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翌日、下駄箱に靴を突っ込んで上履きに履き替えるために腰を折ると背後から背中をぽんと叩かれた。
蓮か学だろうと予想しながら笑顔で振り返るとおはようと言う村上がいた。
「お、おは、おはよう」
「どんだけどもってんだよ」
くっくと笑われ、羞恥と懐かしさがこみ上げる。昔に戻ったみたいだ。
村上はじゃあなと手を軽く振り先に教室へ向かった。
暫くぼんやりと彼の背中を見詰め、本当に仲互いを解消できたのだとじわじわと実感する。
自分の選択が正しかったのか、間違っていたのかはわからない。
三上は僕が選んだ答えならそれでいいと言ったけれど、本当にそうだろうか。
簡単に人を信じるから馬鹿を見ると嗤われないだろうか。わからない。わからないけど、胸の奥に沈殿していた苦しさが晴れた気がして、それならこの選択には意味があるのだと言い聞かせた。
席に座り教科書や筆箱を取り出すと、蓮が前の席にどさりと座った。
「遅かったね」
彼は自分より早く部屋を出たはずだ。
「楓起こしてから来たから」
「そっか」
蓮はちらりと村上に視線を移した後むっと眉を寄せた。
「なにもされてない?」
「されてないよ。朝も挨拶してくれたよ」
「してくれたんじゃない。こっちがしてやってんだよ」
「上からー」
「当然だろ。真琴は被害者だよ?」
「被害者なんて大袈裟な。未遂だったわけだし」
「あの暴力の限りを尽くした痕を見た僕はそんな風に思えないね」
優しい蓮がここまで辛辣なのは珍しい。彼は意地悪や悪意を持って人を傷つけることを嫌がる。やられた分やり返せなんて言わないし、いつでも相手を尊重した付き合いを心掛けてくれる。そんな蓮が村上に対しては悪意を向けている。自分なんかのために。本当は蓮だって誰かを憎く思いたくないだろう。
「許すことは解放されることってどこかの偉い人も言ってたよ」
くすりと笑いながら言った。
「それは…そうかもしれないけど…。真琴の気持ちを尊重するけど、なにかあったら今度は隠さず言ってほしい。あんな想いをするのはもうごめんだ」
口端をぎゅっと引き結ぶ表情を見て、ごめんねと心中で謝罪した。
たくさん心配を掛け、苦心させ、その結果があれじゃあ蓮も辛かったのかもしれない。逆の立場なら許すなんてどうかしてると言うだろう。
「うん。なにかあったら助けてくれ」
おどけたように言うと、蓮はぐにゃりと苦しそうに笑った。
「なにかあったら困るから気を付けてって言ってんだけどなあ。真琴はぼんやりしてるからなあ」
「わかりましたお母さん」
「はいはい。お母さんの言うことは素直に聞きなさいよ」
「はーい」
冗談めかして、蓮を安心させるために大丈夫と満面の笑みを見せた。
昼になると真田君が蓮を迎えに来たので、自分も鞄から財布を取り出し学食へ行くか購買へ行くか悩みながら立ち上がった。
三上の教室を覗いてみたが彼の姿はなく、しょんぼりしながら学食へ向かう。
券売機で売り切れのランプが点いていない定食を注文し、空いている席に着いた。
一人の食事はあまり味がしない。
笑い声でざわめく学食の中で自分の周りだけぽつんと隔離されたような気になるから。
誰にも見てほしくないけど誰かと一緒にいたいなんて矛盾で息が詰まる。
昔からのいじめられ癖がついていて、人を怖いと思う分深くまで触れてくれる人を欲している。
学や蓮にばかり甘えていられないので、安心できる輪から飛び出して人付き合いをしようと思うのだけど、現実は難しく、未だにクラスには蓮以外の友人がいない。
もさもさと味のしない食事を続け味噌汁を啜ると、どかっと前の席に誰かが座った。
一瞬びくりと肩を揺らし、身体を小さくして存在を消し去ろうとした。
「無視かよ」
聞えた声に慌てて顔を上げると、頬付をついた三上がこちらを見下ろしていた。
「ご、ごめん。三上だと思わなくて」
「珍しいじゃん」
「珍しい…?」
「お前の俺センサー精度高いから」
確かに、と変に納得した。
相手が三上ならどんな人混みにいてもなんとなく気付ける。
恐らく、余計なマイナス思考に陥っていたせいで彼に対するアンテナが鈍ったのと、三上からこちらに近付くわけがないという先入観だ。
実際、恋人になってからも追いかけているのはいつだって僕の方だ。
「ちょうだい」
三上は皿に転がるカットされたトマトを指差した。
「ど、どうぞ」
手掴みでは汚れてしまうので箸ごと渡そうとしたが、三上は頬杖をついたままぽっかりと口を開けた。
これは口に突っ込めということだろうか。トマトを掴んだまま固まると早くしろと怒られた。
慌てて行儀が悪いと思いつつ手皿で彼の口に箸を突っ込んだ。
「…トマト、好きだっけ?」
「好きだよ」
自分に対して言われたわけじゃないのに、くっと顔を背けながらありがとうございますと心の中はスタンディングオベーション状態だ。
紙吹雪が舞い、祭壇の頂上の玉座に不遜な態度で座る三上に万歳三唱。
今日も麗しい、世界一、生きてるだけでありがとうございますと沢山の自分が足元に平伏し慈悲を求める。
ぼんやりとそんなことを考えてにやりと笑ってしまった。
「なに笑ってんだよ」
「あ、いえ、ちょっと妄想が…」
「気持ち悪い」
「はい」
蔑む言葉ですら嬉しい。自分を見て、自分に対して何か言葉をくれるだけでハレルヤだ。
暖簾に腕押し、糠に釘な以前に比べれば、疎まれても視界に入れてくれるだけまだまし。
「じゃあな」
「は、はい」
去って行く後姿を眺めながらなんのために来たのだろうと首を捻った。
特に用事があったわけでもなさそうで、トマトが目的というわけでもないだろう。
彼の気紛れに理由を探すのは無意味なので、まあいいやと残りの食事を済ませて教室へ戻った。
翌日からも村上はおはようとさよならの挨拶をくれた。
たまに学食でよ、と声を掛けてくれたり、教室内でぽつんと一人でいると他愛ない会話を提供してくれる。
気軽な友人時代はこんな風だったっけと思い出し、少し嬉しくなる分酷い過去に脚を引っ張られる。
過去を清算しようと思った。なかったことにはできないが、誰にだって間違いはあって、村上の場合はそれが少し行き過ぎただけと。
いつまでもぐちぐち言うような真似はしたくないし、謝ってくれたのだからこちらも気にしていないというスタンスは崩してはいけない。
最大限、彼が気遣っているのは空気でわかった。
こちらを怖がらせぬよう接触はせず、少しだけ距離を置いて話す。
二人きりの空間では長話はせず、挨拶だけで自分の前から姿を消す。
そうやってじわじわと距離を縮めていった。
「じゃあね真琴」
「うん。また」
鞄を持った蓮が甲斐田君の元に走っていく。今日は一度部屋に戻ったら月島君の部屋に泊まるらしいので鍵をしっかりかけるようにと念を押された。
自分も鞄を持って昇降口へ向かい、靴を履きかえる。少し先に村上が友人と一緒に歩いているのを見つけ、声を掛けようか、かけまいか悩んで、友達との楽しい時間を白けさせたら悪いのでやめた。
しかし彼はこちらの視線に気付いたのか、ちらりと振り返って友人に手を振ってこちらに戻ってきた。
「よお」
「う、うん。友達、いいの?」
「あー、いいよ別に」
「そっか」
交友関係が広い人は一緒の時間を過ごす人を好きに選べるんだ。
すごいなあと感心し、そして彼が選んだのが自分というのが少しだけ面映ゆい。
スマホを操作していた村上が顔を上げ、懐っこい笑顔を見せた。
「お前あれ飲んだ?タピオカ」
「人気のやつ?」
「飲んでないんだ」
「うん。女の子が買うものかなあと…男一人で並んだら変な目で見られそうだし。飲んでみたいなあとは思うけど。ミーハーかな」
「いや。俺この前誘われて買いに行ってみたよ」
「美味しかった?」
興味津々で前のめりになって問うと、くすりと笑われ頷いた。
「どういう食感なの?こんにゃくみたいな感じ?」
「…行ってみる?その店はそんな並んでなかったし」
「い、いいの?」
「いいよ。じゃあ駅行くか」
並んで歩きながら流行に疎い自分にこうやって情報を与えてくれる存在はありがたいなと思った。
潤もそういう分野には強いが、食に関しては興味なしな様子で並んでまで飲みたいものかねえ、なんて皮肉を言っていた。
数駅先の駅で降り、雑多な商業地区の中にある小さなお店を指差された。
「おお、少し並んでるね」
「まああの程度なら十五分ってとこだろ。回転早いし」
「楽しみだなあ」
列の最後尾に着きながらにこにこ微笑むと、こちらを眺めていた村上がふっと笑った。
「楽しそうでなりよりです」
「うん。ありがとう。一人なら絶対来れなかった」
「夏目とか誘えばいいじゃん」
「まあそうなんだけど、蓮は友達多いし毎日忙しそうだから」
「三上は?」
「いやー、ないでしょ」
「そうか?だってつきあってんだろ?」
「うーん…」
曖昧に笑って誤魔化した。
村上に三上とのあれやそれを話す気にはなれない。
蓮や潤ならともかく、彼は同性愛そのものを憎んでいるようだし、わざわざ聞きたい内容でもないだろう。
色んな考えや嗜好の人がいて、すべてをすり合わせる必要はなくて、足並みを揃える必要もない。お互い不快に思わない範囲で距離を保ちながら生きていけたらいいのだけど、人間は理解できないものを排除したがるらしい。
歴史を振り返ってもそういったことは珍しくなく、たくさんの物が進化して便利になったけど本質は変わらない愚かさが人間ってものだよなあ、なんて一人で納得する。
「次だぞ」
制服を引かれ慌てて一歩前に進む。
メニューを見てもよくわからないので、一番人気らしいミルクティーにした。
他にも抹茶とか、紫芋とか、ペールトーンの液体は可愛らしい女の子にぴったりだなと思う。
大きな容器を受け取り、歩道のガードレールに寄りかかりながら吸ってみる。
ころんとしたタピオカを咀嚼し、目を大きくした。
「すごい!もちもちしてる!」
「な、面白いよな」
「原材料はなんだろう…」
顎に手を添えながら考えた。
「キャッサバっていう芋らしい」
「ああ、毒があるとかいう…」
「そうそう」
ほえー、と馬鹿みたいな声を出しながら感心した。
村上は昔から自分の知らないことを教えてくれる。そりゃそうだ。僕より頭がいい。
勉強ができるだけではなく、日常の中の豆知識なんかも幅広く知っている。彼に聞けばだいたい答えが返ってくるので、一時、歩くウィキペディアとあだ名をつけたら思い切り嫌な顔をされた。
思い出すとおかしくて一人で笑ってしまった。
「なに」
「いやー、昔歩くウィキペディアって言ったら嫌な顔されたなあと思って」
「ああ、あれな」
「いいあだ名だと思うんだけど」
「嫌だ。なんかこう、無駄なことばっかり知ってる感じで」
「無駄な知識なんてないよ」
「あるよ」
「例えば?」
「えー…携帯で話してる声は本当の声じゃない、とか?」
「なにそれ?」
「本人の声に似て聞こえる作られた声ってこと」
「仕組みがまったくわからない」
「説明するの面倒くさいから後は自分で調べてください」
「そう言われるとめちゃくちゃ気になる…しかも全然無駄な知識じゃない…」
「無駄だろ。どこで役に立つんだよ」
「こういうときだよ。なんとなーく、何か話したいとき」
「あー、なるほど。聞かれなきゃわざわざ話さないけど」
「僕はそういう話し好きだよ。楽しいから」
「自分で調べないと身にならないんだぞ」
「わかる。勉強も教えられるより自分で調べた方身になるし。でもついつい学に頼っちゃうんだよなあ」
むにゃむにゃと口を動かしながらストローを吸い、噛む度に感動した。
ずっと食べていたいけど、カロリーがやばいとも聞いたのでたまのおやつに留めよう。
「他はどっか行きたいとこある?」
「特には」
「じゃあ帰ろう。保護者に怒られるから」
「保護者?」
「夏目とか、麻生とか?」
「怒らないよ。それに僕、意外としっかりしているといいますか…」
「本当にしっかりしてる奴は自己申告しねえんだよ」
軽く頭を小突かれ、言い返せないのでむっと睨んだ。
けたけた笑われるだけなのでそれ以上の言葉を呑み込み、本当にしっかりしているのに…とぶつくさと心の中で文句を垂れた。
行くぞと背中を押され、名残惜しいがカップを持ちながら電車に乗り、寮へ戻る。
村上の部屋の方が先なのでまたなと手を振られ、待ってと声を掛けた。
「なに」
「あ、あの、ありがとう。連れて行ってくれて。すごく美味しかった」
「そりゃーよかった」
少しだけ皮肉が篭った声色に、本当は迷惑だっただろうかと恐る恐る顔を上げた。
意地の悪そうな笑みを浮かべた村上は僕を暴力の捌け口にしていた頃のようで、一瞬身が竦んだが気を持ち直して笑顔を作った。
「じゃあ、また来週…」
ぺこりと頭を下げ、足早に部屋に向かった。
彼のすべてを知っているわけではない。表面ばかりをなぞるから騙されるのかもしれない。だけどきちんと謝ってくれたのだし、信じなければ罰が当たる。
本当に疎く思っていたらこんなによくしてくれない。だから大丈夫。
そうだよなと自分に問い、絶対にそうなはずと言い聞かせた。
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