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梅雨の時期は憂鬱になる。
血圧が低下し、慢性的な身体の怠さや動悸、頻繁ではないが頭痛に悩まされる。
余計な薬は飲みたくないので限界まで我慢してどうにかやり過ごすが、テレビから台風情報が流れた日はうんざりする。
大なり小なり低気圧により体調を崩す人はいるが、自分は心臓への負担が一大事になりうるので、梅雨時期はなるべくひっそりと平坦な毎日を送りたい。雨は嫌いではないのだけれど。
机に頬杖をつき、朝から降り続ける小糠雨を眺める。
隣の席で高杉君が小さく溜め息をついた。そちらに視線を移すと、こめかみ辺りに手を添えていた。
「…低気圧で頭痛い?」
小さく微笑みながら問うと、彼は少し迷ったように頷いた。
「軟弱だと思うのだが、どうにも…」
「しょうがないよ。人間は気圧や月や太陽に影響される生き物だし」
日光を浴びないと精神に支障をきたすし、月の引力に身体が反応することもあるのだとか。互いに影響しあって世界は上手に回っているらしい。
「薬は?よかったら分けようか」
「あまり薬には頼りたくないのだがな…」
「どうしても辛いときだけ飲むといいよ」
鞄をあさり、市販薬の鎮痛剤を差し出した。
高杉君は申し訳なさそうにそれを受け取り、後で返すからと言う。彼らしい律義さにくすりと笑った。
「いいよ。薬は山ほど持ってるから。むしろ貰ってほしいくらい」
おどけたようにすると、高杉君も眉を下げて微笑した。
「…あいつらはそんな悩みと縁遠そうだ」
彼の視線を辿ると、放課後特有の解放感を纏いながら窓の傍で談笑するクラスメイトに辿り着いた。
スマートフォンを片手にけらけらと笑う姿は梅雨に負けない活発さで、見ているだけで明るい気持ちになる。
「マジかよー。さすが海外って感じ」
「いやでもぶっ飛び過ぎだろ」
彼らの会話をなんとなく聞いていると、ぱちっと視線が合い、輪の中にいた一人がこちらに近付いた。
「椎名、高杉、見ろよこれ」
スマートフォンを差し出され、高杉君と覗き込むようにして羅列する文章を読んだ。
海外のニュースを伝えるサイトのようだったが、女教師が中学生の教え子と不適切な関係を持ち妊娠と書かれている。
どきりと一瞬心臓が痛くなり、動揺を隠すために両手をぎゅっと組む。
その教師は出産後に逮捕され、懲役二十年を言い渡されたと結ばれていた。
「すげーよなー。歳の差二十もあるのに」
「…まあ、好みはそれぞれだからな」
高杉君が言い、他のクラスメイトもこちらに近付いた。
「でも逮捕かー。大人だけ逮捕されるってのもなんかなあ…」
「教師として、大人として正確な判断を下さぬのが悪い」
「高杉は相変わらず硬いなあ。もしかしたらちゃんと好き合ってたのかもしれないだろ?」
「そうならば尚更、その子が大人になるまで待つべきだ」
「まあ、そうなんだけどさあ。こういうのは法律で裁けない事情もありそうだし」
クラスメイトの一人がやけに教師の肩を持つので、他の人たちがお前も経験あるのかと囃し立てた。
「ないよ!ないけど、ちょっと憧れるじゃん?綺麗な先生に手取り足取り…」
ああ、わかると周りが口々に言う中俯いた。
「でも東城じゃ若い先生なんて限られてるし」
「女の先生はほとんどが既婚者で四十以上…」
「高橋先生とか、藤崎先生とか、それくらいだもんな」
「んー。でも先生以外ならいるじゃん?事務の人とか、出入りする配達のお姉さんとか」
「でもこんな高校生のガキなんて相手にしねえだろ」
「まあな。香坂レベルじゃないと…」
「俺らには関係ない話しか…」
「椎名はどう思う?」
顔を覗き込まれ、慌てて口を開いた。
「ええっと…」
「椎名は大人っぽいし落ち着いてるし、イケメンだし、ワンチャンあんじゃね?」
「いや、僕は…」
笑おうと思ったが不自然に顔が引きつっただけだった。
彼らはわざとそんな質問をしているわけではない。日常に溶けるような雑談の一部として、進んで輪の中に入れない自分に気を遣ってくれている。
こういうとき、上手に受け答えできないから友人が少ないのだ。
どう答えたら正解だろう。不審がられず、軽く聞き流してもらうにはどうしたら。彼らのように同意すればいいのか、それとも高杉君のように毅然とすればいいのか。
ぐるぐると考えていると、矢継ぎ早にどんな女性が好みとか、年上派?年下派?とか、好きな芸能人とかいる?と質問が飛んできた。
なにか答えなければいけないと勇気を出して口を開いたとき、少し離れた場所から片桐君に呼ばれた。
「椎名ー、ちょっと勉強教えて」
ちょいちょいと手招きされ、先ほどまで自分を取り囲んでいたクラスメイトは、片桐君に興味の対象を移した。
今更勉強しても無駄だとか、教える椎名が大変だとか、それらのすべてにうるせえと片桐君が答え、冗談を交わし合って笑っている。
とりあえずほっと安堵し、片桐君の席へ向かう。彼の隣の席の生徒は帰った後らしいので、椅子を拝借した。
「僕が教えられる教科かな…」
不安になりながら言うと、片桐君は机の中から適当に教科書を取り出した。
彼がちらりと背後に視線をやる。自分の席では、今度は高杉君が揶揄され眉間に皺を寄せてふざけたことを抜かすなと説教を始めた。
「化学教えて」
「あ、うん。でも化学はあんまり得意じゃないな」
「それでも俺よりはできるから安心しろ」
胸を張って言われ、それは逆に安心できないよ片桐君、と心の中で呟いた。
教科書とノートを広げながら、ここは?これは?意味がわからん。と踏ん反り返る彼に根気よく説明をした。
翔のように説明が上手なわけではないので、片桐君を混乱させてしまうかもしれない。
なるべく無駄を省き、簡潔を心掛けると、彼はうんうんと頷きながらノートをとった。
「…片桐君は頭いいんだね」
「俺にそんなこと言うの椎名だけだぞ」
「飲み込み早いから。授業ちゃんと聞けば平均くらいはとれそう」
「それが一番難しいんだよなあ。俺じっと座ってるの苦手。暴れたくなる」
「片桐君らしいね」
くすりと笑うと、彼も安堵したように笑った。
いつの間にか教室内に残っているのは自分たちだけになり、区切りをつけたところで片桐君がこちらに向き合った。
「大丈夫か?」
顔を覗き込まれ、ぱちぱちと瞬きをした。
「…なにが?」
「…さっきあいつらに囲まれて困ってたから」
尻すぼみになりながら言われ、驚いた後微笑んだ。
「大丈夫。ありがとう」
不自然に勉強を教えてくれと声を掛けたのは彼なりの助け舟だったのだ。
自分が矢面に立ちながらさらりと手を差し伸べるなんて、片桐君らしいなと思う。
「…あんま気にすんなよ。お前らとニュースになった人は立場も違うんだから」
残念ながら違うのは歳と性別だけで、あとは概ね同じだ。
片桐君は僕が年上の女性と交際していると勘違いしたままなので、無邪気にニュースを見せられ、傷ついていないか心配してくれたのだろう。
「…うん。でも正直、本当に困ってたから助かったよ」
ありがとうと言うと、片桐君は余計なお世話じゃなくてよかったと笑った。
「もしかして勉強教えたのは余計だった?」
「いや、それはマジで助かるからありがたい。これからも教えてくれる?」
「構わないけど、僕より高杉君の方が頭いいよ?」
「高杉は絶対だめ。勉強教えるより説教の方が絶対に長い」
「言えてる」
くすくすと笑い合い、鞄を持って立ち上がった。
寮に帰りながら体調はどうだとか、期末テストが憂鬱だとか、週末に台風がくるらしいとか、他愛ない話しをした。
翔も言っていたけれど、自分が他人にこんなに打ち解けるのは珍しい。しかも片桐君とはただのクラスメイトという関係で、特に親しかったわけではない。
なにかと気に掛けてくれてはいたが、気楽に昼食を共にしたり、一緒に下校したり、そういうことをできる友人など翔しかいない。
自分でもよくわからないが、片桐君と一緒にいると楽だ。
顔色を窺う必要がなく、言葉に他意を探さずにいられる。きっと彼が正直な人で、心の扉を常に開けているからだと思う。こっちに入ってきてもいいし、入らなくてもいいよ。懐いてもいいし、懐かなくてもいいよ。どちらにせよ気にしないから。そんな風に。
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