6



先生と別れたら息が止まると思っていた。
だけど身体は通常通り規則正しく働いて死ぬ気配もない。それに少しだけがっかりしながら毎日を過ごした。
先生からの連絡は遮断しだけど彼は感情に任せて学園の中で不用意に近付こうとしない。
さすが、大人だなあと思う。
自分が逆の立場なら。先生から一方的に別れを切り出されたら泣いて縋って一人にしないでと喚き散らす。酷く滑稽で情けないだろうがなりふり構っていられる余裕はないと思う。
先生の世界には大事なものが溢れている。その中の一つがなくなったくらい、なんてことはない日常に溶ける出来事なのだ。
テスト用紙から視線を逸らし頬杖をついて窓の外を眺めた。
何かを振り切るように勉強し続けたし、自分は落ち込んでませんというパフォーマンスのためにも成績を落とすわけにはいかなかったのだ。
そのおかげで恐らくテストの出来は上々で、時間が余ってしまった。見直しもしたし、退屈だなあと小雨をなんとなしに眺めた。
同じ学園の中、今彼は何をしているのだろう。
どこかの教室でテストの採点をしたり、監視したり、退屈で死にそう、なんて思ってたり。想像すると笑みが浮かび、慌てて口元を手で隠した。
卒業するまでこんな調子で視界の端に先生を映しながら生活するのだろう。
気持ちがあちらこちらに飛び跳ねて、苦しくなったり悲しくなったり、一々振り回される。
しんどいと感じるのが正直なところだが、この結果には満足していた。
これで先生は誰にも責められることはなくなった。万が一バレたら、なんて心配することもない。
僕という重い荷物を地に下ろし、軽くなった脚でどこまでも歩けるだろう。
意外と真面目な性格だから、生徒に手を出してしまった呵責で己を傷つけ続ける必要もない。
教育者失格だなと苦笑させることもない。
先生を守ったのだと信じて疑わなかった。自己犠牲の精神に酔って、まるで地球を丸ごと救うヒーローのように思って。
馬鹿みたいだ。子供が一生懸命成し遂げたと思った数手先を大人は見越しているのに。
救いようがないというのは自分のような人間を指すのだとこのときはわかっていなかった。


テスト最終日、一限目の科目が終了し、クラスメイトはそれぞれ喚きながら頭を抱えた。
自分もあまり出来がよくなかったなあと小さく反省し、最後の科目である英語の教科書を取り出す。
今更足掻いても無意味とわかっているが、何かしていないと不安なのだ。
テスト期間中は席が出席番号順に変わるので高杉君も片桐君も遠い。あまり話したことがないクラスメイトに囲まれ、身体を小さくした。
背後の席の生徒は大きな声で笑いながら友人と楽しく談笑中だった。

「マジマジ、昨日見たんだって。浅倉と高橋先生が一緒に飯食ってた」

会話が耳に届いた瞬間、血液が逆流するような感覚がした。

「マジかー…俺らのオアシス高橋先生が…」

「まあ、二人ともいい歳だしな」

「いやいや、飯食ってたくらいでどうこうっていうのも。ラブホに入る場面を目撃したとかじゃないんだしさ」

「でも教師って職場で出逢って結婚ってパターンよくあるらしいじゃん」

「えー、やだー。高橋先生が結婚ってだけでショックなのに相手が浅倉だったら許せん」

「お前は高橋先生のなんなんだよ」

彼らがあはは、と笑う声が遠くで響いた。
耳元に心臓があるかのように脈打つ音がやけに大きい。
気付いたときにはテスト用紙が目の前にあって、左手にペンを握っていた。
浅倉先生と高橋先生が。
まだそうと決まったわけじゃない。
ていうか、別れた相手が誰と付き合おうが関係ないでしょ。
でも浅倉先生は別れないって言った。
そんなのその場凌ぎ。例えあのとき本気でそう思ったとしてもその後心変わりしても責める権利なし。
いくら子供でもそれくらいわかれよ。空気読め。
頭の中で自分自身で会話した。
現実についていけないくせに妙に冷静で、そうすることで崩れそうになる地面で踏ん張っているようだった。
とりあえず今はテストに集中しないと。
英文を読み、意味も十分に理解できているのに、文字を書く前に導いた答えが消えていき、もう一度考え直して、左手に伝達する前にまた消えていく。
だめだ、いけない、しっかりしろ。
壊れそうなほどペンを握り、だけど頭の中が真っ白になる。
ああ、アルコールの匂いを嗅ぎたい。自分を安心させてくれる病院の匂い。
幼い頃家で苦しくなっても病院に運ばれてあの匂いを嗅ぐと助かったと思えた。
また生き延びることができたんだなあと、泣きそうになる母親の顔をぼんやりと眺めていた。
もしかしたら幾つかあった命の危機を乗り越えない方が家族のためだったのかも。
そうすれば母は疲労で精神を病むことはなかったし、自分も無駄な苦痛を感じる必要がなかった。
今生きていられるのは神様が徒に寄越した幸運なのだから後悔のないよう、大事にしようと思ったのにな。
片桐君に偉そうに講釈を垂れたくせにこの様だ。
どうしようもなさ過ぎて嫌悪が広がっていく。

椅子に座ったままでいると翔に肩を叩かれた。
はっと顔を上げると、翔は驚いたように目を大きくした後ふわりと笑った。

「どうしたの。帰らないの?」

「あ…もう帰る時間?」

「なに言ってんの。テスト全部終わったし、皆帰ってるよ」

室内に視線を泳がせると、半分の生徒が去っていた。
慌てて鞄を掴み帰ろうかと笑った。

「テスト、手ごたえ無かった?」

「あ、うん…」

「そんな落ち込まなくても。受験じゃないんだから」

「だよね…」

「じゃあテストも終わったし明日は休みだし、雪兎が好きな激辛ラーメンでも食べに行く?」

「うん…」

適当に返事をしながら靴を履き替え、そのまま電車に乗った。
翔と何を話していたのか思い出せないが、返事だけはしていたらしい。

「いただきまーす」

きっちりと両手を合わせる彼に倣い、割りばしを添えて手を合わせた。
湯気の匂いを嗅いだだけで咽そう、と顔を顰める翔を見て苦笑した。

「美味しいよ。一口食べる?」

「遠慮します。辛いのは好きだけど、それはもう痛いって感じ」

「そうかな…僕味覚が馬鹿になってるのかも」

「絶対そうだよ」

あっさりと肯定され、ちょっとは否定してほしいと思う。

「色が地獄みたい」

「美味しいのになあ…」

麺の上にたっぷりと乗ったもやしやキャベツを口に放り込む。
野菜や肉、血に変わる栄養をたくさん摂って健康になろう。先生と関係を持つようになってからそんな風に思えた。
それがすっかり癖になって、学食も残さないようになったし、主治医にも顔色が良くなったねと喜んでもらえた。
今となっては健康になる必要がどこにあるのだろうと投げやりになる。
スープまできっちりと飲むと、見ているだけで口の中が痛くなると翔に文句を言われた。
翔が誘ってくれてよかった。
大事なモノボックスに入っていたのは、浅倉先生と翔と、翔の家族。それから高杉君と片桐君。
その中の一つがなくなった隙間を翔は上手に埋めてくれる。
長い付き合いだから気遣わずに済むし、会話をするのも楽しいし、無言でも気にならない。
従兄妹はさほど血の繋がりが濃いわけではないが、翔とはずっと一緒だったからまるで自分の半身のように思う。

「しょっぱいの食べると甘いの食べたくなるね」

店を出てから言うと、ファミレスを指差された。

「期間限定マンゴーパフェだって」

「おー、いいねー」

ファミレスを外から覗くと中途半端な時間にも関わらず結構混んでいた。
テスト期間中の高校生や、昼食を摂った後おしゃべりに興じるおばさん。
特に、他校の生徒を見るのは新鮮だった。
普段寮と学校の往復ばかりのつまらない生活をしているせいで、外の世界が楽しい。
店内に入るとウェイトレスさんが出迎え、自分たちを見て一瞬顔が強張った。
この対応はいつものことなので慣れている。ああ、日本語通じるかな、という不安が混じった顔だ。

「二人です」

翔が指を二本立てながら言うと、途端に安堵したように席に案内してくれた。
くすりと笑うと、翔もこちらを振り返って苦笑した。
席につき、パフェとドリンクバーを注文する。温かいコーヒーを持って戻ると、先に戻っていた翔が頬杖をついて難しい顔をしていた。

「何そんな顔して」

「いやー、この前有馬君に言われたこと思い出して…」

「有馬君…?」

「あなたたち本当にクォーターなんですか?日本要素をあまり感じないんですけど、って」

「う…傷をがっつり抉るようなことを…」

それは翔にとっても自分にとっても永遠の課題だ。
翔のお姉さんや自分の弟はもっと日本人らしい顔立ちをしているし、露骨に避けられるような真似もないらしい。なのに自分たち二人ときたら。

「隔世遺伝ってやつかね」

「二人同時に隔世遺伝しなくても…」

「まあ、昔に比べれば外国人がいても珍しくないし、これからもっと生きやすくなるよ」

「そう願おう。このコンプレックスは一生背負わなければいけないのかと思うと気が塞ぐし」

溜め息を吐く翔を見て笑った。
翔が遠巻きにされるのは忌を含めた気持ちではなく、憧憬の方が大きいと思うのだけど。
絵画から飛び出してきたような完璧に美しい容姿は、本人にその気がなくとも圧を感じさせるものだ。
運ばれてきたパフェを食べ、きんと冷えた口内をコーヒーで温める。
お腹を擦り夕飯食べれるかなと呟くと、翔が苦しそうに笑った。

「…雪兎がぼうっとしてたのって高橋先生の噂が原因?」

一瞬言葉を忘れ、もう他クラスにまで広がっているのかと感心した。

「知ってて連れ出したんだ」

「まあ…雪兎は自分から話さないから」

小さく笑い大きな窓の外にすいと視線をやった。
別れたことは翔に話していない。正直に言えばどうしてそんな馬鹿なことをと言われるのは目に見えていたし、もう少しまともな言い訳を考えてから流れる会話の中で然程重要ではないように言おうと思っていた。
そうでなければ意外と短気な従兄妹はなにをするかわからない。
顔に似合わず考えることがえげつないんだよなあ、とくすりと笑う。

「大丈夫だよ」

「本当に?僕がその立場だったら腸煮えくり返ってると思うなあ」

「まあ、大人には大人の付き合いがありますから」

「それはわかるけど…無理してない?」

「してないよ」

唇を引き結んだ翔の腕をぽんと叩いた。

「僕意外と強いんだよ」

「それはわかってるよ。ぽやんとしてそうで我が強いとか、意志が強いとか、でもぼんやりしてるとか…!」

「ほぼ悪口」

「…心配なんだよ。雪兎はいつも僕を心配させる」

「…うん。ありがとう。でも本当に大丈夫なんだ」

言うと翔は泣きそうな顔をして俯いた。
その時テーブルの上に置いていた彼の携帯が鳴り、画面には彼の恋人の名前があった。

「鳴ってるよ?」

「…うん」

電話に出た彼はうん、うん、と頷きながら手短に話して切った。

「ご主人様の帰りを待ちきれなくなったかな?」

揶揄しながら言うとそんなんじゃないと首を振られる。

「そろそろ帰ろうか。お腹の膨れも落ち着いたし」

「…うん」

立ち上がりながら自分以上に落ち込んだ様子の翔の髪をくしゃりと撫でた。
会計を済ませ駅の前で彼の肩を引いた。

「僕本屋行きたいから先帰ってて」

「じゃあ僕も付き合うよ」

「いいよ。甲斐田君待ってるんでしょ?」

「待ってない。大丈夫」

「翔ー」

片耳を軽く引っ張って咎めた。

「甲斐田君と約束してたんじゃないの?どうせ忘れてたんでしょ」

「…バレたか」

「そうじゃなければ甲斐田君はわざわざ電話しないでしょ」

「う、はい…」

「早く帰ってあげな。ちゃんと謝るんだよ」

「はいはい」

珍しく不貞腐れた翔の背中をぽんと叩く。軽く手を振り改札を抜ける姿を見送った。

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