5




半開きになっていた扉を開け、中を覗くと彼が放り投げた学ランとシャツが床に転がっていた。
うひょーと奇声を発しそうなのを堪え、それを胸に掻き抱いて床をごろごろ転がる。ぴたりと動きを止め匂いを嗅いでみたが無臭で、香水の香りや体臭のようなものはない。やっぱり一時着ただけじゃだめらしい。残念に思いつつ、それでも彼はこの制服を三年間着続けたたのだと思うと込み上げるものがあった。
椿さんに聞いた話しを思い出すと少し落ち込む。三上はどんな気持ちで過ごしたのだろう。今も遠巻きにされることが多く、しかし本人はあまり気にした素振りはないので同じような感じだったのだろうか。
女性に言い寄られるのにうんざりして東城に来たのに、今度は男にストーカーされ、心底己の運命を呪っただろう。三上があれほど冷たくした理由も今ならわかる。
申し訳ないことをしたな、と思う。過去を知っていたら好きにはなってもせめてオープンストーカーはしなかったのに。
悔やんでも仕方がないこと。でも、それなら尚更三上が自分を受け入れてくれたのは奇跡だ。
好き、と呟きもう一度床をごろごろ転がった。

「…なにしてんの」

「…あ、おかえり」

何事もなかったかのように自然な素振りで床に正座したが、後ろに隠した学ランを引っ張られた。

「変なことに使うな」

「変なこと?」

「オカズにすんなって言ってんの」

「そんな、僕はただ三上の匂いしないかなとか、中学生の三上を想像してぎゅっとなる胸を発散させるために転がっただけで…」

「オカズにされる方がましだった…」

ベッドに腰かけ水を飲む姿を眺め、さっき自分はあそこで三上の…と思い出したら今度は羞恥で死にそうになり床に額をぶつけた。

「うわ」

「…僕、帰ります…」

「…お前はよくわかんねえ奴だな」

「…わからない?」

「帰ってほしいときは帰らないって言うし、いてほしいときは帰るって言う」

「いて、ほしい…」

床を這い蹲って三上に近付いた。

「本当?僕にいてほしい?」

「だって今帰したらヤリ目みたいだろ?」

「ヤ、ヤリ…?」

「あー、なんでもない。とにかく今日は泊まって行け」

「うん、うん」

羞恥だとか、手順の復習だとか、そういうことはすっぽり頭から消え、彼のいてほしい、という言葉だけが何度もリフレインする。
うきうきしながら三上の髪を勝手に乾かしてやり、骨が浮き出た広い背中に涎が垂れそうになる。触りたい、舐めたい、噛み付きたい。本能を抑え付け、今度はベッドを綺麗に整えてやる。
共にベッドに入り、うつ伏せになりながら雑誌を開いた彼の横顔を見てにやりと笑った。

「あ、お前あれどうした。パンツ」

「洗ってビニール袋に入れた。もう捨てる。欲しい?」

「死ぬほどいらない」

「…皆どうしてるのかな」

「どうって?」

「寮だと滅多に処理できないからたまるでしょ」

「彼女いる奴多いし、そうじゃねえのは普通に自分で処理してんじゃねえの」

「でも三年にならないと一人部屋じゃないよ」

「個人部屋があるだろ」

「薄い壁一枚だよ?声聞こえるじゃん」

当然の疑問を口にしたのだが、三上は妙なものを見るような目でこちらを振り返った。

「声、出んの?」

「え、うん」

「自分でやって?」

「…うん。え、何か変?」

「しかも隣に聞こえるくらいでかい声出んの?」

「なに。おかしいの?え、あれ?」

皆そうだと思っていたが、もしかして違うのだろうか。

「俺さっき声出したか?」

「……出して、ない…」

「そういうことだ」

石で頭を殴られたような衝撃だった。皆きっと同室者がいないときを見計らっているのだろうと思っていたが、そもそも自慰で声は出ないらしい。

「ど、どうしよう。僕変なんだね?」

「…まあ、いいんじゃねえの。人それぞれで」

「やだやだ!直す!」

「そういうことはすぐ直そうとすんのか…」

「訓練しなきゃ。三上とキスするときだってどんなに必死に我慢してたか…」

「…気付いてないかもしれねえけど結構出てるぞ」

「あー!死にたい!」

両手で顔を覆った。穴があったら入りたい。恥の上塗りでもう二度と三上とキスできない。

「あー!あー!」

「うるさ…」

「どうしようもう、もう…」

「口輪すれば?」

「それじゃキスできないじゃん」

「俺とするときは別に我慢しなくていいだろ」

「嫌だ。男の喘ぎ声なんて気持ち悪いし」

「気持ち悪いって途中で止めたことねえだろ」

「…ない、けど…」

自分のところにだけ重力がかかっているかのように落ち込んだ。
もうこのまま地面にめり込んでしまいたい。それか声帯が壊れるまで叫ぼうか。もしくは滝行でもして煩悩を殺すか。
気持ちいいと声は自然と出るものだと疑わなかった。きも、自分きも。

「へこみ方が全力」

「…死にたい…」

「お前声高いから喘ぎ声も可愛いぞ」

「え、可愛い?」

ぱあっと顔を明るくするとくっと笑われた。からかわれたらしい。

「やっぱ死ぬ」

「嘘だって。お前が感じてる声、俺は好きだぞ」

「ほ、本気で言ってる?気遣ってる?」

「俺が気とか遣うと思うか?」

「思わないけど…」

「男ならその方が嬉しいのは当然だと思うけど。女だってそのために演技で声出すくらいだし」

「ほえー、演技か…じゃあ僕も演技ということで…」

「お前にそんな芸当は無理」

ぴしゃりと言われ悔しくなる。確かに三上のキスは気持ちいい。他にしたことがないので比べられないが、恐らく上手なのだと思う。見た目や性格に反してとても優しく丁寧で、舌が一つの生き物のように器用に動く。
経験の差を見せつけられぎりぎりと歯を噛んだ。自分だってもう少し練習すればあれくらい……できないな。早々に諦め、声を出さない修行が先決だと思い直す。

「猿轡買おうかな…」

「だから我慢しなくていい」

「自分が嫌なんだよ!」

「俺がその方がいいって言ってんのに?」

「それを言われると…三上ってやっぱりむっつりなんだね」

「は?」

「普通は気持ち悪いからやめろって言うんじゃないのかな」

「じゃあ逆に俺がめちゃくちゃ喘ぐ奴だったら気持ち悪いって言うか?」

「言わないよ。そんな三上絶対可愛いから是非喘いでほしい」

「そういうことだ。俺は喘がねえけど」

そうか、と納得しそうになり、三上と自分は違うのでなるべく抑えようと思う。努力で解決できればいいけど。
一応彼なりに励まし、取り繕わずともそのままの自分でいいのだと言ってくれたのだろう。

「…見なくてもわかる。にやにやしてんだろ」

「ふへ」

「そんなにこの顔が好きか」

「好き」

「…あ、そ」

「でも顔だけじゃないよ。身体も性格もとにかく全部。三上陽介という存在が尊い」

「よくもまあ、そんなに他人を好きになれるもんだ」

吐き捨てるような言葉にはどこか棘があって、男女関係なく好意を寄せられること自体が疎ましいのだろうと思った。

「……三上、ごめんね」

「なにが」

「一年の頃、好きだ、好きだって言い続けてすごく嫌だったよね」

「今も言ってんだろ」

「そうだけど、椿さんに聞いたら申し訳なくなって。折角男子校選んだのに今度は男に言い寄られるなんてさ…」

三上は雑誌を閉じ、こちらに手を伸ばして鼻の先をきゅっと摘んだ。

「お前が思ってるほど嫌な中学時代じゃなかったぞ」

「そうなの?」

「ただ恋愛が絡むと人間面倒くさくなるって知っただけ。お前みたいにめそめそ過ごしてたわけじゃねえから」

「め、めそめそなんてしてないよ」

「嘘つけ」

三上は俯せで枕に伏せ、顔だけこちらを向いた。

「…あの頃はまさか男とつきあうとは思ってもみなかった」

「ですよね。すいません…」

「俺が自分で選んだことだ。人生なにがあるかわかんねえな」

「そう!そうなんだよ!三上とつきあえるなんて思ってもみなかった!」

「思ってもみなかったのにあんなに毎日ストーカーしてたのか?」

「だって発散しないとおかしくなりそうなくらい好きで…今もそうだけど、今はまだ顔が見れて、話せて、触れるし…」

言いながら、十分じゃないかと思った。
彼はいつか自分から去る。それがとても怖かった。毎日が幸福で、一度知った味は忘れることができない。もう無理だと彼が判断したときぐずぐずと縋りそうで恐ろしい。
傷は浅い方がいいに決まっているのに、心臓まで貫通した穴は三上でいっぱいで、ぽっかり空いたら血が流れ続けて死んでしまう。だからもっと、もっとと望んだけれど、望んだだけ穴も大きくなるのでこれ以上はないのだと諦めなければ。
一年前と比較すれば天国ではないか。好きだと言ってくれた。触れて、キスをして、それ以上もさせてくれた。これ以上は罰が当たるだろう。
三上が生きてるだけで幸せ。出逢えただけで幸せ。言い聞かせるように唱えた。

「…それで?」

「それで、とは?」

「顔見て、話して、触って、俺の咥えて、その次は」

「次?次もさせてくれるの?毎日でもするよ」

「そうじゃなくて…」

溜め息を吐かれ首を捻った。三上が望まなくてもこちらはやりたいのだけど。

「俺が男を抱けるか試してんだろ?萎えなかったしもういいか」

「もう、いい…?」

「俺も触っていいかって聞いてんの」

「だ、だめに決まってる!一方的にやられて萎えないのとはわけが違うし、もう少し慣れてもらわないと!」

「わかった。試しに触らせろ。勃てばいいんだろ」

「勃たなかったときのがっかり感を想像すると怖い…」

「だとしても絶対別れない。それならいいだろ」

「人生に絶対はないのだよ三上君」

「なんでそんなごちゃごちゃ考えんだよ。とりあえずやってみるって選択肢はお前にはないのか」

「だって童貞で処女だし」

「俺だって好きな奴は触りたい」

親指で頬を撫でられ馬鹿みたいに口をぽっかり開けた。

「…好き…」

「だからつきあってんだろ?」

「…三上はずるいなあ。普段は絶対言わないくせに、こういうときはさらっと言うんだ。僕がちょろいの知ってて」

不貞腐れると珍しく彼が笑った。

「そうだな」

背中に手を差し込まれ身体を起こす。三上を跨ぐようにするとTシャツの中に手が入り背中を指先でなぞられた。くすぐったくて背中を反らせると今度は喉元を舌でなぞられる。

「…ま、まだいいって言ってない」

三上の肩を押し返すようにすると今度は耳朶を甘噛みされ、耳の穴に舌が差し込まれる。
水音が響くたび腰に電流が走ったようにぴりぴりし、必死に下唇を噛み締めた。

「ひ、みか、み」

「いいよな?」

「…う…でも…」

「真琴」

耳元で初めて呼ばれた名前に腰から下が溶けたように力が抜けた。かくん、と崩れそうになる身体を支えられ、とろりと蜂蜜がかかったような瞳を覗き込まれる。

「…いい、です」

答えに満足した様子の三上は口端を僅かに上げ、嘲笑うようにした。きっとちょろいと思っているのだろう。事実だけれど。
その時、枕元のチェストに置いていた三上の携帯が鳴り、びくりと肩が強張った。

「…三上、電話…」

「放っておけ」

しかし、電話は一向に鳴りやまず、切れたと思ったらまたかかってくるの繰り返しで、機械音のせいで先ほどまでの甘ったるい空気が裂かれたようになった。

「…んだようるせー!」

ついに彼は電話をとり、はい、と怒鳴るように出た。

「なんだよお前しつけえんだよ!……セックスするとこだったわボケ!」

電話相手が誰かは知らないが、そんなことを言っていいのかとこちらが慌てた。
邪魔してくれて安堵した。あのまま雰囲気に流されるところだった。三上の色気はすさまじい。あれは凶器だ。ここぞという場面で必ず相手のツボをついてくる。
自分が簡単すぎるのも問題だが、欲しいものを欲しいタイミングでそっと与え、そうと気取られぬまま自分のペースに持っていく。
しっかりしろ。自分に言い聞かせるが、あの空気の中に身を置くと何度でも彼の言いなりになりそうで、とほほ、と苦笑した。



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