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それから週に何度か、翔は昼食を持って部屋を訪ねて来た。
そんなことしなくても食を疎かにしないと言ったが、ついでだし、一緒に食べた方が美味しいからと言って聞かなかった。
風呂を済ませ、頭にタオルをすっぽり被りながら窓を開ける。
たまには外の空気も入れないと、と思ったが、想像以上にこもった熱に怯む。
どんよりと空気が濁った空を見上げ、夏は空があまり綺麗じゃないなと思う。
ペラペラのアルミのような月に、なんとなしに溜め息が零れる。
その時テーブルの上に放り投げていた携帯が振動した。
慌ててそれに手を伸ばし、画面に表示された従兄妹の名前を確認してから携帯を耳に寄せた。
「もしもし」
『雪兎?あのさ、明日からお盆休みだけど雪兎も一緒に僕の家行く?』
「あー、そっか、明日からか…」
『まあ、家帰っても姉さんしかいないと思うけど…』
「…ああ、会いたいなあ」
翔の姉二人も実の弟のように可愛がってくれる。
幼い頃、あなたは私の家族なのと何度も何度も言い聞かせ、優しく髪を梳いてくれた。
成長した今は、稀に買い物の荷物持ちにされることもある。
僕と一緒に買い物行くと気分がいいというのだ。
自分はできるだけの恩返しを心掛けているだけだが、気に入ったならいつでも使ってくれと申し出ている。
『えー、どうせ姉さんに会ったら着せ替え人形されるよ』
「それは翔がさせないから僕に回ってくるだけであって…」
『姉さんに毎回つきあってると身体が何体あっても足りないよ』
うんざりした口調に笑みが浮かぶ。
どうしようか、と迷い、だけど今翔に優しくされたら何かが崩れそうで怖い。
自分一人で立っていられるよう、断崖ぎりぎりの場所で爪先を放り投げている。
ぱらぱらと崩れていく足元に怯えながら、それでも踏ん張って。
甘い飴を口に放り込まれた瞬間鎖が解かれてしまいそう。
もっと弱いなにかになるのがとても怖いと思う。
「……折角だけど、お盆中は寮で勉強するよ。僕まだA判定もらえてないし…」
『…そっか』
翔は電話口で息を吐き出し、ねえ、と畏まった様子で言った。
「ん?」
『…先生と、なんかあったんだよね』
準備もなしに心臓を鷲掴みにされた感覚に息を呑んだ。
一瞬の反応の遅れを翔は見逃さない。やっぱりと呟き、怯える動物に手を差し伸べる優しさで何があったのと言った。
「……その、先生とは別れたんだ」
用意していた言葉をなぞる。もっと軽い調子で言うはずだったのに少し失敗してしまった。
『理由を聞いても?』
「…まあ、色々」
『どっちから』
「僕から」
『雪兎』
嗜めるような口調に言葉を詰まらせた。
『……お昼ご飯、買ってくれてたの先生なんだ』
「…え?」
『学校で顔を見たとき、あまりか顔色が良くなかった、もしかしたら夏バテして食欲がないのかもしれないって』
携帯を持っていた手から力が抜けそうになり、意識して握り締める。
喉に突っかかっていた骨が取れたような感覚がした。
だからいつも翔が持ってくるお昼ご飯は温かく、好物ばかりだったのだ。徒歩では無理だろうと思っていた。
『…雪兎、何で別れるなんて言ったの』
ばりばり、ばりばり、ひびが入る音が耳の奥で響く。
感情の水位が急激にせり上がり、一言でも言葉を発したら嗚咽として零れそうで下唇を噛んだ。
『雪兎』
「……ぼ、僕が悪い」
『悪いとか、いいとかじゃなくて。どうしてって聞いてるんだよ』
出来の悪い子供を諭すような言葉に謝罪しながら何度も頷いた。
「…ク、クラスメイトに見せてもらったんだ。海外で教え子と関係を持った教師が逮捕されたニュース。辛辣な言葉で教師を責めて、そのとき初めて自分がどれだけ重荷かわかった。一歩間違ったら先生は世間からこんな風に糾弾されるんだって怖くなった」
『……うん』
「先生は最初からわかってた。楽な道じゃないって何度も言われた。だけど、僕は何もわからなくて、それでもいいなんて簡単に言って……だけど結局逃げたんだ」
『うん』
「僕は未成年だし、卒業すればやり直しがきくけど、先生はそうじゃない。僕のせいで仕事を失って、家族の信頼も失って、友達に失望なんてされたら…」
『…うん』
「だから、こうするのが一番いいと思った。先生は上手にやれるけど、僕はどこでボロをだすかわからない。先生のことが好きなのに、僕が先生を処刑台に引き摺ってる感覚がしてっ……」
ひ、と喉が引きつり手を片手で覆った。
誰かの前で泣くのは卑怯だと思う。可哀想にと慰めてもらいたいわけじゃない。どうしようもない奴だと詰ってほしいのだ。
『…雪兎は先生のこと好きなんだね』
こくこくと頷いた。声にしなければ伝わらないのに。
電話の向こうで、翔が長い溜め息を吐き、ですってよ、と言った。
まるで誰かがそこにいるような口ぶりに頭が機能を停止する。
『椎名』
次に聞こえたのは懐かしいものだった。低く、けだるげで、一つまみの甘さがあるそれが大好きだった。
「…なんで」
『騙し討ちしたみたいで悪いけど、こうでもしないとお前は話さないから』
「……あ、えっと、さっきのは…」
混乱し次の言葉が見付からない。
違うんです、本音じゃないんです、簡単な言葉が出てこない。
『雪兎』
凛とした声だった。
『俺と逃げようか』
「……なに、言ってるんですか」
『俺と、逃げようか』
一瞬ぽかんとして、すぐに馬鹿なことをと口を引き結んだ。
「そんなの無理です」
『無理じゃないよ』
「だめです!そんなの先生らしくありません!」
責めたような口調で言うと、先生は笑みと溜め息を一緒に吐き出した。
『…お前は生徒扱いするなってよく言ったけど、お前も俺を教師としてばかり見るよな』
「え…?」
『雪兎、明日から俺につきあえ。それを最後にしよう』
「…最後?」
『そう。夕方になったら俺のマンションに来い』
「……い、行きません」
『お前は来るよ』
「行きません!」
『そうか?』
むきになればなるほど、彼は愉しそうに笑うばかりで、悔しくて奥歯を噛み締めた。
『じゃあな』
ぶちっと切れた電話に呆然とし、頭の中で会話を整理していると扉をノックする音がした。
翔だろうと見当をつけながら開けるとすまなさそうに視線を泳がせる従兄妹が佇んでいる。
こんな翔の姿を見るのは珍しい。怒りで頭がぱんぱんだったのに、空気を抜かれたようになり、脱力しながらぽんと肩を叩いた。
「…ごめん」
「…いいよ。先生に無理矢理やらされたんだろ」
「違う。僕がお願いした」
「…なんで」
「余計なお世話だってわかってる。わかってるけど、やっと、やっと雪兎が信じられる大人を見つけたのに…」
泣きたいのはこちらの方なのに、翔は前髪をくしゃりとしながら顔を歪ませた。
「こんな、こんな幕引きがあっていいわけがない…」
今にも叫び出しそうな従兄妹をそっと抱き締め、背中を撫でた。
「いいわけないと思うけど、じゃあ他に方法があるのかって言われても思い当たらない。なんで上手くいかないんだろう。なんで邪魔なことばかり……雪兎は今で大変な思いしてきたんだ。これからは幸せだけあっていいはずなんだ」
悔しい、と捻り出すようにした声にくすりと笑った。
「僕は不幸じゃないよ」
「わかってる。可哀想なんて思ってない。だけど…」
「しょうがないよ。先生を好きになったのは僕なんだから。同年代の女の子や、まあ、男の子でもいいけど、立場なんて気にしない人を好きになれなかった。ただそれだけ」
「なんでそんなに諦めたみたいな…」
「うん。僕の悪い癖だね。でもいいんだ。いいんだよ」
従兄妹の背中を何度も往復して撫で、その日は一緒のベッドで眠った。
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