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寝起きがあまりよくない先生を起こし、朝食を食べた後は観光に車を走らせた。
風車群が並ぶ丘陵、激しい波に削られた断崖絶壁、有名なアニメのモデルになった島を遠くから眺めたり、小さな滝を呆けて見たり。
昼食は昨日と同じ、漁師飯と言われるものを食べ、美味しいと何度も笑い合った。
夕暮れ、民宿に戻り空が茜色に染まるのをじっと眺めた。
燃えるような夕焼けは美しく、悲しくないのに泣きたくなった。
夕飯と風呂を済ませ温かい緑茶を啜る。
時計に視線をやり、あと数時間で今日という日が終わってしまうのがとても悲しくなった。
明日には逃避行が終わり現実に戻る。
先生ともこれで終わり。
最後、最後と何度も口にしたが、二人でいるとこの時間が永遠に続くのではないかと錯覚した。
そんなことあるわけないのに。
自分は大学受験を控えた高校生で、彼は学校の先生。
枠から抜け出せるのはこんな時だけで、休みが終わったらまた枠の中に納まるしかない。
上手くいかない現実に歯軋りしたくなるが、上手くいくことの方が少ないのが人生ということもわかっている。

「あつー」

首からタオルを下げた先生が風呂から戻り、はっと顔を上げた。

「ビール飲んでいい?」

「どうぞ」

「あ、雪兎はだめだぞ。お酒は二十歳になってからな」

「外国だと十五から飲めるところもあるんですよ?」

「残念ながら日本では二十歳なんですよ」

プルトップを開けると炭酸が抜ける音がし、上下する先生の喉に見惚れた。
彼は腰高窓の枠に座り、煙草に火を点けた。
窓の外に放り出された手から紫煙がゆったり流れていく。

「美味しいですか?」

「どっち?酒?煙草?」

「どっちも」

「うまいよ。両方ともなかったらストレスで死んでたかも。教師も色々大変なのよ」

はあ、と溜め息を吐く姿に口に手を当て笑った。

「先生はとてもいい先生です。きっと僕みたいに感謝してる生徒が沢山います」

「そうだったら少しは報われるけど、高校時代の先生なんていの一番に忘れるものだ」

「そうでしょうか…僕は忘れませんよ。浅倉先生と、天野先生のこと」

「そうか?」

「はい」

沈黙が流れ、立ち上がって電気を消した。

「もう寝るのか?」

「いえ。折角なので人工的な光りじゃなくて自然の光りの方がいいなと思って」

開けた障子の向こうには大きな月がぽっかり浮かんでいる。

「…先生、あの時のこと何も言わないんですね」

「…なんのことだか」

「謝らせてもくれないんですか」

「謝られるようなことされてねえしなあ」

「あの時言ったことは全部嘘です」

はぐらかす気配を遮るように言った。
先生が息を呑んだのが伝わり、だけどここで言わなければ一生後悔すると思った。

「普通でいたいとか、女の子と恋愛したかったとか、秘密の関係に疲れたとか、少しも思ってません。僕は先生と恋愛がしたかった。僕だけの先生でいてほしいと思った。でも、随分と重荷を背負わせてることに気付きました」

両手で湯呑を包んでいた指に力を込めた。
先生は煙草を灰皿に押し付け、何度が顎をさするようにし小さく笑った。

「…俺はお前と付き合うって決めた時仕事を辞めようと思った」

「だ、だめですよ」

「うん。責任感じるだろうなと思って言わなかったけど、職業は生きてく上での手段でしかないんだ。世の中色んな仕事があって、いくらでも選択できる。でもお前は一人しかいねえんだよ」

腹の底から大きな感情が頭の天辺までせり上がり、思わず俯き下唇を噛み締めた。
自分にそんな価値はない。望んだ職業を捨ててまで選んでも、後できっと後悔する。
いつ命が果てるかわからないし、彼が望む恋人でいられる自信もない。
結婚もできない、子供も産めない、男の僕をいつか嫌になる日が来るだろう。

「…まだ若いお前に言ってもいまいちピンとこないと思うけど、この歳になると純粋に恋とかできねえんだよな。どっか打算的で。悲しみや辛さと上手くつきあえるようになった分、嬉しいとか幸せとかも目減りした。特別感情が揺さぶられない代わりに手放しても大して痛みはなくて。歳とってそんなもんだと思ってたけど……お前には振り回されて、情けなく悩んで、お前の人生めちゃくちゃにしても一緒にいたいと思った。大人としても教師としても最低、最悪」

「そ、そんなことは…」

「そんなことあるんだよ。悪い大人に引っかかって可哀想にな」

「違います。僕を可哀想な子供にしなかったのは浅倉先生だけじゃないですか。だからそんなこと言わないでください…そんな、後悔しているような…」

思わず責めるような言葉が口をつき、すぐにすいませんと謝った。
先生は立ち上がり、隣に座ると肩を抱き寄せ蟀谷あたりに触れるだけの優しいキスをした。
訳もなく泣きそうになって膝の上に置いた拳に力を込める。

「……すいません、こんなこと、言うつもりじゃ…」

「いいよ。謝らなくていい」

抱かれた肩から二の腕をさするように撫でられ顔を上げると、先生は自失するように窓の外に視線をやっていた。

「お前に別れ話しされてから、初めて雪兎を見た日から今までのこと色々思い出したよ。何が足りなかったんだろう、どうすればよかったんだろうって膝を抱えたくなった」

「僕もです」

「…お前は俺よりずっと強いし賢い。正しい答えはわかっているのに手放せなかった俺なんかよりずっと」

思い出を捲るように、ぱらりぱらりと言葉が落ちてくる。
先生の肩に頭を寄せ、為す術ない未来をそれぞれの手に抱えながら途方に暮れたように時間を過ごした。
静かな暗闇の中迷子の子供のように二人ぼっち。
自分たちには先がない。
起きたらおはようと笑い、眠る前におやすみと囁く。
そんな些細な日常がほしいだけだった。
ただ心から愛おしいと想った人と丁寧に日々を過ごしたい。そんなことすらままならないなんて。

「……先生?」

「なんだ」

「僕を、抱いてくれませんか」

唐突な言葉にも驚く気配はなかった。
二人の時間も、一人の時間も僕にはあとどれくらい残っているのかわからない。
馬鹿なことをと言われるだろう。実際自分でも馬鹿だと思う。
なのに先生への気持ちは自分をどんどん馬鹿にさせる。

「…お願いします。全部僕のせいです。だから最後に」

「頼まれたから抱くなんて死んでもごめんだ」

そうですか、と顔を俯かせると顎を掴まれ至近距離で視線がからまった。
いつもは眠そうな真っ黒い双眸が強い光りを孕んでいる。

「だから、これは俺の意志。お前のせいなんかじゃない」

腰を引かれると同時に唇を塞がれ、驚くほど熱い舌で口内を好き勝手された。
息が苦しく、とてもついていけずに眉根を寄せながらそっと胸を押し返した。

「……苦い」

「お前の舌は甘いよ」

浴衣の合わせ目からするりと手が入り、慌ててお布団にいきましょうと止めた。

「どこでもいいだろ」

「僕初めてなんですよ。するのも、されるのも」

「…そうか、すまん」

先生は一旦冷静になったようで、隣の部屋まで僕の腕を引っ張った。
下から見上げる形になり、頭の中は恐慌状態なのにやけに冷静な部分で頑張ろうと決める。
先生の頬に手を添えるとその手をとられ、掌に口付けられた。
貧相な身体を見られる羞恥を感じたが、激情に呑まれすぐにそれどころではなくなった。
どうしていいのかわからず、戸惑い、泣き叫びそうになる度、大丈夫と囁かれ、頭、首筋、鎖骨と優しいキスを受け止めた。
もともと平熱が低いせいだろうか、先生の体温がとても熱く感じられる。
人の形をした愛情を疑う余地なく感じられ、幸福の海にとっぷり落ちそうになる。
正直、快感はよくわからなかったが、愛おしい人が自分の身体の中にいること、有り体に言えば一つになることが嬉しくて幸せでたまらなかった。
眦から一筋涙が流れ落ち、親指で拭われた。

「…悪い、痛いよな」

「…痛いけど、そんなの平気です。ただ幸せで…」

慈しむように前髪を払われ、左手の指先をそっと持ち上げ、薬指の根本をがりっと噛まれた。

「…雪兎」

「…はい」

「雪兎」

「はい…」

何度も呼ばれ、何度も返事をし、お互いの隙間をなくすようにぴったり重なる。
どこも、かしこも重なって、不自由なのにずっとこうしていたかった。
同じ人間になれたらこんなに辛いこともないのに、どうして人は埋まらない隙間や齟齬を抱えてそれでも愛してしまうのだろう。
好きで好きでしょうがない。だけど言ったらいけないとわかっていた。
言えないから手足を絡め、離したくないと訴える。
彼が動く度、痛みや苦しみが全身を襲ったが、もっともっと痛く、酷くしてほしかった。一生忘れられないくらい。
薄らと汗を掻いた肌が吸いつくようになり、もっとずっと深く繋がれたらいいのにと思う。
激情で上下左右に身体も心も揺さぶられ、もう難しいことが考えられない。
ただ先生を好きな気持ちをこのまま心の奥底に封印したかった。


翌朝民宿を後にし、東京に着くまでの間、真っ直ぐ座れない僕を見て何度も先生が笑った。
助手席のシートを倒し、横臥するようにして運転する先生をこっそり眺めた。
悲しいとか、嫌だとか、散々言いたいことはあるけど、それらすべてに蓋をしてただじっと、訪れる時を待っている。
寮の最寄駅に車が止まり、ありがとうございますと短く礼を言い鞄を膝に乗せた。

「椎名」

苗字を呼ばれ、ああ、もう恋人の時間は終わったんだと知った。

「この先俺は傍にいないけど、お前は神谷や高杉や沢山の人に愛されてること、忘れるなよ」

「…はい」

涙が溢れそうになり、慌てて車から降りた。
助手席側の窓が下がったので、その部分に腕をつくようにし、先生を覗き込んだ。

「先生、もうテスト白紙で出したりしませんから安心してください」

「頼むぞ本当に。肝が冷える」

「はい」

くすりと笑い、それじゃあと言った。
ああ、と返事があった。
なのにお互い動き出せず、少しの間見詰め合い、先生は一度ゆっくり瞬きをし左手を上げ車を発進させた。
角を曲がり、車体が見えなくなるまで見送って自分も一歩踏み出した。
脚は淀みなく動くのに、心が捩じ切れそうになって俯いた瞳からぽつぽつと雫が零れ道路に染みを作る。
動物が唸るような声が漏れ、慌てて片手で口を覆った。
自分にはやるべきことがある。まだA判定はもらってないし、我武者羅に勉強して絶対に大学に受かってやる。
自分のために。そして、俺のせいで、なんて先生に責任を負わせないように。
目的があればいくらでも立っていられる。泣いてる暇なんてない。
なのに内側から痛みや辛さがどんどん溢れ、それに比例して涙が止まらなかった。
自分がこんなに泣き虫なんて知らなかった。
別れがこんなに辛いことも。


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