9
薄暗かった室内は闇に変わっていた。
カーテンの隙間から入る月明かりで室内が薄ぼんやりと白く浮いている。
陽が落ちた後なのだと気付き、何時間眠っていただろうと簡単に計算する。
闇の中でベッドを背凭れにする背中を見つけ、潤がまだいてくれたのだとそっと手を伸ばした。
「…潤」
指先がそっと触れた瞬間こちらを振り返ったのは三上だった。
一瞬驚いて、ああ、遂に自分に都合のいい幻覚まで見れる境地に達したのだと知った。それともまだ夢の中なのだろうか。どちらでも構わないから消えてなくならないでほしい。
「…三上」
制服のシャツを肘下まで適当に捲り、釦は二つ開ける。いつもの三上だ。
彼の左手をとって自分の頬に擦り付けた。
低い体温はじんわりと肌に馴染み、これが好きでたまらなかったなあと思いに耽る。
「三上、三上…」
何度も呼んで、呼ぶたびに泣きたくなる。
この先こうやって幻を見詰めて心を慰めるのだろうか。
どうせ忘れることなどできやしないので、それもいいかもしれない。
一時甘い夢を見て、現実を生きて、また夢に逃げる。どちらが本当なのかわからなくなって生活に支障が出るかもしれないけれど、そんなのどうでもいいや。
彼と一緒にいられるなら一生夢の中でいいし、廃人同然の生活でも構わない。完全に閉じた世界の中で自分と三上の思い出だけで生きる。
我に返る度絶望に叫びたくなったとしても。
だからどうかもう少しだけ夢の中にいさせて。
何度も掌に頬を摺り寄せると、親指が微かに動いた。
瞳を開けて見上げると、怜悧な視線に真っ直ぐ射られる。ああ、この目も久しぶりだ。
この目で気持ち悪い、近寄るなと散々な言葉を投げられて、その度脚に縋った。
「泉」
少しだけ掠れた低音に心臓が一度大きく跳ねた。
三上の全部が好きだったけど、特に声が大好きだった。低く、鼓膜に波紋を作りゆっくりと身体に広がっていく。
いつだってその声が聞きたくて、だけど三上はお喋りじゃないから僕ばかりが話して、漸く聞けた言葉はうるさいの四文字だけなんてざらだった。
大して時間を共有していないのに、一つの枝を揺さぶると芋蔓式に記憶が鮮明に蘇る。
「おい、無視すんな」
「…なに?」
この幻覚は会話までできるのか。すごい。
「お前……いや、いいや」
これも三上の癖だ。一度何か話そうとして、やっぱりなんでもないと撤回する。
だから言葉が足りないと皆に詰られて、うるせえなあと悪態をつく。
すごい再現能力。ふふ、と笑い、今度は三上の頬に指を滑らせた。
「…三上、好きだよ」
「…ああ」
「三上の心臓の音が止まるのを耳をつけて聞きたいくらい好き」
「こわ」
「うん。好きなんだ。好きで、好きで、しょうがないんだ…」
どんなに心が干からびても気力が削がれても、彼を好きだという気持ちだけは萎まなかった。そこが一番消えてほしい部分なのに自分の意志ではどうにもならない。コントロールが効かない。彼が遠く離れると感じるほどに恋心は近付いて首を絞めて窒息寸前だった。
意図せず涙が流れ、頬を伝った。
一度溢れると止まらなくなりぼんやり自失しながらも好きにさせた。
どうせ誰も見ちゃいない。
人前で泣くのは大嫌いだが、一人のときくらいは我慢しなくともいいだろう。
さらりと頭を撫でられ、涙が視界を邪魔をしたが彼から視線だけは逸らさなかった。
いつ消えるかわからないし、次いつ会えるかもわからない。
目に焼き付けて何度も再現できるようにしなければ。
「…起きれるか」
「まだ起きたくない」
いつか目を覚まさなければいけないとわかっているけどもう少し。
「じゃあそのままでいい」
三上の幻はまだ流れ続ける涙をその度指で拭ってくれた。
「…俺、お前と一緒にいるとこんなはずじゃなかったの連続だよ」
頼りなさげに薄く苦笑した表情が珍しくてぼんやり眺めた。
「もう、わけがわからない」
「…うん」
「こんな関係やめだって思ってもお前のとこに戻っちまうんだよな」
なんでだろ、と独り言のように呟く声は今までで一番切なく胸が痛んだ。
「お前に振り回されてすげーむかつく」
ぎゅっと頬を抓られ、リアルすぎる感覚にごめんなさいと謝りながら首を捻った。
もう一度三上に手を伸ばし、ぺたぺたと色んな場所を触った。
「なんだよ」
「肉体がある」
「なに言ってんの?」
「会話になってる」
「いよいよ狂った?」
「え、本物の三上?」
「俺の偽物がいんのかよ」
一秒、二秒、三秒、時間だけが過ぎ、はっと我に返って彼に背中を向けた。
幻覚だし何を言ってもどんな醜態を見せても平気でしょ、と軽く考えていた自分を殴りたい。
ちょっと待ってくれ。この三上が本物ということは、隠し撮りコレクションもばっちり見られたのでは。さっと血の気が引き、言い訳を考えようと思ったけどまったく頭が回らない。
「おい、こっち見ろ」
「は、はい…」
横になったままは失礼なので、起き上がってベッドの上で正座した。
また怒られる。ただでさえ三上を怒らせたのに。どうして自分は――。
太腿の上で拳を作って頭を垂らした。ベッドが沈む感覚がし、彼が傍に座ったのだと知る。
「…すげえなあ」
言葉の意味がわからずに顔を上げると、三上は写真が貼られた壁を眺めながら小さく息を吐いた。
「よくもまあ、こんなに…」
「すす、すいませんでした!」
がばっと頭を下げて土下座したが返事がない。
恐る恐る顔を上げると、冷めた目がこちらを見下ろしている。
没収されたらどうしよう。データはあるのでまたいくらでも作れるが、A2サイズは簡単には作れないので、せめてあれだけは残してほしい。
「…気持ち悪いなお前」
「はい…」
「気持ち悪いくらい俺のこと好きだな」
「はい」
呆れたような溜め息に身体を小さくした。
「ぼ、没収するの…?」
「しねえよ」
「本当?」
「お前の物だろ。勝手に捨てらんねえし、自分で持っとくのはもっと嫌だし」
「神様仏様三上様…」
ありがたい、ありがたいと手を合わせた。
一年の途中から今までの写真しかないが、これから卒業まで増え続けるであろうそれを宝物にしてこの先を生きるのだ。
これだけは絶対に渡せない。警察に捕まっても、家族から最低な人間だと罵られても手放せない。これがないと生きていけないので、自分には空気や水と同等だ。
「捨てねえけど剥がせよ」
「え、嫌だ」
「本物がいるだろ」
「でも、僕たちは…」
ちらちらと視線をやると、はっきり言えと怒られたので、まだつきあってくれるのかと聞いた。
「さっきの聞いてなかったのか」
「聞いてたよ」
「なら、そういうことだろ」
要約すると僕に振り回されて迷惑している、という結論に達したが、そういうこと、が意図する部分がわからない。
腕を組んで首を捻ると手が伸び、肩を抱かれるようにされたのでバランスを崩し三上に凭れるようにした。
「鈍感」
「…ごめん」
「俺の方がお前を手放せない」
肩に回されていた手に力が込められ痛かった。でもそんなことはどうでもいい。
感情の水位がせり上がり、ぎりぎりまで押し込めていた蓋が開いてしまいそうになる。
しがみ付いて大泣きしたいのを堪え何度も頷いた。
「ごめんなさい。三上、ごめんなさい。謝るから…」
「…俺も悪かった」
髪に口付けられ、眉間に皺を寄せた。ただ謝罪の言葉を並べただけじゃ意味がないとわかっているが、今は後回しにしたかった。
暫くしがみ付いたまま激情が去るのを待ち、そっと身体を離した。
「剥がすの今じゃなくてもいいよね?」
「俺の居心地の悪さわかるか?自分に見られてるみたいですげえ嫌なんだけど」
「う、うん。でも僕にとっては天国っていうか。写真と実物がセットってすごくない?」
「全然すごくない。何で最近の写真もあんの?もういらねえだろ」
「三上をストーカーするのはもう趣味っていうか、生き甲斐っていうか…」
気恥ずかしくて俯くと、思い切り頭を叩かれた。
「照れる場面じゃねえんだよ」
「はい…」
叩かれた場所を自分で擦りながら長い脚を組んで思い切り嫌そうな顔をする彼を眺めた。
三上が戻ってきてくれた。女の子ではなく、自分のところに。
村上はノンケなら戻って来ないのではないかと言った。自分もそう思っていた。
色恋を嫌悪する三上は軽いお付き合いを好むのだろうし、たまには女性の柔らかい身体が恋しくなることもあるのだろう。だから男の自分とつきあってくれるならそれくらい大した問題じゃないと目を逸らした。そうやって関係が続くならそれが最善なのだと言い聞かせて。
だけど彼がいつ正気に戻るか、それだけが怖かった。
「…三上は僕のところに帰ってきてくれたんだね」
「…帰るもなにも、俺は浮気なんてしてない」
「でも――」
並んで歩くだけならともかく、村上が見せてくれた写真の彼女は三上を抱き締めていた。
だけど深く掘り下げるといけない気がして言葉を呑み込んだ。
「なんだよ。言え」
「いや、なんでもない」
「言え」
頬を片手で潰されこくこくと首肯した。
「…実は…写真を見せてもらいまして…三上が女の子にぎゅっとされてるやつ…」
「写真…?」
「はい」
「誰に」
「む、村上…」
「…ああ、あれか。写真見たならわかるだろ」
「なにが?」
「妹だ」
「い、もうと…」
後姿しか映っていなかったのでわからなかった。それだけの情報で妹かどうか判断できるほど妹さんのことは知らない。
「じゃ、じゃあこの前僕が見たのは?」
「高杉先輩の妹。皇矢の前のオンナ」
「あの美少女がなんで三上と…?」
「あー…色々と事情があって。多分お前が見たのは高杉先輩と皇矢が待ってる店に向かってる途中」
事実だけを素っ気なく述べた三上の太腿にべしゃりと倒れ込んだ。
一気に身体から力が抜け、この喧嘩はなんだったんだという気持ちになる。
盛大な勘違いをして的外れな言葉で三上の機嫌を窺って関係が拗れ、もうこのままおかしくなるのかなと覚悟をしたのに。
「…僕って奴は本当にどうしようもない…」
「自分を誤魔化してるからこういうことになんだよ」
「誤魔化す…?」
「女のところにいってもいいなんて嘘だろ」
「う、嘘じゃない。そんなことで僕は絶対別れない」
「別れないのと嫌なのは違うだろ」
「そ、そうだけど、でもそれで関係が続くならいくらでも我慢できる。三上が男だけじゃ飽きるから別れるって言う方が嫌だ」
「お前の中で俺はどんだけゲスいの?」
「だって、僕にとってはどんなに三上と一緒にいたってこの関係は奇跡としか思えないし、いつか神様が軌道修正すると思ってるし…」
「ほー。俺よりもいるかどうかもわかんねえ神様とやらを信じるわけ」
「そういうことではなくて…前向きに頑張ろうと思うけど、どうしても…」
人間簡単に性格を変えられたら苦労しない。
悲観的になって三上に叱られる度次こそは上手にやろうと思うけど、根を張った部分は頑丈だし、それが今の自分を作り上げた核でもある。
笑顔を張り付けてひっくり返した演技をするのは簡単だが、そんなものいつだって見透かされる。
「…まあ、そう簡単には変わんねえか」
「…ごめん」
「謝らなくていい。でも思ってることはちゃんと言えよ。俺も、なるべく言葉にするから」
「うん」
母親にしがみ付くコアラのように脚と腕で三上の身体をがっちりとホールドした。
もう離れてやるもんかという強い思念を抱きながら。
首元に顔を寄せると少し上で溜め息を吐いたのが聞こえた。ぽんぽんと背中を叩かれ、少しだけ身体を浮かせると触れるだけのキスをくれた。
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