15




二人きりになると世界から音がなくなったように静かになった。
椿さんの軽やかな声ところころ変わる表情は空気を明るくすると知る。
寝ている間に勝手に入るなと怒られるだろうか。
機嫌をこれ以上悪くさせる前に退散したほうが得策だろう。
床に放り投げていた鞄を引き寄せ、じゃあ、僕も帰りますと俯きがちにぼそぼそ口にした。

「帰るのか」

「え、う、うん」

「…お前椿に会いに来たの?」

「いや、三上に会いに…。でも三上も予定とかあるかもしれないし…」

「あると思うか?俺に」

「い、妹さんは?」

「昨日から家族揃ってじいちゃんの家」

「家族旅行なのに三上は行かないの!?」

「寝てたら置いて行かれた」

開けた口を閉じるのを忘れた。
一度寝たらなかなか起きないと誰しもがわかっている。三上の家族も勿論承知だろう。だけど扱いが雑すぎないだろうか。
大事な日くらいちゃんと起きればいいのに、祖父母に顔を見せるより睡眠をとる三上も三上だ。

「…おじいちゃんおばあちゃんがっかりしてるかもよ」

「しねえよ。妹がいけばそれで充分」

「そんなことないよ。きっと等しく孫はかわいいし…」

「お前のとこは顔見せに行かねえのか」

「…うちは母方の祖父母はもう亡くなってるし、父方は……多分会ったことはあるんだろうけど全然覚えてない。お父さんの顔すら覚えてないくらいだし…」

重苦しい会話になったことに気付き、はっと顔を上げた。

「で、でも物心ついたときから母さんしかいないからそういうものって感じで…」

「へえ」

三上は気にした様子もなくさっと流してくれたので安堵した。
父がいないことを気に病んだことはない。
自分たち家族は今の形が当たり前で育ったので、欠けているとも思わない。両親の不仲や離婚を経験した兄や姉はまた違う感情を抱いているのだろうけど。
三上はくあっと欠伸をし、腹が減ったとぽつりとこぼした。

「……そういや昨日から飯食ってない」

「なんで!?」

「起きたら誰もいないから静かに寝れんなと思ってそのまま寝続けた」

今度こそ額に手を添え呆れた溜め息を吐いた。
三上には生活能力というものが備わってないのか。偉そうに言える立場ではないが、自分も鍵っ子だったので、誰もいなければ自分の食事くらいは面倒みてきた。
三上もできるはずなのだ。妹さんの世話を焼いてきたと言っていたし。ただ自分のための労力を惜しんで惜しんでこんな結果に辿り着く。

「外暑いし買いに行くのもだりいだろ」

「涼しくなった夜とかさあ…」

「夜は寝る」

「あー、もう。なんか買ってくるよ。それか簡単なものなら作るけど」

「お前料理なんてできたっけ?」

「目玉焼きくらいは…」

「じゃあ作れ」

それが人に物を頼む態度か。
一喝されそうな不遜さだが、彼に命令されることに喜びに感じる自分は気にならない。
二人で階下に降り、なんでも好きにしろと台所に押し込まれた。
人様の領域を勝手に荒らすのは気が引けるが、緊急事態なので許してくださいと三上の母親に謝罪してから冷蔵庫を開けた。
卵はあるし、牛乳もある。
カウンターの上に素麺が入った箱もあったので、卵焼きと素麺を茹でるくらいならできそうだなと算段を整えた。
ふわふわの金色に輝く完璧な卵焼きは無理だが、まあ、胃袋に入ればどれも同じだ。
四苦八苦しながら作り終え、ダイニングテーブルに座りながら携帯をいじっていた彼の前に並べた。
三上はいただきますと箸を持ちながら手を合わせ、無言で素麺を啜った。

「美味しい?」

「…既製品の麺つゆの味」

「いやそうなんだけど!君が作ると美味しく感じるよ的な!」

「ねえよ」

がっくりと脱力すると、形が崩れて所々焦げた卵焼きに箸が伸びた。
三上は一口で一切れを放り込み、咀嚼した後こちらに視線を寄越し眉根を寄せた。

「甘い」

「え、うん。卵焼きだから」

「卵焼きは出汁の味だろ」

「砂糖の味だよ?」

「は?」

「え?」

会話が噛み合わない。
卵焼きは甘いもの。卵焼きは出汁の味。
相反する意見は育った環境の違いだろう。

「甘い卵焼きはおかずになんねえだろ」

「おかずは別で、卵焼きはデザート感覚」

三上は納得できない様子だが、それ以上の文句は慎み皿を空にした。
食器を片付けると眠いと言い出したので正気かと目をひん剥いた。
さっきまで寝続けていたのにまだ寝るつもりか。
そろそろこの暑さと湿度で三上にカビが生えてしまう。

「夕方になって涼しくなったし、どこか行かない?」

三上も少しは動いたほうがいい。
休みといえど適度な運動と疲労で身体に刺激を与えないと学校が始まったら辛くなる。

「…どっかって?」

「どっかはどっかだよ」

「ここら辺なんもねえぞ」

「じゃあコンビニまでアイス買いに行こう!」

「…はあ」

なぜそこまでして?と不思議に思ったかもしれないが、三上の性格からすると放っておいたらろくに食べず、動かず、家族が帰ってきた頃には干からびているかもしれない。
着替えてくると言い残し部屋に戻る背中に安堵した。
一応まだ動こうという気力は残っているらしい。
手がかかるなあと思うが、あれこれ世話を焼けるのは嬉しい。
二人でコンビニへ行き、氷菓を食べながら歩いた。
いくら陽が傾いても暑さは昼間と然程変わらず、真っ赤な夕焼けは明日も晴天だと知らせる。
三上が育った町を歩くのは楽しい。
観光名所の寺が近くにあるし、神社も多い分緑も豊かだ。
葉の隙間から蝉の声がじりじり聞こえ、寮の辺りと同じだと嬉しくなる。

「…寄り道するか」

「どこに行くの?」

わくわくと彼を見上げると、こっちと顎をしゃくられた。
辿り着いたのは、いつかばっさり振られた公園だ。

「わあ…胸の傷が痛む…」

「楽しい思い出で上書きしろ」

「そうだね」

もしかしたら罪悪感のようなものを抱えていたのかもしれない。
気にする必要はないのに。
あのとき自分は三上の恋愛対象外で、承知の上で諦めきれずに迫っていた。
ゴールがどこかも、救いがあるのかもわからず、自分の気持ちを抱えて振り切るように全力疾走だった。
いい加減彼もうんざりしていただろう。思い返すと自分でもやりすぎだと思う。
ブランコに並んで座り足を放りだした。
食べ終わったアイスを恋しがるように棒をがじがじ噛む三上に視線を移す。

「…さっき、聞いちゃったんだ。椿さんとの会話」

「ああ、そう」

「椿さんは悪くないんだよ。僕が断らなかったのがいけないんだ」

「あいつに丸め込まれたんだろ」

「まあ、そうなんだけど……。でも椿さんの気が晴れるならあれくらいなんてことないっていうか。だから椿さんのこと怒らないでね」

「怒ってない」

「でも二度とあんなことするなよって言ってたから……。そりゃあ、自分でも鏡見てきっついなあと思ったけどさ」

「違う」

三上は立ち上がり、僕が座るブランコの鎖を握ってこちらを見下ろすようにした。
三上の後ろで夕日と濃紺の境目が滲んでいる。

「化粧したほうがかわいいなんて言ったら落ち込むだろ」

「へ……?」

「女のほうがいいんだとか、女になりたいとか、面倒くさい落ち込み方するだろ」

返す言葉を忘れた。
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
けど、三上は僕より僕の心を知っている。彼がそう判断したならそれが正解なのだ。

「俺はお前が女ならよかったとか、女になってほしいなんて思わない。今までも、これからも。気休めじゃないってわかるよな」

「……うん」

嬉しいはずなのにどうしてだろう。胸がきしきし痛む。
過剰な幸福は身体をぎこちなくさせるらしい。
心臓が裂けるんじゃないかと思ったけど、勿論そんなことはなくて、弛緩するように息を吐き出すと逆流するように身体全体がぶわりとなにかに包まれたようになる。
優しく、丸い、柔らかいなにか。
三上のTシャツに手を伸ばしきゅっと握った。

「…み、三上に好かれている気がする」

「好かれてんだろ」

「え!」

「なんでそこで驚くんだよ」

そりゃあ驚きますよ。
そこら辺のゴミのように邪険に扱われ、めげずにどうにか好き"かも"まで辿り着き、きちんとお付き合いを始めたはいいものの、以前と然程変わらない態度に何度涙を流したか。
だけどそうじゃなかった。
三上はちゃんと自分を好きでいてくれる。
これまでも彼からの愛情を感じる瞬間はあって、それに縋ってつれない態度にもへこたれなかった。
それが本当か嘘か疑わず、好きなはず、想い合ってるはずと言い聞かせないと心が折れそうだったから。
だけど今は自然と素直に彼の気持ちを受け入れられた。
卑屈にならず、薄いガラスカバー越しではなく、真正面からきちんと三上に向き合えた気がした。

「……今日泊まっていい?」

「何企んでんの」

「企んでないよ!そうじゃなくて……三上に触ってないと窒息しそう」

「そんなことで窒息するかよ」

「するんだなあ。僕の場合は」

「それはご愁傷様」

素っ気なく歩き出した背中を追った。
だめとは言われていないので、図々しく居座ってやる。
母に三上の家に泊まるとメールし、スキップしそうなほど軽くなった身体を彼に寄せた。
暑い、近付くなと押し返されたけれど。

[ 47/55 ]

[*prev] [next#]



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -