デクレッシェンド




「おはよう」

背後からぽんと肩を叩かれ、お箸を持ったまま振り返った。

「…おはよう」

朝食のトレイを持った翔は朗らかに笑った後僅かに目を見開き、すぐに何もなかったように昨日仁がさあ、なんて話しながら隣に着いた。
他愛ない会話をし、くすくす笑うと翔はどこか安心するような視線を寄越した。

「あ、そういえば翔夏休みの予定は?」

「んー、特にないかな。学校の講習に出るくらい」

「おじさんは里帰りするの?」

「すると思うけど」

「翔は?」

「僕はパス。飛行機苦手だし、秋頃おじいちゃんたち日本に来るって言ってたから」

「そうなんだ」

「雪兎は行くつもり?」

「悩んでたけど、来るならいいかなあ…」

「そもそも一人で飛行機乗れる?」

「乗れるってば!」

慌てて否定したが、翔は疑わしいと言わんばかりの視線を投げるだけだった。
ごほん、とわざとらしく咳をし、とにかく大丈夫と味噌汁を掻きこむ。
トレイを戻し、途中お茶を購入し、そのまま学校へ向かう。
教室の前で翔と別れ、鞄から筆箱や教科書を取り出すと、昨日くしゃくしゃにしたまま鞄に突っ込んだ英語のテスト用紙が一緒になって出てきて、ころりと床に転がった。
あーあ、とごちりながら取り上げ、皺を伸ばすようにし、先生が書いた点数をなんとなしに眺める。
先生はあまり字が綺麗ではないが、アルファベットと数字は美しかった。少し縦長で、すらりと淀みなく流れるように書かれるそれが好きで。
小さく息を吐き出し、すぐに感傷的になる癖を直さないと、と思う。
テストを折り畳み、鞄の内ポケットに入れると高杉君におはようと言われ、顔を上げながら微笑んだ。

「…椎名どうした」

「なにが?」

「目の周り腫れてるぞ。アレルギーでもおこしたか?」

「え?別にかゆくないけど…」

指先で瞼に触れると、確かに少し腫れぼったい気がする。碌に鏡も見ないから気付かなかった。

「じゃあ、昨日泣いたか?」

「泣いた…?」

「大泣きすると目が腫れるだろ」

「そうなの?」

問うと、高杉君はぎょっとしたようにこちらを見た。そんなことも知らないのか、と言わんばかりだが、涙なんて滅多に流さないから知らなかった。悲しいことも、辛いことも色々あった気がするけれど、諦観して世の中そんなもん、と斜に構えた姿勢で流したせいだ。

「……なにかあったか?」

「え、あ、いや、ちょっと泣ける映画見たからそのせいかな…」

へらりと笑うと、高杉君はそれならいいけど、と言いながら立ち上がり、濡らしたハンカチを差し出した。

「少しでも冷やした方がいいと思う」

「ありがとう。高杉君はなんでも知ってるなあ」

「いや、これくらい…」

なるほど、自分が無知すぎるだけか。また一つ生活の知恵を得てしまったと満足感に浸りながら瞼にハンカチをあてると、高杉が椎名を泣かせたー、とクラスメイトに揶揄され、その度に高杉君は違うと本気で否定した。
小さく笑い、笑えていることに安堵した。
先生がいても、いなくても、目が腫れても、腫れなくとも地球は回るし、太陽は昇るし、クラスメイトは騒がしいし、何処かで誰かが泣いて、あっちの角では誰かが笑って、出逢ったり、別れたり、些末な出来事に干渉を受けず日々は流れていく。
その流れの中に身を任せれば楽だということも知っている。
立ち止まらず、無心で、ベルトコンベアの上で出荷を待つ。
そうして心を平坦にしながら生きてきた。
なのに先生の言葉、視線、小さな動作一つで心がかたん、と音を立てて崩れそうになる。
嫌だなあ。
誰かに心を明け渡すと、こういう苦しいことの連続で、だけど取り返し方がわからなくて。
もう別れたのだから返してほしいと思うのに、先生に持ち去られたまま手元に戻らない。
ぽっかり空いた穴にびゅうびゅう風が吹き抜けそのたび痛むが、時間薬で修復されるのをじっと待つしかないのだろう。
それも楽しかった、青臭かったと笑えるのはいつだろう。


夏休みに入り、ソファの上に寝そべりながら読んでいた本を放り投げた。
午前中は補講を受け、午後は各々好きに過ごす。
翔と高杉君と一緒に昼ご飯を食べに出かけることもあったが、あの二人が受ける大学は自分と比べられないほど難関なので、あまり邪魔しないようにしている。
一人でいると嫌なこと、悪い方向にばかり思考が流れるから本当は誰かと過ごしたかった。
自分にも帰れる家というものがあれば少しは気が紛れたのかもしれないが、居場所がここしかない。
無意味に人混みの中に身を寄せるのもいいかもしれない。だけど外は信じられないくらい暑い。不用意な外出は控えましょうとアナウンサーも言っていた。
特に自分のような人間は倒れたら惨事になり、必ず誰かに迷惑をかける。なら、狭い箱の中、クーラーを効かせながら過ごそうと思ったのだけど。

「…先生、なにしてるかな…」

ぽつりと呟き、はっとして瞳を瞑った。
考えないよう努力し、だけどそうするとますます考えてしまう悪循環に何度苛まれただろう。
心はこんなに厄介なものだったか。
ずっと使わないようにしてきたので、反動で大きく飛び跳ねたまま通常の位置まで戻っていない気がする。
あまりにも不器用で無様で子供すぎて嫌になる。
目の上に腕を乗せ、光りを遮断するようにした。
窓の外では蝉が元気に鳴いている。太陽も燦々と降り注いでいる。こんなとき、どんな風に過ごしたらいいのかわからない。
じっとしていると段々と眠気が忍び寄ってきた。
最近寝つきがよくない。浅い眠りを繰り返しぼんやり起きてまだ夜の底と知りもう一度眠りに落ちる。
昼寝するせいだな、と結論付けているが、本当は理由が別にあることをわかっている。ただ、見たくなくて目を逸らしている。
現実からは逃げない。でも自分の心からは逃げたかった。
ノックの音がし、落ちそうだった意識を引き戻した。

「は、はーい」

のろのろ起き上がり扉を開けると、翔が紙袋を目の高さまで持ち上げた。

「昼飯ー」

「…わざわざ買ってきてくれたの?」

「まあ…」

「ありがとう」

中に招き入れ、翔が紙袋から取り出すバーガーや飲み物をぼんやり眺めた。
いつか、浅倉先生にこれが食べたいと強請ったことがあった。数種類ある中でもチーズがたっぷり入ったものを気に入って、何度も強請ったっけ。
初めて食べたと言うと心底驚いた顔をして。あの顔は面白かったなあ。
思い出し笑いをしそうになり、強引に口角を下げた。

「あ、チーズいっぱい入ってるやつ!僕これ好きなんだ!」

バーガーの包みを確認しながら言うと、翔はどこか苦い顔をした。

「食べようか」

「いただきます」

持ち帰ってきた割にバーガーやポテトは温かかったし、ペーパーカップの中の氷もあまり溶けていなかった。
首を捻ったが、立膝でがぶりとかじりつく翔には何も聞かず、自分も小さく口を開けた。
もさもさとした食感のバンズも、酸味の効いたピクルスも、安っぽいのに美味しくて、ジャンクフードは癖になるなと思う。
塩気の足りないポテトを食べながらぼんやり窓の外に視線をやった。

「雪兎午後はずっと部屋にいるの?」

「……まあ。暑いし」

「不健康だなー」

「まったくだ。プールとか行って身体鍛えようかなって思ったんだけど、ちびっこが沢山いるだろうし」

「…先生とどこか行かないの?」

窺うような視線を寄越され無言で小さく笑った。

「…翔は甲斐田君とどこか行かないの?」

「秀吉君神戸だよ」

「おー、珍しく帰省したのかー」

「そう。近くにいると気が散るって言ったら拗ねて帰ったよ」

「またそんな言い方して……甲斐田君が気の毒だ」

「ね、なんで僕なんかに惚れたんだか」

あれは悪い女に引っかかるタイプだな、と続けながら、だけど彼はどこか嬉しそうだった。
人のことをとやかく言えた義理ではないが、翔は臆病だ。
大事なくせにそれを隠して、相手の気持ちを試し、とっておきのカードは最後まで手元に残してポーカーを続ける。
甲斐田君がどれほど翔という人間を理解しているかわからないが、面倒な相手なのに愛想をつかさず共にいてくれることに感謝する。
翔を操るのは骨が折れるだろうなあと同情するけれど。

「ちゃんと大事にしてあげてね」

「失礼な。してますよ」

「本当かなあ…」

呆れたように言うと、フグのように頬を膨らませた。
片手で挟んで空気を抜きながら、そんな顔しても可愛くないよと言うと、雪兎には通用しない、とつまらなさそうにした。

「僕も雪兎も素直じゃないからねえ」

「…翔に比べたら素直だと思うけど」

「そうかな?」

「そうだよ。擦れてないってよく言われる」

「擦れてはないけどねえ…」

意味深な言葉にそれ以上の詮索を避けるようにゴミを纏めて立ち上がった。
背後から翔の小さな溜め息が聞こえた気がしたが気付かぬふりをする。

「じゃあ、僕帰るね」

「もう?」

「うん。部屋帰ってお風呂入りたい」

「そっか。じゃあまた」

扉まで見送り、閉めた途端に部屋が寒々しく感じた。
ソファにかけていたブランケットを引っ張り、横になってお腹に掛ける。
食って寝る生活が幸せと片桐君は言った。
自分は今まさにそれなのに、なんだかちっとも幸せじゃない。


[ 15/19 ]

[*prev] [next#]



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -