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肩口を優しく揺すられる感覚にぼんやりと目を開けた。
見慣れた保健室の天井が移り、ゆっくりとどういう状況に自分がいるか思い出した。

「雪兎君。具合はどうかな」

白衣姿の天野先生をぼんやりと見て、大丈夫だと告げた。

「神谷君に荷物持ってくるようにお願いしたから」

「はい。ありがとうございます」

のろのろと上半身を起こし、壁に背中をつける。
頭の痛みは幾分かよくなった。薬が効いているのかもしれない。
清潔感のある真っ白いカーテンをぼんやりと眺める。
寝起きと頭痛で頭が働かない。

「…雪兎君、その、陸となにかあった?」

「え?」

「いや、いいんだ。個人的なことだもんね。ごめん」

天野先生は苦笑して謝罪し、翔が来るまでもう暫く休むようにと言い残してカーテンを閉めた。
ゆっくりと巻き戻すように記憶を探る。
浅倉先生に酷い態度をとってしまった。嫌われてしまうかもしれない。
とても焦がれている人に、どうして自分で自分の首を絞める行為をしてしまったのだろう。
わからない。
好きだという気持ちは何一つ変わっていない。今もそこにあるのに、素直に真っ直ぐ先生を見れる自信がない。

その内部屋をノックする音がし、暫くすると翔がゆっくりとカーテンを引いた。

「雪兎、大丈夫?」

透き通る碧眼が揺れていた。

「…大丈夫だよ」

僅かに口の端を持ち上げる。
事実、まだ頭は痛むが先ほどに比べればだいぶすっきりとしている。
薬も飲んだし、横になっていたから多少回復したのだと思う。

「具合が悪いときは言うようにって、いつも言ってるのに」

呆れた様子の翔に謝罪した。

「鞄持って来た。寮まで頑張れる?なんならおぶってもいいよ」

冗談のような言葉に笑ったが、翔は至って真剣だった。

「大丈夫だよ。部屋までちゃんと歩けるから。身体もだいぶ良くなったし」

無理にでも平気を装わなければ、この従兄弟は本気で背負って帰ると言いかねない。
ベッドの端に置かれていたブレザーに袖を通した。ネクタイは丸めてポケットに突っ込む。

「鞄は僕が持つから」

「ありがとう」

翔が支えるように二の腕をがっちりと掴む。
ベッドから降りると、一度ぐらりと頭が回ったが足を踏ん張った。
カーテンを開けると、椅子に座って仕事をしていた天野がこちらを振り返る。
辛いなら病院に行へ連れて行くと言われ、壊れた玩具のように大丈夫だと繰り返した。
天野先生に礼を言い、翔に支えられながら寮まで歩く。
陽が沈んでいるので外は薄暗く、追い打ちをかけるように風は冷たかった。
もっと厚着をしろ。春でも薄手のブルゾンを羽織った方がい。優しく、お節介な従兄弟は困ったように説教をする。
心配性だなあ、と軽口を叩くが、自分の病気を考えてくれているからこそだ。
家族にはあまり心配されなかったので、こんな風に思ってくれる人がありがたい。
翔や、高杉君。友人に恵まれたと思う。
それと同時に人に頼るという行為に慣れていないので、どうしていいかわからなくなる。
意地になって踏ん張って、ぎりぎりになっても助けを求められずに転落していく。
それでは遅いのだと何度言われても、この性格は直らない。
部屋につき、パジャマに着替えてベッドに入った。

「なにか欲しいものは?買ってくるよ」

「大丈夫だよ。薬はここにあるし、水もスポーツドリンクも冷蔵庫に入ってるから」

「じゃあここに持ってくるから」

冷蔵庫に入っていた飲料水の数本をベッドサイドに置かれる。

「なにも食べれない?」

「うん。今はいいや。もう少しよくなったら食べる」

「わかった。今は泊まるから」

「ここに?」

目を丸くして翔を見ると、なに当たり前のことを言っているんだ、と言いたげに肩を竦められた。

「大丈夫だよ。本当に寝てればすぐ治るから」

「そんなわけないだろ」

翔は目線を同じ高さにするようにしゃがんだ。
聞き分けの悪い子どもに接するような、優しいけれど、有無を言わせぬ圧力を感じた。

「翔の部屋近いんだし、なにかあったら電話するから。だから翔はちゃんと自分の部屋に帰りな。ただの風邪だし、平気だよ」

翔は困ったように笑い、小さく吐息をついた。
なにか言いたげだが、暫くの沈黙のあと了承してくれた。
ただし、なにかあったらすぐに電話をかけること、と釘を刺される。

「欲しいものがあったら電話して。すぐ買いに行って来る」

翔は自分の鞄を拾いながら、こちらを振り返った。

「うん。ありがとう。翔こそ僕のことはあまり気にしないで寝てよ」

「はいはい。わかってます。じゃあね」

布団から掌を出し小さく手を振る。
翔が去った瞬間、張っていた気を緩めるように息を吐き出した。
一人になると、途端に具合が悪くなったように感じられる。部屋もがらんと寒々しい。
心細さが全身を渦巻く。何度経験しても、このときばかりは人が恋しくなる。
けれど今まで一人で耐えていた。これからも同じでいられると思っていた。
それなのに怖い、辛い。たかが風邪なのに。
周りに甘えすぎたのだと気付いた。
浅倉先生がいて、天野先生がいて、寮は人の気配で満ちている。
自分がほしいと小さく願ったもの、すべてを与えられた幸福にどっぷりと浸かり過ぎた。
薄暗い部屋の中ベッドで身体を丸めると、まるで以前の住居にいるような感覚になる。
賑やかで、温かな空気からぽいと自分だけ弾きだされたような孤独と恐怖。
自分一人しかいない世界は酷く味気なく、こんなに酷かったかな、とざわつく胸に手をあてた。
つい、翔に電話をかけたくなる。
やはり泊まってくれないだろうか。言えば彼はすぐに飛んで来るだろう。
けどだめだ。周りにうつしたくないし、甘えてばかりいては自分がだめになる。
踏ん張っている地面がゆらゆらと揺れてしまう。亀裂が入って割れたらもう戻れない。
なにかを誤魔化すようにぎゅっと瞳を瞑った。
眠ろう。具合が悪いから弱気になっているだけだ。とにかく身体を治すことだけ考えなければいけない。


枕元に置いていた携帯の振動で目が覚めた。
部屋の中は煌々と明かりがついているが、時計を見ると夜の十時だった。
薬が切れたのか、また熱からの倦怠感で動くのがとても億劫だ。
のろのろと右手で携帯を操作する。数件のメールと、それから数件の着信。
いつも滅多に鳴らない携帯なのに珍しい。
一つずつ確認すると、メールは翔から、高杉君から、そして浅倉先生から。
着信はすべて浅倉先生だった。
翔と高杉君からのメールは見た。
どちらも体調を気遣うものだ。翔に至っては怒ったような口調で、笑いが零れる。
浅倉先生からのメールは怖くて見なかった。
昼間の態度を言及されたらどうしよう。嫌いになった、幻滅したと言われたら。
後悔するくらいなら言わなければよかったのに。
自分はなにも知らない子どもで、馬鹿だ。
恋愛以外の人間関係すらまともに構築できない。
完璧に作り上げたとしても、些細な衝動でそれを一気に床へ叩きつけて壊してしまいそうだ。
じわり、じわりと自分でも気づかないうちに変わり始めている。
それがとても怖い。

結局、浅倉先生からのメールは未読のまま。着信にも応えなかった。
問題を先延ばしにしてもなにも解決しないのに。
時間が流れたところで自分の立場が一層悪くなるだけだ。
わかっていても、問題から目を背け、逃げてしまう。
自分はこんなに臆病で、幼稚園児のように我儘だっただろうか。
ベッドサイドから薬をとりだし飲み込んだ。
暫くすれば眠れるだろう。
明日までゆっくりと眠りたい。なにも考えず、こんこんと。

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