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腕時計で時刻を確認し、リュックの肩掛け部分をぎゅっと握った。
合鍵を利用し、オートロックを解除してマンションの部屋の前まで来たのはいいものの、インターフォンを押せずに十分は経過しただろうか。
昨日はむきになって行かないなんて言ったけれど、本音は一緒にいたくてたまらなかった。
翔に背中を押され、自分でもこれが最後なのだからと言い聞かせここまで来た。
学校で別れ話をしたあれを最後にするよりは、心の内はどうせばれたのだからきちんと感謝と謝罪をし、綺麗な最後にした方が絶対いいはずなのだ。
だからきっとこの選択は間違ってない。
それでもインターフォンを押せないのは、あまりにも自分にとって都合のいい話しすぎて、先生はどう思っているのか測りかねているから。
うろうろと、二、三歩左右に歩き、思い切って手を伸ばし、だけど思い留まってやっぱり帰ろうかなと踵を返した瞬間、向こう側から扉が開いた。

「いつになったら入るんだよ」

「…み、見てたんですか」

「インターフォンの画面で見てた」

「それならもう少し早く開けてくれても…」

「雪兎から開けてくれないと意味ないと思って」

意味がわからず首を傾げると、腕を引かれ中に招き入れられた。
昨日散々行かないと突っ撥ねていたくせに今更と思われないだろうか。
とても彼の顔は見れず、俯いたまま玄関で靴先に視線を落とした。

「今更やっぱり帰るとか言うなよ」

「い、言いません。勇気を出してここまで来たし…」

「勇気?」

「昨日行かないって言ったくせにのこのこ来るなんて自分でも呆れます」

「雪兎は絶対来ると思ってたよ」

「僕の意志が弱いからですか」

「いや。優しいから。憐れな三十路男のお願いを最後に聞いてやるかって思うだろ?」

「憐れなんて思いませんよ!先生のお願いならなんでも聞けるだけです」

「じゃあほら、上がって」

お邪魔しますと小さく呟き、通い慣れた部屋のソファに腰を下ろした。
離れていたのは数ヶ月なのに酷く懐かしく感じ、以前は気にならなかった煙草の匂いが濃くなっていることに気付いた。
テーブルの上には灰皿と押し潰された煙草が数本。
自分が訪ねて来なくなり、気を遣う必要がなくなったのだろう。
生活の中の小さな事柄一つとっても、彼に不自由を強いていたのだと気付かされる。

「悪い、臭いか」

「いえ。僕この匂い好きなんです」

「珍しい」

「先生からこの匂いがすると、ああ、先生だなって思います」

「…身体に悪いのはわかってるんだけどな」

先生は煙草の箱を手の中で遊ばせながら微苦笑した。

「ストレス発散の方法は人それぞれです。健康だけ考えて生きると随分退屈な人生になりますよ」

「悟ってんなあ」

「身体のことをあまり気にしなくなってからとても楽しくなったんです。好きなものを食べたり、出掛けたり、運動したり」

「それはよかった」

くしゃりと髪を撫でられ、大きな掌から伝わる体温に胸がこそばゆくなる。
あんな酷い別れ方をしたのに先生はいつもと変わらず優しく、蒸し返すようなこともしない。
本音ではないと最初から知られていたのだろうか。
子供が一生懸命隠したつもりでも大人は簡単に暴いてしまう。
悔しいなと思う。掌の上で転がされている気がして。
だけどそれは歳の差分の経験の差なので仕方がないと諦めている。
だから素直に、虚勢を張ったり強がったりせず、思ったことを口にしようと決めた。
どうせこれが最後なのだから。

「じゃあ俺仮眠とるから」

「仮眠、ですか?」

「そう。寝てる間に逃げんなよ」

「はあ…」

わけがわからず立ち上がった先生をぽかんと口を開けて見上げた。

「なにしてんだ。来い」

「は、はい」

立ち上がったはいいものの、何処に行けというのだろう。
寝室の扉を開ける背中をぼんやり眺めていると、振り返った先生に手招きされた。
慌ててそちらに駆けると、ベッドの中まで腕を引かれる。

「寝ずらかったら俺のスウェット適当に着て…」

「い、いえ。大丈夫ですけど…」

室内は冷房が効き、遮光カーテンで十分な暗さがある。
浅倉先生はベッドに横臥し、がっちりと背中に腕を回すようにして瞳を閉じた。丁度胸あたりに額が当たる体勢で、わけがわからぬまま彼の頭を抱えるようにした。

「…雪兎」

「はい」

返事をしたのにそれ以上先生が口を開くことはなかった。
寝息が聞こえるまで背中や髪を梳いてやり、飽きることなく寝顔を眺めたり、彼の身体に触れた。
最後なのだと実感する度泣きたくなって、泣く前に楽しい思い出にしなければと無理に前を向く。
だけどすぐに心がぺしゃんこになって、楽しい思い出なんて作らない方が後々楽に決まってるのにと思う。
もっと強い心がほしい。階段を一段飛ばしで駆け上がるように、今この瞬間だけ大人になりたい。
行き場のない気持ちを抱えるように、先生の頭を胸に抱えて瞳を閉じた。


時計を確認し、そろそろいいかなと先生の肩を揺すった。

「……何時?」

「夜の九時です」

「ああ、丁度いい」

上半身を起こした背中に向かってあの、と口を開いた。

「何処かに行くんですか?」

「…言っただろ。逃げようって」

「ほ、本気ですか!?」

「本気。って言いたいところだけど流石に未成年を誘拐するわけにはいかないので休みの間だけな」

先生はくあっと欠伸をしながら言い、そういうわけで行こうと手を引いた。

「何処に?」

「それは着いてからのお楽しみの方が逃避行っぽいだろ」

「そういうものですか…」

「折角だから楽しめよ」

「は、はい…」

心の内を見透かすような発言に身体を硬くした。
先生はふっと笑い、クローゼットの中から黒いキャップを取り出してかぽっと頭に被せた。

「お前の髪は目立つからこれで隠そう」

「…なんだか犯罪者になった気分です…」

「はは、それはいい。あと眼鏡」

黒縁眼鏡もかけられ、これでは本当に指名手配犯のようだと思う。

「東京を抜けるまで、暫くの間な」

「はい…」

荷物を持ち、戸締りをしっかり確認して車に乗り込んだ。

「腹減っただろ。何食いたい」

「……ハンバーガー」

「お前は欲がないねえ」

「一番好きな食べ物です。先生も買ってくれたでしょ?チーズがいっぱい入ってるやつ」

「あれはカロリーの暴力だぞ」

「いいんです。僕は太く、短く生きるって決めました」

「太く、長く生きてくれよ」

気安い仕草で肩に触れられる。
今まで当たり前に受け入れてきたスキンシップに一々嬉しくなったり、悲しくなったりする。
定まらない心は余計な感情まで引っ張ってくるので、一瞬だけ落ち込んで笑顔を作る。
ドライブスルーでハンバーガーを購入し、運転する先生の口にポテトをせっせと運ぶ作業にあたった。

「昔は美味しかったんだけど、この歳になると少しで十分になるな」

「こんなに美味しいのに勿体無い」

「気持ちは食べたいけど身体が受け付けてくれねえんだよな」

「僕もそうなるのでしょうか」

「みんな等しくそうなるのよ。今のうちに焼肉とか生クリームとか好きなだけ食っとけ」

おじさんのような発言にくすりと笑う。
自分からすれば三十を過ぎた人は等しくしっかりした大人だと思うし、だけど本人たちはまだ子供だと言うし、けれど身体は老化しているとも言う。
おかしいなあと思うが、そうやって少しずつ老いていくものかもしれない。
残りのポテトを口に放り込み、流れる景色をなんとなしに眺めた。

「眠かったら寝ろよ」

「はい」

先生といる時間を睡眠なんかに邪魔されるのは勿体無いと思うのに、満腹になった次には眠くなる。

「……東北道って書いてます」

道路標識を見ながら言うと、ばれたか、と先生が笑った。

「逃亡といえば北だろ」

「そうですか?僕は南のイメージです」

「南だとなんか陽気な感じがして切羽詰まった感が出ない」

「いくら北にいっても日本は今夏ですよ?暑くて陽気になるんじゃないですか」

「雰囲気だよ」

細かいところに拘る様は悪戯を仕掛ける子供のようだ。
小さく笑い、先生も楽しんでいるらしいことを知り少し安心する。
後部座席に置いてあるブランケットを引っ張り身体にかけた。
少しだけ、少しだけ眠ろう。


車の扉が閉じる音ではっと目を覚ました。
眠気眼で先生に視線を移すと、起こして悪いと小さく謝られる。
左右に首を振り身体を起こした。
どこかのサービスエリアらしい。広い駐車場の中には大型トラックや乗用車の中で眠っている人の姿がある。

「…ここ、何県ですか?」

「何県でしょう」

「まだ教えてくれないんですね」

先生はブラックの缶コーヒーを数口飲み、アクセルを踏んだ。

「…高速ってあまり景色が変わらないから眠くなりそうです」

「まあ。でも楽だよ。信号ないから」

「へえ。僕も早く免許ほしいな」

「えー…うーん…」

「なんですか」

「雪兎は運転しない方がいい部類の人間な気がする…一瞬で事故りそう」

「わかります」

「わかっちゃだめだろ」

「じゃあペーパードライバーになります」

「それがいい」

夜が明ける間際の、これから光りが差す気配を感じられる時間はとても美しい。
闇を吸い込んだ森の輪郭がゆっくりと太陽に染まっていく。

「…綺麗です」

「なにが」

「景色が」

「…道路と山しかねえけど」

先生らしい答えに安堵し笑った。
何事にも意味を持たせたがるのは昔からの癖だ。
明日が来るのが当たり前じゃなかったから、一瞬一瞬を新鮮な気持ちで閉じ込めようとした。
だけど普通の人にとってはこんなの些末な出来事で、目の前にある道路と山など見慣れた景色なのだろう。
そういう普通の感覚を持つ先生と一緒にいると、小さな粒まで必死に寄せ集めずともいいのではないかと思えてくる。
そういえばそんなこともあったねと思える程度の軽やかな記憶。そういうものがたくさんほしい。
そこに先生の姿がないとしても。
そうでないと重苦しい奴だと自分でも呆れて落ち込んでしまう。

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