃すと次は一ヵ月後かもしれないし、三ヵ月後かもしれないし、なんなら今後一切触れあえないかもしれない。
二つを天秤にかけ、腕を組んで悩んだ。
悩む時点で答えは出てる気がする。
「……したあとに勉強っていうのは?」
「なし。どっちか」
「ひどい。僕が欲求不満なのを知ってそんな選択を迫るなんて」
「そもそもテストで悪い点とろうがお前には関係ねえだろ」
「あ、あるよ」
「どんな?」
「それは……」
組んだ指をもじもじ動かす。
三上と一緒にいたいから。当前の望みはこの男に通じない。
べたべたするのを好まず、他人を軸にする自分と違い、三上はいつも自分自身を中心に置いている。思考も、行動も。
善行も悪行もすべて自分だけのもの。
自分の尻拭いは自分でするし、他人が関わろうとするのを毛嫌いする。
自分だけで完成される世界で生きることができて、僕の存在はとてもちっぽけだ。
「と、とにかく、一緒に卒業してくれないと困る!」
「お前に迷惑かけねえよ」
「迷惑とかそういう問題じゃない。お願いします、なんでもするから卒業だけはしてください」
「母親と同じこと言うな」
「ほらー!お母さんに苦労かけたらいけないんだよ!」
「出来の悪い息子ですいませーん」
「清々しいほど悪びれてない……」
やっぱりセックスなんてしてる場合ではない。
二度と触れてくれずとも、今三上を更生させなければたくさんの人を不幸にしてしまう。
「決めました!勉強にします!」
「本当にいいのか?次がいつかわかんないのに」
「い、いい!」
「本当に?」
「本当に!」
三上は溜め息を吐き、わかったよと呟いた。
「お前がセックスを蹴るなんてよっぽどだな」
「人を淫乱みたいに言うな!」
「あれ?違いました?」
「み、三上限定なので」
びしっと掌を見せながら訂正すると、三上にしては珍しくふっと笑った。
「まあ、どうせ寮ではできねえしな。お前声がでか――」
「あー!さ、早く帰りましょう」
「いや、お前声が――」
「ほらほら、気が変わらないうちに」
「夏休みしたとき――」
「三上!」
手で彼の口を塞ぐようにし、揶揄するのもそれくらいにしろと訴えた。
デリカシーのない男だ。
最中の不手際は蒸し返さないのが優しさなのに。
自分でもわかってる。いくら初めてとはいえ、深い海に沈むように酸素を吐き出すしかできなかった。
三上に任せっきりで、男として情けないと猛省した。
初心者が急にプロ級になれるわけはないので、少しの間目を瞑っていてほしいし、できれば忘れてほしい。
幸福や歓喜に頭を支配され、それはもうひどいありさまだったに違いないから。
「あんまり続けると椅子に縛り付けて勉強させるよ」
「できると思ってんの?」
「で、できる!」
「へえ。どんな手を使ってくれるのか楽しみだよ」
余裕の表情に歯噛みした。
地団駄を踏みたくなり、追いかけても追いかけても背中には届かず、今後もずっとこんな調子なのだろうと思うと肩から力が抜ける。
がんばるのがしんどいと思う瞬間もある。
それでも彼を見ると追いかけずにはいられない。
悔しいけれど、今味わってる悔しさは以前とは全然違う。
霧の向こうにいた三上が手の届く範囲にいてくれる。
恋人らしい行動も、言動も、一つもなくて構わない。
一人で完結する世界で生きられる彼が、どうぞと扉を開けてくれた。
その扉を潜れるのは僅かばかりの人間で、その中に自分も含んでくれた。
関係が恋人でなくなってもいい。
僕はずっと三上の世界の扉を自由に行き来できる人間でありたい。望みはそれだけなのに、それはとてつもない我儘にも感じる。
「勉強の前にお昼ご飯食べようか」
寮の食堂で向かい合ってご飯を食べる。なんて幸せ。
幸福を噛み締めて、噛み締めて、塵も残らないくらい咀嚼してごくんと呑み込む。
呑み込んだそれが身体中を巡り、僕をますます中毒にさせていく。
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