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「雪兎」

さわさわと耳に届いた声が夢なのか現実なのかわからなかった。
けれど、とても好きな声だ。
囁くと低く掠れて、それがとても色っぽい。
彼の声で名前を呼ばれるのがとても好きだった。
ふわふわと空を飛んでいるような感覚で耳を澄ませた。子守唄代わりにして、もう一度深い眠りにつきたい。
けれど今度は軽く胸あたりをぽんぽんと叩かれた。
翔が様子を見に来てくれたのかもしれない。
恐る恐る瞼を上げる。電気の光りが目にきつい。

「雪兎」

こちらを覗き込む顔は翔ではなく、浅倉先生だった。
驚いて眠気など一気に冷めた。
なんの心構えもないまま対面している事態に頭がぐるぐると酔う。
そもそも、どうしてここにいるのだろう。
以前のマンションならばともかく、寮ではいくら先生でも気軽に個人生徒の部屋を訪ねていいわけがない。

「身体、大丈夫か?」

とりあえずなにも考えずに頷く。
小さく、優しい声色は穏やかで、とても怒っているようには見えない。
でも先生は大人だから自分の感情をコントロールして、怒りも抑え込んでいるだけかもしれない。

「そうか。なにも食べてないだろ。色々買ってきたから」

浅倉先生は布製のエコバックを軽く上げて見せて、ベッド横に置いた。
手を差し出され、身体が委縮する。
その様子に一瞬伸ばされた手が止まったが、すぐに動いて汗で額に張り付いた前髪を払ってくれた。

「…どうして、ここに」

声を絞り出すようにして言った。
浅倉先生は困ったように笑い、ぽんぽんと胸の上を叩く。

「いいから。まだ眠れるなら寝ろ。電気は消して帰るからな」

「でも…」

聞きたいことは山ほどあった。
言いたいことも沢山あった。
なのに浅倉先生は眠れと微かに笑うばかりだ。
微かに開けていた口をきゅっと結んだ。今は先生に従おう。
瞼を閉じる。すると電気がぱちんと消され、完全な闇になったのがわかった。
電気を消した後も先生の気配があり、胸に置かれた手が布団越しでも温かかった。
身体が辛いときにはいつも駆け付けてくれる。
先生はヒーローみたいだ。
だらしがなくて、性格に難ありのヒーローなんていないけど、それでも自分にとってはスクリーンの中の完璧なヒーローよりも心強く感じる。
規則的に呼吸をすると、ゆっくりと気配が離れていく。
音を立てないようにと慎重に出て行き、ぱたりと扉が閉まった。
その途端瞳を開けた。
携帯を手繰り寄せる。時刻は夜中の三時だった。
さっき読めなかった先生からのメールを開いた。

『具合はどうだ。もし辛いならすぐに電話するように。俺が嫌なら神谷でもいい。とにかく一人で我慢しないように』

短い文章を何度も何度も目で追って、何故か泣きたくなった。
熱にうなされているせいかもしれない。
わからない。何が悲しいのか。
身体の中を正体不明の激情が走り回っている気分だ。
こんなに自分のことを考えてくれている。
明日も仕事があるだろうに、人目のつかない時間を選んでわざわざ来てくれた。
何度も電話をくれた。
それなのに何故僕は憎しみに似た感情を先生に向けてしまったのだろう。
想ってもらえるだけで幸福だと信じていた。
もし、自分の他に恋人がいたとしても、僅かでも傍に置いてくれるなら十分だと。
そのときの気持ちは何処へ行ってしまったのだろう。
なにもかもを自分のものにしたい、汚い欲望はいつ生まれたのだろう。
どうして先生を拒否したのだろう。
あのとき、自分はどれくらい先生を傷つけたのだろう。
答えのない疑問が頭の中に浮かぶ。
解決しないうちに、連鎖するように新しい疑問が浮かんでは消えていく。
いてもたってもいられずに電話をかけた。
数コール目で繋がった。電話に出た先生の声は力強いもので、なにか焦っているようにも感じた。

『どうした?』

「…あ、お礼、ちゃんと言ってないと思いまして」

そんなことが言いたかったわけじゃない。
なにがしたいのかわからない。
自分なのに、まったく言う通りにならない。手元を離れた感情に翻弄される。

『…なんだ。礼なんていいから。ちゃんと寝ろよ』

叱られてしまった。
けど、そんなことじゃなくて、もっと深い部分で叱ってもらわないといけない。
何故あんなことを言ったのだ。俺がなにをしたって言うんだ。
そんな風に責め立ててほしい。優しくしないでほしい。そんな資格は自分にはないと思う。

「…先生、家ですか?」

『ああ。さっきついた』

「今から行っちゃだめですか」

『なに言ってんだ。だめに決まってるだろ』

また叱られてしまった。
衝動的なところが子どもっぽくて嫌になるが、先延ばしにしただけなにも言えなくなる気がした。
今なら素直に謝れると思う。

「どうしてもだめですか」

『…どうした。お前らしくないな』

「言いたいことが…」

弱々しい語調になる。言ったその先を考えるのはやめておく。

『電話じゃだめなのか』

「できればちゃんと話したいです」

『じゃあ身体がよくなったらにしよう』

「でも…」

今がいい。今じゃないとだめだ。
けれど、これ以上自分の勝手な我儘で先生を困らせたくはない。それに、どんなに頼んでも先生はいいと言ってくれない気がした。

「…じゃあ、電話でもいいです。本当は顔を見て話したかったんですけど」

すっと息を吸い、言葉を発そうと思ったが一足早く先生がまったをかけた。

『待った。ちょっと待て。先に聞いておくけど、もしかして別れ話か?』

「…別れ、話…?」

『いや、違うならいいんだ』

なぜ先生がそんな風に思ったのかはわからないが、別れ話を切り出されるとすれば自分の方だ。
子どもっぽくて、自分の感情すらままならない高校生の相手など疲れたと、いつ言われてもおかしくないのだから。
なにか言おうと思った。謝ろうと思った。
けど、咄嗟に電話をかけたので文章が頭の中で出来上がっていない。
沈黙が流れる。
電話の向こうでかちゃかちゃと食器がぶつかる音と、次はライターを操作する音が聞こえた。
息を吐き出す音。きっと煙草を吸っている。
先生の部屋と、どんな仕草で煙草を吸うのか。すべて容易く想像できる。

『…どうした。昼間のことか』

言葉が出てこない自分の代わりに先生から話しを振ってくれた。
そんなことまでさせてしまうのが情けない。

「…はい。どうかしてました。ごめんなさい」

『いや。いい。俺もどうかしてた。学校ではお前は生徒なのにな。悪かった』

「そんなこと…」

謝らなければいけないのは自分だけで、先生はなにも悪くない。
自分の首を絞めるだけならまだしも、先生の首まで絞めていた。
余計な心配をさせ、余計な謝罪をさせ、自分はなにをしているのだろう。

「ごめんなさい。ごめんなさい…」

世界一出来の悪い子どものような気がする。家族に見放されるのも当然のような。

『そんなに謝ることない。あれはお前の判断の方が正しい。いくら光しかいなくても、個人的に接するのは間違ってた』

先生は勘違いをしている。
お互いの関係のために拒絶したわけではない。
先生の中では自分は今も出来のいい、物わかりのいい、大人しい子どもなのだろう。

「…はい」

『じゃあ、まだ朝まで時間あるからちゃんと寝ろよ。明日も辛かったら無理しないで休むように』

「はい」

『おやすみ』

「おやすみなさい…」

終話ボタンを押してもしばらく履歴画面に並んでいる先生の名前を眺めていた。

結局本音は一つも言えなかった。
自分でも処理しきれていない気持ちをぶつけても先生が困るだけだし、これでよかったのかもしれない。
綺麗に勘違いをしてくれたなら、その方が都合がいい。
謝罪はしたし、先生は気にしなくていいと言ってくれた。
優しさをくれるし、どうやら怒ったり、嫌いになったりはしていないようだ。
ならこのままでいいじゃないか。
わざわざ問題を掘り起こさなくても、地中深くに埋めてしまえばいい。
二度とこんな感情を思い出さないように。

でもそれでいいのだろうか。
問題を解決しないまま、放っておいてもこの関係は壊れないのだろうか。
わからない。
自分にはまだ恋愛は早かったのかもしれない。
圧倒的に場数が足りない。
今までの知識や感情では追いつかない。
知らない想いばかりでなにをどう考えればいいのか、こういう場合はどう対処すればいいのか、なにもわからない。

謝ったはずなのに胸が痛い。苦しい。
全然すっきりしない。
自分はどうしてしまったのだろう。

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