3
上半身を起こして目を擦る。寝不足で頭が働かない。
昨晩は三上の残り香に支配され、いけない妄想をして、我に返って頭を空っぽにして、でも空になるとまた三上のことを考えて、悪循環の輪の中で苦しんだ。
漸く眠れたのは明け方三時を回った頃でまったく寝た気がしない。
のっそりと身体を起こし、登校する前に傷の具合を確認した。腫れは引いたが痣は残ったままだ。
眼帯で隠そうかと思ったが、こんな痣誰も気にしないと開き直ってそのまま学校へ向かった。
HRが終わり、一限の準備をしていると担任に手招きされながら呼ばれた。
今日は日直ではないし、なにかへまをしただろうか。地味な生徒代表な自分は先生に呼びつけられることに慣れていない。どきどきしながら近付くと廊下の端まで連行され、先生は周りを見計らい声を潜めた。
「…泉、その目元の痣どうした」
「え…?あ、ああ、これですか。これは、ちょっと転んだというか…」
まさか三上と一緒に寝てたら肘がぶつかりました、なんて正直に言えるはずもなく、床に視線を固定させながら言った。
「……そうか。まあ、気をつけろよ」
「はい」
先生はぽんと腕を叩き階段を下りていった。
上手に嘘がつけていただろうか。自分は嘘が下手だと言われる。
しかし真実を話せば三上の沽券にも関わる。いくらなんでも男同士で一緒に寝るのは不自然だ。三上が後ろ指を指される事態は回避したい。ぐるぐると考えていると予鈴が鳴り、慌てて教室へ戻った。
四限が終わり教科書をこんこんと揃えて仕舞うと、扉の方から泉と呼ぶ三上の声がした。大きな声ではなくともすぐにわかる。ぱっと顔を上げてそちに駆け寄った。
「ど、どうなさいましたか」
昼ご飯を買いに行けと言うならすぐに行くし、借りたいものがあるならすぐにとってきますと続けると、彼は飯付き合えと踵を返した。慌てて財布をとり、彼の背中を追う。
学食はいつも通り混雑していて、二人分のスペースを確保するのも苦労した。
箸を持つ細くて長い綺麗な指を見詰めているとうどんが伸びてしまい、なにやってんだと怒られる。
また変な目で見てしまった気がして、目線を泳がせたあと自分の手元に固定させた。
自分の頭の中は自分しか知らない。だけど彼に見詰められるとすべて伝わってしまうのではないかという馬鹿げた恐怖が襲ってくる。そんなことあるわけない。漫画やドラマじゃあるまいし。大丈夫。ちらっと顔を上げると、先に食べ終わった三上が頬杖をつきながらこちらを凝視している。やっぱり不埒な妄想がバレてるのではないかとぎぎぎ、と音なしそうなほど不自然に視線を逸らした。
やっとのことですべてを胃袋に突っ込み、逃げるようにトレイを持って立ち上がった。
食器を返したら教室へ戻ろう。出口へひらりと身体を向けると後ろから腕を掴まれた。
「ちょっとつきあえ」
「……はい」
三上は途中の自販機で買った牛乳をこちらにぽんと投げた。
「無駄な努力してるらしいから手助け」
「無駄な、努力?」
「シックスパック目指して筋トレしてんだろ?」
「なんで知ってんの。それに無駄じゃないし」
「どう考えても無駄だろ…」
三上はこちらにちらっと視線を移し、ふっと鼻で笑った。今に見てろよ。反発心から燃え上がる。蓮と二人の秘密の特訓だったが、これからはメニューを増やそう。いつかもやしと馬鹿にしてすみませんでしたと言わせてやる。三上や皇矢よりも屈強な肉体を手に入れるのだ。
三上は中庭の木陰に腰を下ろし、大きく欠伸をした。
距離をとって自分も座り、ちゅーちゅーと牛乳を飲みながら周りの景色に視線をやった。
なるべく彼を視界に入れず、邪な妄想も止めなければ。熱が篭った瞳は隠せそうにないし、知られたら気持ち悪いと本気で引かれる。
欲望の対象にされると、自分がつきあってるのは男なのだとリアルに実感するだろう。生々しい熱に拒絶したくなる。それは心とは別の本能なので三上を責める気はないし、そうならないように誤魔化すのが自分の務めだ。
少し先でサッカーをして遊んでいる一年を眺めた。運動は苦手だが、もんもんとする気持ちはスポーツで発散するのが一番いい気がする。
帰ったらジョギングでもしようかな。考えていると、とんと肩を叩かれ、そちらを振り返ると至近距離に彼の顔があり思いきり後ずさった。
「びっくりしたなあ!」
「何回も声かけただろ。顔見せろって」
「…顔?」
彼はとんとんと目元を指したので、へらりと笑った。
「須藤先輩も言ってたけど、見た目より軽傷だから。全然痛くないし」
「ふうん」
三上はこちらに手を伸ばし、さらりと前髪を払った。思わぬ接触に焦ってその手を叩き落とす。やってしまった。気付いたのは三上がぽかんと口を開けたからだ。
「…ごめん!びっくりして…」
そのとき予鈴が響いた。ほっと安堵し立ち上がる。
「三上行こう。遅れるよ」
さっさと校舎へ向かうと、後ろから肩を引かれ、胸倉を掴んで壁に押し付けられた。
「…お前また碌でもねえこと考えてんな…?」
「ろ、碌でもないこと…!?」
やはり三上にはエスパーの力があるのでは。あんなことやこんなことを想像したのが知られたのでは。恐慌状態に陥り、ぱくぱくと口を開けたり閉じたりした。
「ご、ごめんなさい!もう二度とコスプレなんてさせませんから!」
「……は?」
「え?」
三上に着せたい衣装をずらりと並べてあれもこれも似合うなあ、とにやにやして、更には言わせたいセリフまで考え、そのままベッドインという妄想を咎められたと思ったが、どうやら違ったようだ。完璧な自爆に無意味に腕を上下に動かした。
「ち、違いますから!」
「…なにが?」
「…えっと…あ!本鈴鳴る!」
胸倉を掴む腕を払いのけ、後ろは振り返らずに走った。
神さまごめんなさい。やらしい妄想をした罰なら土下座で謝るのでどうか三上の心を繋ぎとめてください。もう二度と肉欲は持ちません。清らかでいることを誓います。どの神さまもこんな呆れた願いは聞いてくれない。でも願わずにはいられなかった。
心ここに非ずな状態で授業を受け、ぼんやりするなと何度も先生に叱られた。今日は今までの人生でも特についていない。
きっと寮に戻ったら何故逃げたのか三上に詰問される。忘れてほしいし、掘り返さないでほしいがきっと無理だ。
どうやって切り抜けようか考えながら帰り支度をすると、校内放送で三上の名が呼ばれた。
授業をサボったり、寝て過ごしたり、課題を提出しなかったり、彼が説教される理由は多々あるが、こんな風に呼び出されるのは珍しい。きっと先生も堪忍袋の緒が切れたのだろう。これで少しは時間稼ぎになった。今のうちに言い訳を考えよう。
鞄を持って立ち上がったが、担任に教室で待機しろと言われた。首を捻って座り直す。
「真琴なんかしでかした?」
蓮が揶揄するように笑う。
「…午後の授業ずっとぼけっとしてたから怒られるのかな…」
「ああ、珍しく注意されてたもんね」
けらけらと笑われ、こっちは泣きたい気分になる。
進学クラスは他クラスよりも厳しく躾けられる。三上や潤は授業中寝ていても丸めた教科書で叩かれる程度で済むらしいが、ここで同じことをすればくどくどと説教が始まる。
「幸運を祈る!」
蓮はびしっと敬礼し、迎えに来た相良君と帰っていった。
ちぇっと唇を尖らせ、退屈なので今日の分の課題を終わらせた。待機と言われてから一時間は経っただろうか。空白の時間があるとまたよからぬ妄想に憑りつかれるので、適当に勉強して頭をぎゅうぎゅうにした。
「泉」
担任に手招きされ、鞄を持ってそちらに近付く。いよいよお説教タイムの始まりだ。行先は生徒指導室だった。踏んだり蹴ったりで落ち込んだが、扉を開けると意外な人物がいた。三上が彼のクラスの担任と学年主任の先生と向かい合っている。椅子に深く腰かけ、ズボンに両手を突っ込むという反抗的な態度だが。
そういえば三上も呼ばれていたなと思い出し、なぜ同じ部屋に自分が呼ばれたのか疑問に思う。
「泉、座れ」
三上の隣を指差され、大人しく座った。ちらりと隣を見ると思いきり不機嫌な顔がある。
「…実はな、ある生徒に三上が泉をいじめているのではないかと言われた」
「はい?」
素っ頓狂な声に学年主任も僅かに目を大きくした。先生は手を組み直し、ごほんと咳払いをした。
「昼休み、胸倉を掴まれてたそうだな」
「え…あ、えっと、それは…」
金銭を要求されるとか、暴力的な意図はなく、三上が暴走する自分を止める手段の一つでしかない。どんな言葉に変えれば理解してくれるのだろう。小さな頭で一生懸命考えると三上の担任がふっと溜め息をついた。
「…その痣も三上がやったんだって?」
「え!?」
「もしかしてと思って聞いたら認めたんだ」
三上を見ると退屈そうに頬杖をついてそっぽを向いていた。
三上は嘘はつかない。お前がやったのかと言われればそうだと答える。でも途中経過を話さなければ誰だって誤解する。自分も上手に言い訳できないので三上の気持ちもわかるけど。
「なんで嘘ついた。朝聞いたとき転んだって言っただろ」
「それは…」
隠し事をしながら上手に嘘をつくのが難しい。嘘も方便という言葉があるが、先生を納得させる理由が思い浮かばない。
もしかしたら三上もそれに躊躇して説明しなかったのではないか。辻褄が合うように話そうとすれば僕たちの関係を匂わせる。三上は気にしないかもしれないが、僕がゲイであることを必死に隠しているから。そのせいでこんな面倒に巻き込んだのだ。
「…親御さんに連絡しますか」
先生が学年主任に問い、そうですねと頷き合った。
まずい。このままではまずい。このご時世、先生もいじめには敏感だ。
「違います!」
思った以上の大声に自分でも驚いた。すいませんと小さく謝り、ズボンをぎゅっと掴んだ。
「僕はいじめられてません」
「…じゃあその痣は。昼休みのことは」
「それは、ちょっとじゃれていただけで…」
「泉、本当のことを言えよ?」
「ほ、本当です」
すべて僕のせいだ。泊まりたいと言ったのも自分。おかしな行動で三上を不安にさせたのも自分。すべて自分が蒔いた種なのに、問題の矛先が三上に向かってしまった。
唇を噛み締めると、学年主任が大げさな溜め息を吐いた。
「みんなじゃれてただけって言うんだよな。三上に口止めでもされているのか?本当のことを言いなさい」
どうして。どうしてわかってくれないのだろう。自分が優等生で三上が素行不良だから?
先生に三上のすべてを理解しろとは言わないが、三上は弱い人間をいたぶって自尊心を満たすような下劣な人間ではない。むしろいつだって救ってくれた。
「本当です。本当に、三上は僕と仲良くしてくれています。この痣だって昼休みのことだって僕が悪いんです」
「…なにがあったかはわからないが、殴ったり、胸倉を掴んだりする理由になるか?」
「殴られたんじゃありません!」
この際嘘をつかずすべて話そう。三上とつきあっている事実は伏せ、自分がゲイでしつこく三上に迫っているのだと。そうすれば先生も三上に同情して多少の乱暴は見逃してくれるだろう。
教師に白い目で見られるのは怖い。おかしい、病気だ、スクールカウンセラーに相談しろと言われるかもしれない。だけど三上が冤罪の被害に遭うくらいならもういい。
気持ち悪い、オカマ野郎。村上たちに言われた言葉がフラッシュバックしたが、ぎゅっと目を閉じて勇気を振絞った。
「先生、三上はなにも悪くないんです。僕がゲ――」
ゲイだから、と言おうとしたが、三上にぱんと手で口を塞がれた。
「なんだ三上。言われて困ることでもあるのか」
学年主任がぎろりと三上を睥睨した。これではもっと深く誤解される。
「…俺こいつのこと好きなんだよ」
三上の言葉に室内が水を打ったようになった。ぎょっとしてそちらを見たが、三上はしらっとした態度を崩さない。
「…な、なんだ三上、急に」
「だから、好きな奴を殴ったりしないし、胸倉掴んだのも自分を見てほしかっただけ」
「…どういうことだ?」
三人の先生に助けを求めるように見られ、ゆるゆると首を振った。
「ち、違…」
「違わねえだろ泉」
三上が被せるように言う。違う。それでは三上がただの変態になってしまう。そんなのはだめだ。こんな守られ方は望んでない。
ぐずぐずと情けない自分を断ち切るようにばん、と机を叩いた。
「先生違うんです!僕が三上を好きなんです!」
先生は間抜けな顔をし、三上はちっと舌打ちをした。
「僕がしつこく迫ってるだけなんです!三上は悪くないんです!三上が乱暴したのはあまりにも自分がしつこかったからで、この痣はたまたま肘が当たっただけです!嘘だと思うなら甲斐田君や蓮に聞いて下さい!」
捲し立て、肩で息をした。
「三上がなにも言わなかったのは、僕に気を遣ったからで…!」
ぐっと身を乗り出すと、わかった、わかった、とりあえず落ち着けと言われた。
「あー、それじゃあいじめはないんだな?」
「ないです!」
「…三上、泉の言葉は本当か?」
三上の担任が聞いたが、彼は何も言わなかった。無言を肯定ととったのか、先生はぎくしゃくと眼鏡を上げ直した。
「…えーっと…三上、疑ってすまなかった」
三上の担任が小さく頭を下げた。
「…別に。疑われるような素行だし気にしてません」
「その、泉もすまなかった。言いにくいことを言わせてしまったな…」
自分も担任に申し訳ないと言われ、ぶんぶんと首を振った。
室内が静まり返り、置き場のないそわっとした空気に支配される。
「…帰っていいすか?」
三上が立ち上がりながら言い、先生も頷いた。自分も鞄を握り、失礼しましたと頭を下げて彼の背中を追った。
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