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浅倉先生とはあれ以来話していない。学校で擦れ違っても目も合わせない。
そう仕向けたのは自分だが、まだ怒っているのかなと気になってしまう。
嫌われるよう仕向けたくせに、気持ちが離れていくと感じると惜しくなるなんて最低だ。
ぎりっと奥歯を噛み締め、冷静な自分を取り戻そうと必死になった。

「テスト返すぞー」

数学の先生が教卓に着きながら言うと、教室内は阿鼻叫喚の地獄と化した。
まあ、こんなものかという点数で歓喜もないし落胆もしない。志望校を考えると合格範囲内ではあるだろう。
隣の高杉君はテスト用紙を眺めながら眉間の皺を摘んだ。

「点数よくなかった…?」

「いや、まあ、悪いわけではないが、また須藤に勝てないな、と…」

十分すごいと思うけどなあとくすりと笑う。
高杉君が勝手にライバル視しているらしい須藤君の壁は高いようだ。もっと高いのが有馬君らしいが、高杉君はあれは人間ではないから勝てなくても仕方がないと謎理論を持ち出していた。
テストが終われば夏休み。受験生に遊んでいる暇はないが、多少の解放感で羽根を外しても文句は言われないだろう。三年生は行事のなにもかもが最後だ。
とはいえ、特に予定はないし、祖父母のところにでも行こうかなと漠然と考えた。
HRが済み、鞄に荷物を詰め込むと、担任に後で職員室へ来るようにと念を押された。
小さく返事をし、鞄を掴んで職員室へ向かう。
叱られるようなことをしたっけ…?と逡巡していると、高橋先生を囲うようにしながら歩いていた生徒数人が大きな笑い声を上げた。

「マジだって、みんな言ってるよ」

「そんな噂話し真に受けないの。まったく、若い子の想像力には驚かされるわ」

「浅倉なんかより俺のがいい男だよー?」

先生の名前にどきりと胸が跳ねる。
顔を覗き込むようにしながら屈託のない笑顔を見せる生徒に高橋先生は柔らかく笑った。

「浅倉先生はいい人よ?」

「えー、やっぱマジなんじゃん」

「だから、偶然会って食事しただけ。大人には色んな付き合いがあるのよ」

ピンクベージュのルージュを引いて満足気に笑う高橋先生はとても綺麗だ。
黒くふんわりとしたショートカットにTPOを理解した薄めの化粧、少し開いた胸元が嫌味にならないストライプのシャツ。括れた腰にまろやかな尻。浅倉先生の隣に並んでもなんら遜色のない人。恋人だろうとなと世間に思われる自然さ。
こういう人が相応しいはずなのだ。
アッシュの髪にグレーの瞳、貧相な身体で同性。自分の平らな胸を見下ろし、途端に馬鹿馬鹿しくなった。
先生がどんな気持ちで自分と一時関係を持ってくれたのかわからない。
確かに好かれていたと感じたはずなのに、今ではそれが真実かもあやふやだ。
誰もお前を愛さない。両親ですらそうなのだから。
悪い呪文のような言葉が頭の隅で響く。
無条件で愛を与えられるはずの親から見放された自分は、条件付きじゃないと他人から愛されるはずがないのだ。
だけど自分が差し出せる条件はない。手元のカードは真っ白で、どれもこれも先生に好かれる要素が揃っていない。
自失しそうになり、一度唇をきゅっと噛み締め職員室の扉を開けた。
担任と対峙するようにすると、白紙で提出する破目になった英語のテストを差し出された。

「椎名、なんだこれは」

「あ…」

すっかり忘れていた。もっと大きな問題にぶつかって頭からすっぽりと抜け落ちていたが、これは怒られて当然だ。

「……すいませんでした」

「なにか理由があったのか。体調が悪かったとか」

「いえ。ぼんやりしていただけです」

「ぼんやりで済む話しじゃないだろう。白紙だぞ。本番はそんな言い訳通用しないぞ」

「はい」

本当にすみませんでしたと頭を下げると、担任は長い溜め息を吐きながら胸の前で腕を組んだ。

「椎名は優秀だし、授業態度もいいし、あまりうるさく言いたくないが、ここで気を緩めてはだめだ」

「はい」

「…まあ、お前にも色々あるのだろうとは思うが……」

担任はそこで言葉を区切ると、少し離れた場所に向かって声を張り上げた。

「浅倉先生!」

「…はい?」

「ちょっといいですか」

「はい…」

隣に浅倉先生が並んだ気配があり、慌てて俯いた。

「椎名の補習お願いしてもいいですか。見逃すと他の生徒に示しがつかないので」

「はあ、構いませんけど…」

二人分の視線が刺さり、逃げ場なしと判断し、浅倉先生に小さく頭を下げた。

「すみません。よろしくお願いします…」

失望されただろうなとますます小さくなると、ぽんと二の腕を叩かれた。

「じゃあ今からやるか」

「…はい」

「すいません浅倉先生。よろしくお願いします」

浅倉先生よりも随分と年上の担任も彼に向かって頭を下げた。

「やめてください。これくらいなんてことないですよ。椎名は優秀ですから大丈夫です」

どちらの先生に対しても申し訳ない気持ちで唇を噛み締める。
先生が絡むと冷静でいられない。
何に対しても諦めたように、上手にいかなくてもまあ、しょうがないよと思えてきたのに、先生に関わることはそれじゃあ済まなかった。
どうしても欲しくて、どうしても目を合わせてほしかった。
自分から手を放したくせに、高橋先生との些細な噂で右往左往して情けない。
もっと大人にならないと。もっと、もっと、心を平坦にして小さな痛みなど見てみぬふりができるくらい。
感情を使わなくなったら心は錆び続け、いつかは涙も笑顔もなくなってしまうのかもしれない。でも今はその方が幾ばくかましに思える。
職員室の外で待っていると、準備を済ませた先生がやって来た。

「行くか」

「……はい」

教科書で肩をとんとんと叩く後ろ姿を眺め、こんなことになるのなら適当に何か書いて提出すればよかったと後悔する。
今二人きりになるのは辛い。何を言われるかわからないし、どんな風に詰られるかもわからない。
辿り着いたのは英語準備室で、先生にひどい言葉で別れを告げた日を思い出す。
振り切るようになるべく視線を合わせず椅子に座り、差し出されたテスト用紙に向かった。
それだけに集中し、終わりが近付きふと視線を上げると、先生は本を広げながら窓の外をぼんやりと眺めていた。
開け放たれた窓からは夏本番というようなむっとした風が流れ込み、オレンジとピンク色が混ざった空の向こうでヒグラシが鳴いている。
なんだか先生が泣いているように見え、思わず声を掛けそうになり慌てて呑み込んだ。

「……終わったか」

視線に気付いた先生がこちらを振り返ったが、勿論泣いているわけもなく、もう少しですと俯いた。
最後の問題を解き、テスト用紙を先生の方へ滑らせる。
赤ペンで採点され、九十と名前の横に書かれるのをなんとなしに眺めた。

「よくできました」

返されたテスト用紙を受け取り、小さく頭を下げた。

「理由、聞いてもいいか」

「理由?」

「白紙で出した理由」

「それは……」

また何も言えなくなって、どうしよう、どうしようと頭の中が混乱する。
上手に嘘がつける性格ならよかった。頭の回転が遅いからこうなるのだ。いくら自分を叱咤しても何の解決にもならないのに、詰ることで問題から目を逸らした。

「…俺への当て付けじゃねえんだろ?」

「も、勿論です。そんなことしません…」

「…お前は今大事な時期だ。勉強に集中できない理由が俺なら申し訳ないと思ってな」

「そんなことないです…」

「俺が別れないって言ったせいか」

急に核心についた言葉に驚き、返事を忘れてしまった。

「……まあ、そうだよな。お前は別れたいって言ってんのにこんなおじさんがしつこく縋っても迷惑な話しだよな」

「そ、……」

そんなことないと言いそうになり口を閉じる。
自分が望んだ結果ではないか。

「悪かった。お前の望むようにするから」

「…そ、それって…」

「お前とはこれで終わり」

先生はぱたんと本を閉じる気安さで言った。
テスト用紙を掴んでいた手に力が入り、思わずぐしゃりと握り潰してしまった。
手元を見てから視線が合う。見透かすようにじっとりと重たいそれから慌てて逸らした。

「わ、わかりました。ありがとうございます」

「…いや」

ペンをシャツの胸ポケットに差し込み、鍵を持った様子を見て急いで立ち上がった。
乱暴に鞄に荷物を突っ込み前髪で顔を隠す。
一度深く頭を下げ、先生の顔も見ないで扉まで歩いた。

「椎名」

扉に手を掛けた瞬間呼び止められ、肩が強張った。振り返る勇気はない。

「…勉強、頑張れよ。お前ならきっと大丈夫だから」

「……はい。面倒を掛けてすみませんでした」

失礼しますと言いながらもう一度頭を下げ、廊下に出た瞬間走った。
自分のぐちゃぐちゃな思考、先生が名前を呼んでくれなくなったこと、高橋先生の言葉、色んなものから逃げたかった。
自室に入り、乱れた呼吸を整えながら扉に背を預けずるずるとしゃがみ込んだ。
自分はなんのために先生に別れを切り出したんだっけ。
ああ、そうだ、先生を守るためだ。
生徒であり、未成年に手を出した腐った教育者と詰られぬよう、社会的制裁を受けぬよう、職を失わぬよう。
細いロープの上を綱渡りするような関係は休む暇がない。
沢山の罪を背負いこんでいた先生は自分よりも余程胃を痛めていただろう。
これで解放させられたし、悲しいとか、苦しいなんて思ってはいけない。
きっと今先生は安堵で肩から力を抜いただろう。
だから笑わなければ。
好きな人の幸せを願えないような人間にはなりたくない。
望んだ結果、望んだ幸せ。
だけど、本当に先生は幸せになったのだろうか。
一瞬の疑問は自分自身を否定することになるので、無理に端に寄せた。
子供とつきあって、別れたからって不幸を嘆くような人じゃない。だって彼は大人の男だ。出逢いと別れを何度も繰り返し、その度立ち上がってきた。
段々と別れにも慣れ、朝顔を洗うくらいの感覚で日常の中に流すのだろう。
笑おうと思ったのに失敗し、口端が引きつっただけだった。
その代りに涙が溢れ、そんな自分に自己嫌悪した。

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