7



さて、と鞄を握り直して本屋へ向かった。
本当は予定になかったが、あのまま翔と一緒にいたら情けない姿を晒しそうだったので咄嗟に嘘をついた。
弱音を吐く権利はないのに無様に慰めてもらおうとしそうで怖かった。
嘘にしたくないのでふらふらと本屋を彷徨い、翔が面白かったとオススメしてくれたミステリー小説の文庫本を一冊買った。
本を読んでいる間はその世界に没頭して何も考えずに済むから現実逃避にもってこいだ。
近場のコーヒーショップに入って本を開いた。
頬杖をつきながら片手で器用にページを捲り、最後の一ページを噛み締めるように何度も読み、終わってほしくないと願いつつ本を閉じる。
今まで読んだ中で一番の当たりだ。ほくほくしながら本を鞄に押し込んで顔を上げると、外はすっかり暗かった。
腕時計で時間を確認し、二十一時を過ぎていることに驚愕した。
寮の門限を破ってしまった。寮生活をするなら品行方正にいい子でいようと思ったのだけれど。
でもそれも守る必要はなくなったのかもしれない。
先生に迷惑をかけぬよう、どうしようもない子だと思われないよういい子を演じていただけだ。
すっかり冷たくなったコーヒーを飲み干して外に出る。
駅まで歩き、帰らなきゃなと思うのに脚が地面に張り付いたように動かない。
週末でざわつく駅前に突っ立っていると邪魔なので、歩道の手摺に腰を預け、なんとなしに空を見上げた。
今日も星は見えないし、湿気混じりの空気のせいで細い髪がぺたんと萎れている。
落ち込んでいる自分を認めたくなくて無理に笑って、弾んだ声を出して、だけど少し疲れてしまった。
自業自得なので誰も悪くないし、誰も責められない。
すべてが自分に返ってきて、返ってきた痛みは倍になって胸を細い針で胸を突く。
無意識に右腕の時計を反対の手で撫でた。
この癖もやめないと。
先生にもらった時計を外せずにいるのは最後の未練なのかもしれない。
意図的に外すのも変に意識しているようだし、なんて思ったけど、単純に思い出を反芻したいだけだ。
なかったことにしようと躍起になってるくせに、パズルのピースを大事に手元に残している。
馬鹿だなあと溜め息を吐くと、目の前で人が止まった。
そちらに視線を向けるとスーツ姿の中年男性で、厳しい瞳でこちらを見下ろしていた。

「…君、高校生だよね。日本語通じる?」

「…は、い」

真意を窺うように下から見上げると、彼はきょろきょろと周りを見渡しながら声を潜めるように顔を近付けた。

「心配しないで。警察だから」

「けい、さつ…?」

警察なのにスーツなのか。刑事課とかだろうか。だけどどうして自分に声を掛けたのだろう。

「こんな時間まで何を?」

なんとなく叱られている気がして背筋を正した。

「い、今帰ろうと思ってたところで…」

「そこに腰かけてぼんやりしてたけど」

「…ちょっと考え事を…」

「最近ね、ここら辺治安があまりよくないから」

ぽんと肩を叩かれすみませんと小さく謝った。

「その制服、東城かな?」

「はい…」

「門限はないの?」

「あ…ちょっと、気付いたら時間過ぎてて…」

「そう。危ないから車で送ろう」

「い、いえ、大丈夫です。駅そこですし…」

慌てて首を振ると腕時計を指差された。

「こんな時間だし、この前もあっただろ?高校生の男の子が刺された事件」

「…はい」

「大丈夫、ちゃんと送り届けるし、学校には言わないでおくよ」

するりと肩を抱かれ、有無を言う前に歩き出したので脚をもつれるようにさせながら一歩踏み出した。

「で、でも――」

「おーい、どこ行くんだよー」

背後から声がし腕を引かれた。振り返ると大和さんがにっこり笑っている。

「遅くなったから怒った?」

「え…」

「悪い悪い、ちょっと電車一本逃してさ。で、そちらさんは?」

「け、警察の方です…」

「警察ー?なんでまた?」

大和さんは背後に自分を庇うようにしながら男性と対峙した。

「こ、こんな時間までぼんやりしているから送って行こうと思ったんだ」

「ああ、そうでしたか。すいませんこの子が迷惑かけて。で、本当に警察?」

「な、なにを言っているんだ」

「警察手帳とかある?」

「勤務時間外は携帯できない決まりだ」

「じゃあ勤務時間外なのにわざわざ送ってくれる気だったの?随分仕事熱心だね」

大和さんは言いながら男性の片腕を掴んだが、男性は振り払うようにして走って去ってしまった。
流れについていけなくてぽかんとしていると、大和さんがこちらを振り返る。

「大丈夫?」

「え?はい…」

「多分、さっきの奴警察じゃないよ」

「え…」

「普通の仕事帰りのサラリーマンじゃねえかな」

「で、でも、警察って言いましたし…」

「そりゃあ、警察って言われると警戒心が薄れるからね」

「はあ…一体なんのために…」

訳がわからなくて首を捻ると大和さんは苦笑してぽんと頭に手を乗せた。
彼のスーツのポケットの中で携帯のバイブ音が鳴り、ちょっと待っててと言ってから電話を片耳に寄せた。
ちらちらとこちらを見ながら今あったことを話し、それじゃあ十五分後にと言ってから電話を切った。

「…天野先生ですか?」

「いや、陸」

名前を聞いた瞬間肩が強張る。

「今日陸と飲む約束してたんだ。珍しくあいつから呼び出しあったから。でも予定変更。陸にちゃんと送ってもらいな」

「い、いいです。僕電車で――」

「だめだよ」

怒ったように遮られ、不安で顔を上げると大和さんはふんわりと笑い、ね?と言った。
でも、という言葉は口の中で消え、大人を困らせるものではないよなと自戒した。
大和さんは行こうかと言って歩き出し、どこに行くのかもわからないまま駅前から十分程度の片道一車線の道路沿いで止まった。
周りは住宅が多く、この時間は車の通りも少ない。
俯きがちになりながら何でこんなことになったのだろうと考える。
一人で帰れるのに。電車もまだ動いているし、女の子じゃないんだから夜道を心配する必要もない。
大和さんは心配性なのだろうか。それとも、この前の通り魔事件を気にしているのだろうか。
ぐるぐると理由を想像しているうちに一台の車が止まり、助手席の窓が開くと浅倉先生の声がした。

「よお。わざわざ悪かったな」

「いや。あそこにいてよかったよ。神様に感謝だ」

「ああ。この礼はまた今度」

「次飲むときお前の驕りな。それでチャラにしてやる」

「お前の方が稼ぎいいってのによ」

「数万でチャラになるなら安いもんじゃねえの」

「…まあな。雪兎、乗れ」

大和さんが助手席を開け、優しく背中を押して誘導される。
でも、と彼らを交互に見ると、苛立った様子の先生が早くしろと言った。
ひゅっと心臓が細くなり、すいませんと頭を下げて助手席に座る。
開いている窓から顔を出し、大和さんにありがとうございましたと言うと、あまり遅くまで出歩かないんだよと優しく咎められる。
シフトレバーを握ったのを確認し、大和さんに頭を下げるとゆっくりと車が発進した。
ハンドルを握りながら先生が煙草に火を点けた。
珍しいなと思いながらちらちらと横顔を覗き見る。先生は至近距離で煙草を吸おうとしなかったし、家の中では必ず換気扇の下かベランダに出ていた。
今も窓は開けているけど、いつもなら吸っていいですよとこちらが言ってもお前が降りてからと譲らなかった。
多分、怒っているのだと思う。門限を破ってふらふらして、迎えに来させたから。

「…あの、すいませんでした…」

遠慮がちに言うと、何が、と硬い声色が返ってきた。

「も、門限破ったせいで迎えに来させてしまって…」

言うと、車が急に止まりウインカーをあげた。
先生は深く吸った煙を窓の外に吐き出しながら前髪をかき上げた。

「なんで大和が予定を蹴って送れって言ったかわかってねえんだな」

「…こ、この前の通り魔事件のこと心配しているのかと…」

「雪兎!」

遮るように呼ばれながらネクタイを引っ張られた。
真正面から先生と見詰め合い、思った以上に怒りが篭った瞳に気後れする。

「男のお前に自覚を持てっていう方が間違ってるけどな、お前大和が声かけなかったらどうなってたと思う」

「…どう、って…」

「車に乗せられたら逃げれんの?知らない人にはついて行くなって小さい頃教わらなかった?」

「で、でも、警察っていうから…」

「警察がそんなことするかよ!せいぜい職質して終わりだろうが!」

訳がわからないままごめんなさいと謝るとネクタイから手が離れ、先生は額に手を当て溜め息を吐いた。

「まさかと思うけど、俺への当て付けじゃねえよな」

「え…?」

「こんな時間まで一人で何してた?なんで英語のテスト白紙で出した?」

「それは…」

それは。適当な言い訳は思い浮かばないし、高橋先生との噂を聞いて頭が真っ白になりましたとも言えない。
下唇を噛み締めて俯くと、先生が鼻で嗤った気配があった。

「まただんまりか」

責めの気配にますます言葉が出てこない。
すいませんとか、今度はちゃんとやりますとか、当て付けなんかじゃないんですとか、簡単な言葉が頭の中で散らばる。
ふと、視界が揺れ、背中を預けていたシートが倒れた。驚いて顔を上げると先生がネクタイに指をかけながら首筋に顔を寄せた。

「ちょ、なんですか!?」

「あのまま着いて行ってたらこういうことされてたかもしれないんだぞ」

「な、何言って…僕男ですよ」

冗談はやめてくださいと言いながら先生の胸を押し返したがびくともしない。

「ほら、ちゃんと抵抗しろよ」

「待って、冗談ですよね?こんな…」

「高校生のガキなんて簡単だよな。あっさり嘘に騙されるし、自分の力を過信してるし」

「…やめてください」

「汚え大人がいるってことも知らない」

「やめろ!」

ぐいぐいと押し返すと両手を片手で一纏めにされた。

「もう終わりかよ」

悔しくて奥歯をぎりっと噛むと先生は馬鹿にしたように嗤いながら手を放してくれた。
起き上がりながらなんでこんなこと、と呟くと先生はハンドルを拳で叩いた。

「怒りで頭がおかしくなりそうだ…お願いだからこんな心配させないでくれ」

ハンドルに凭れかかるようにした先生の背中は強張っていた。
考える前に手を伸ばし、そっと背中を擦った。暫くそうしていると先生はちらりとこちらを見て、視線を逸らしながら小さく悪いと呟いた。
いつも飄々として余裕があって、なのに今の先生は幼い子供のように頼りなかった。

「…門限は守ります。知らない大人にもついて行きません」

何を言っているのだろう。そんな当たり前のこと改めて言われたって先生も困る。
なのに言葉は止まらなかった。どうにかして彼が苦しいと叫ぶのを宥めたかった。

「真面目に勉強します。次はテストもいい点とって…」

途中で自分でもわからぬまま感情が喉元までせり上がり慌てて息を呑んだ。
沈黙が不自然になって空気が張り詰めだした頃先生が口を開いた。

「…悪い。お前の方が混乱してるのに」

「…いえ。僕が、悪いので」

お互いもう何に対して謝っているのかもわからない。
核心に触れぬよう、不自然に言葉や態度をはぐらかしながら表面の硬い場所だけを撫でている。
何故こんな時間までふらふらしていたのか、テストを白紙で出したのか。
何故先生はこんなに怒っているのか、高橋先生との噂は本当なのか。
お互いの疑問を置き去りに見ないふりをして、そしてまた気付くと右手の時計を撫でていた。

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