8




翌日はなんの連絡もなかったので大人しく自室で過ごし、金曜日の夜、勉強も終わりやることがなくなったので少し早いが眠ろうとベッドに入った瞬間電話で呼び出され、彼の部屋を訪ねた。
ノックをしても返事がなく、扉を開けたらリビングは真っ暗で、きょろきょろしながら薄く開いていた三上の寝室の扉を開けた。
三上はベッドを背凭れにし、風呂上りなのだろう、頭からタオルを被り難しい顔で本を開いていた。

「…お邪魔します」

声をかけると彼は本を閉じ、棚の上にそれを置いた。
三上が読書なんて明日は雪だろうか。だいぶ失礼なことを考え、なにを読んでいたのと聞くと普通の本、とそっけない返事。
本にはカバーがかかっていたので外側からではタイトルまではわからない。まさか官能小説の類だろうか。いや、三上に限ってそれはない。

「こっち来い」

手を伸ばされたので条件反射でそれを掴むと強く引っ張られ、転がるようにして彼の足の間にすっぽりと身体を収める格好になった。
背後に感じる三上の熱に三角に折った足をぎゅうっと抱いた。

「あの、この体勢は一体…」

「別に」

別にってことはないだろう。こんなこと一度もされたことがない。
いつもいつも近付いてはべしゃりと跳ね除けてきたくせに。
また理性を試されているのだと判断し、いよいよやばくなったらトイレに行くふりをして落ち着こうと決めた。
膝を抱いた腕に力を込め、なるべく身体が触れないよう縮こまった。
三上はなにも言わず、縮こまる身体に体重をかけて首に腕を回した。息を呑んで小さく浅い呼吸を繰り返す。大丈夫、僕なら我慢できる。何度も自分を鼓舞するが、目の前でおやつをちらつかせられた挙句待てを言い渡された犬の気持ちとシンクロした。
あの行為になんの意味があるのだろうと思っていたが、主人への忠誠心を測るためなのかもしれない。だとしたら自分もおやつには飛びつかない。ぎりぎりと奥歯を噛み締めた。
しばらくそのままでいると、三上は溜め息を吐き、身体を離した。

「…だめだ」

え?と後ろを振り返ると、彼は怒りとも失望とも言えない顔をしていて、またなにかしくったのだと気付く。

「こっち向け」

言われ、そろそろと彼と対面するように正座した。
俯きがちな顔に手が添えられ、真正面から視線を絡める。切れ長の彼の瞳には一瞬の甘さもない。

「今なにを考えてる」

聞かれたことには素直に答える。約束を思い出し、咄嗟に誤魔化そうとした口を一度閉じた。

「…な、なにか怒らせるようなことしたかな…」

「してない。後は」

「…おやつにはとびつかない」

「なんだそれ」

小さく三上が笑ったので、強張っていた肩から少し力が抜けた。
三上は頬を包んでいた手を開き、綺麗で長い親指で唇をきゅっと擦った。もう一方の手はゆっくりと下降し、首筋を撫で、シャツからのぞく鎖骨を撫でた。

「…今はなに考えてる」

「……三上のこと」

「具体的に」

「……言えない」

三上が婀娜っぽいとか、キスしたいとか、自分も触れたいとか、汚い欲望など持ってはならない。決して開けてはいけない箱に詰め込んで頑丈な鎖で縛らなければ。

「言わないとご褒美なし」

「…それでも、言えない」

「…まだ足りねえか…」

三上はぼそりと呟き天井を見上げた。なにか思案しているようだが、彼がなにを考えているのかさっぱりわからない。

「聞き方変える。お前は俺になにしてほしい」

「…なに、って?」

「なんかこう、あんだろ。やってほしいこと」

「…一緒にいてくれるだけで十分だよ」

半分本音で半分嘘だ。
一緒にいればその次、それが叶ったらまたその次。人は慣れ、欲は絶えず、いつかは求めるばかりの人間になりそうで怖い。
一生分の幸福の量は決まっていて、これ以上など自分にはありえないと諦めた方が楽なのに、心の片隅で期待する。三上から手を伸ばされるたびその部分が揺れ、肥大していく。抑え込むたびなんだか悲しくなるけれど。
三上は少し考えるようにしてふっと息を吐き出した。

「…やっぱ俺こういうのむいてねえわ」

「こういう、の?」

「腹の探り合いみたいなの。面倒くさいからやめる」

「探り合ってたっけ?」

「俺がな」

そんな覚えはないのだけど。
試されているとは思ったが、探られるほど自分の心は複雑じゃない。問題は一つだけ。三上が好きすぎること。

「お前俺に聞いたよな。こういう関係になって後悔してないかって」

小さく頷いた。

「俺にはお前の方が後悔してるように見える」

「……なに、言ってんの。後悔なんてするわけないじゃん」

ずっと三上が好きだった。叶わぬと知りながら諦められなかった。願いが叶って喜ばない人間がいるものか。

「俺と関係を持って自分がゲイだって改めて認めるのが嫌なんだろ」

「…そんなのとっくに認めてる…」

「冗談交じりに好きだって追い駆けてたときの方が楽だっただろ。逃げ道があるもんな」

「…違う」

「本当は俺が拒絶するたび安心してた」

「違う!僕は、僕は本当に…」

本当に三上が好きで、笑ってほしくて、気持ちを受け取ってほしかった。
――受け取ってほしかった?受け入れてほしかったではなく?

「…そういう目でみられると気持ち悪いでしょってお前が言ったとき、こいつは自分のことそう思ってんだってわかった。村上に言われたからじゃない。自分で自分を気持ち悪いと思ってる」

「……だって、そんなの…」

当たり前じゃないか。
異性を愛するのが普通とされる世の中で、自分はマジョリティーから弾き出された欠陥人間。
三上にはわからない。女性を愛せる三上には。
皆と同じように人を好きになり、心を震わせ涙を流したいだけなのに、そのせいで詰られ、身体も心も殴られ、満身創痍で断崖ぎりぎりを歩いていた。

「なにをそんなに怖がってんだよ」

握っていた拳を解すようにされ肩が強張った。
怖い。
自分は生きているだけで誰かを不幸にする。
ぎゅっと瞳を瞑った。
遠い記憶が蘇り、内臓すべてが逆さまになるような気持ち悪さが襲う。
自分の初恋は多分、学の兄の健兄ちゃんだ。その時はまだ恋を自覚できるような歳ではなく、皆が騒いでいる可愛らしい女性アイドルに興味が持てないことも気にしなかった。
視線を奪われるのは兄の友人や若い男の先生で、特に健兄ちゃんには異常なほど懐いた。周りの大人たちは父親がいないせいで年上の男が恋しいのだと同情した。でも母だけは違った。自分が健兄ちゃんを求めるたび、困ったように笑ったのだ。
その笑顔を見て理解した。健兄ちゃんへ向ける気持ちは"悪いこと"なのだと。煩わせて、悩ませて、お荷物になって、不幸にしてしまう。いい子でいなくちゃ、いい子でいなくちゃ、いい子で――。

「……めんなさい。ごめんなさい」

恐らく三上が言ったことは正しい。
自分が自分を一番許せなかった。どうして女性を好きになれない。どうして普通でいられない。治す薬があるなら今すぐ飲みたい。
三上に厳しい言葉を投げつけられるたび、もっと不幸にしてほしいとすら願った。もう二度と誰も好きになれないように。
女性を愛せないなら、心ごと壊してほしかった。

「…泉」

握られていた指先に力が込められた。

「今ならまだ引き返せる。お前はどうしたい」

「…引き返す…?」

「お前を手放すってこと」

「嫌だ。そんなの絶対に嫌だ」

必死に三上の腕を握った。
わかってる。自分でも矛盾していると。同性しか愛せない自分を憎みながら三上を求めて、不均衡な天秤は苦しさばかりに傾いていく。

「…じゃあ、もう自分のこと許してやれば。気持ち悪いなんて思うなよ」

「でも…」

「お前はどこも変じゃない」

しっかりと目を見て言われた。身体の一部がぽろりととれた感覚がした。ちらちらと視界に映り邪魔だったなにかが。
他の誰でもない三上に言われたからか、それともこれを社会的証明の原理というのか。
三上は頭を包むようにして大丈夫と言った。

「……悪いことじゃないのかな」

「悪くねえよ」

恐る恐る彼に手を伸ばした。指先を頬にかざすと、その手を包まれるように握られた。
一度瞳を伏せた三上は苦しそうに眉を寄せ、僕の掌に口付けた。

「…今なにを考えてる」

先程と同じ質問に、今度は躊躇しないで口を開いた。

「…キスがしたい」

三上は漸く言ったと呟いてから軽く唇を重ねた。

「お前の本音を引き出すのは本当に骨が折れる」

頬をぐにぐにと潰されながら言われ、ごめんと呟いた。

「…お前から欲しいって言わせたかった」

「…そんなこと言ったら嫌われると思って」

「お前は本当に…。いつも最後の最後でブレーキかけるから色々拗らせんだよ」

「…うん」

三上をこちら側に引き摺り込んだこと。
自分が三上に対して欲を持ってしまうこと。
すべてすべて悪いことだと思っていた。固定観念はすぐに消えるものじゃない。これからも迷い、立ち止まって、拗らせるだろう。
でも彼が大丈夫と言えば頑張れる気がして。一歩進んで、二歩下がって、そんなやり方でもいいから自分を許していけたらもう少し楽に生きられる気がする。


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