5



三日、一週間、十日。時間が経つに連れ連絡するのが怖くなった。
先生からもなんのアクションもない。もう面倒だから切り捨てたのだろうか。こういう期間をなんというのだろう。別れ話をしたわけではないが、自然消滅とかそういう部類のものだろうか。
自室の勉強机に座りペン回しをしながらぼんやりと壁を見詰めた。
開いたノートは真っ白なままだ。

「椎名ー!」

入口が開く音と共に片桐君の声が響き現実に引き戻された。
慌てて寝室の扉を開けると、片桐君に腕を引かれるようにした高杉君がいた。

「ど、どうした?」

「高杉がお前の部屋の前でもじもじしてるからさ」

「あ、いや、ノックもなしに悪かったな。この馬鹿が…」

「馬鹿とはなんだ。馬鹿だけど!」

片桐君はがはは、と笑いソファにうつ伏せになるようにダイブし疲れたとぼやいた。

「椎名、よかったらこれ…」

高杉君に紙袋を差し出され、受け取りながら中を覗き込むと可愛らしいキャラクターが描かれた箱が入っていた。

「いつも椎名に色々貰っているからお返しだ」

「わざわざありがとう。嬉しいよ。でも随分可愛らしいの選んだね?」

「これは、妹が…!」

「妹さんかあ。じゃあ妹さんにもお礼言っといて。あ、今みんなで食べようか」

「いや、僕はすぐに戻らなければ」

「そっか、残念だな。じゃあ今度ゆっくり」

「ああ」

畏まって辞去する高杉君を見送り、片桐君のために甘いコーヒーを淹れた。
カップをテーブルに置き、折角だから二人で食べようと包みを開ける。

「なんというか、高杉に怖ろしく似合わないな」

片桐君はパッケージをまじまじと見ながら難しい顔をした。言ってやるなとくすくすと笑う。
彼らが来てくれてよかった。丁度一人でいたくない気分だった。こんなこと何度もあったはずなのに上手に対処できなくなっている。片桐君の強引さと優しさに甘え、どうしようもない人間だと思う。

「椎名何してたの?」

「勉強」

「うわ、マジか」

「ていうのは建前」

真っ白なノートを思い出し苦笑した。ブラックコーヒーを啜り小さく息を吐く。

「…なんかあった?」

「なんかって?」

「なんかはなんかだよ。こう、悩み事とか…」

「悩み…」

顎に手を添え自分はそんなにわかりやすいだろうかと首を捻る。
人からは黙らない方がいいとか、喜怒哀楽を表に出した方がいいと言われる。
どうやら黙っていると意地悪で冷たそうに見えるのだとか。肌の色や瞳の色、髪の色のせいかと思ったが、顔の造りが精気の篭らない人形のようなのだとか。
それは心外だと思ったけれど、逆を言えば表情を造れば本音を奥底に隠せるということだ。だけど片桐君にはバレた。動物的本能か、彼に気を許しているからか。

「…片桐君さあ、人の幸せってなんだと思う?」

「さあ、人それぞれなんじゃね?」

「じゃあ片桐君の幸せは?」

「えー…食って寝る生活?」

「あ、いいねそれ」

「だろー?でも勉強とか、労働とか、そういう対価があってこその幸せだよなあ」

「現実は厳しいね」

片桐君はお金が湧く泉が欲しいと言いながらクッキーを八重歯で噛み砕いた。

「…人それぞれかあ…」

独り言のように呟いた。じゃあ先生の幸せはなんだろうと考える。彼が一番大事にしているものを自分も大事にしたいのだ。
先生について知っていることは少ないけど、その中でわかっているのは教師としてのプライド。口では適当なことを言っても決して仕事に手を抜かないし、関わりのなかった自分にもよくしてくれた。贔屓はせず、どの生徒とも平等に線を引き、平等に扱う。

「彼女となんかあった?あ、でも俺色恋は得意じゃねえし俺に話してもしょうがねえか」

懐っこい笑顔を見て自分もくすりと笑う。本当に片桐君は重荷を軽くするのが得意だ。

「彼女の幸せが自分の幸せとかカッコイーこと言いたいなと思って」

「うーん、大人。俺は自分の幸せを一番に考えちまうからな」

「それが健全だと思うけど」

「どうだろな。でもまあ、相手が笑ってくれたら自分も幸せになるから、結局相手の幸せと自分の幸せってイコールなんじゃね?」

頬杖をついていた顔をぱっと上げた。片桐君はなんだよと首を捻る。

「…そうか。我慢って思うから苦しいんだ。イコールと思えばいいんだ」

「え?いや、それはどうだろう…?」

「すごい、流石片桐君。男気あるなあ」

「やめろよ照れるだろー」

茶化すように頭をぐしゃぐしゃにされ、やめてと笑い合いながらそうか、そうかと納得した。先生のためを探してきたから答えが複雑になったのだ。
相手の笑顔と自分の幸せはイコール。いつだってそれが正しくあるべきだ。
片桐君が去った部屋でソファに横臥し天井を見上げた。
――俺にだって限界はあるんだぞ。
先生の言葉を思い出し、そわっと足先が冷たくなった。
限界ってどこだろう。なにに対してだろう。この関係だろうか。子供の相手だろうか。
大人に見限られるのは慣れている。面倒だとか、産まなきゃよかったとか、最初は心を刺していた言葉も段々とそれが当然になって心を平坦にできた。
沢山の悲しみは逆に心を麻痺させる。怒りも、悲しみも、今は家族に対してなんの感情もない。どこか他人事で、そりゃ面倒臭いよなと結論付ける。願わくば弟が健やかに成長できていればいいなと、それだけだ。
だからきっと今心をぐしゃぐしゃにしている問題も毎日を生きていればどうでもよくなって、一々動揺しなくなる。
だから選ぶ答えは一つしかないと思う。子供の自分でも彼のためにできることがまだ残っている。
何を守り、何を捨てるのか。
誰が大事で何を犠牲にするのか。
片手は教科書、片手はスーツのズボンに突っ込んで授業を進める先生を思い出す。
たまに自分が東城の生徒だったときは、なんて過去の話しをしてくれた。
授業をちゃんと受けたいのに先生に見惚れて心臓が痛くてそれどころじゃなかった幼い自分はまだここにいて、だけど自分が好きなのは教師という立場を含めた浅倉陸だと思う。
彼からそのすべてを奪うわけにはいかない。
みじめな子供に手を差し伸べたせいで口汚く罵られたり、世間から糾弾されたり、苦労して手に入れたものを掻っ攫われたり。
上手に隠せばどうにかなる問題ではないと知った。遠い海外の話しじゃない。現実を見せつけられて初めて知った。自分は嫌になるほど子供だった。
瞳を閉じてふう、と息を吐き出した。頭が痛い。ああ、雨が降ってきたのだ。
携帯を取りだしぽつぽつとメールを打った。
話しがしたいです。
たったそれだけ送るとすぐに電話があり、緊張しながら通話ボタンを押した。

「…もしもし」

『俺だ』

「はい」

『…話し、今からでもいいか』

「はい。じゃあ僕そっちに――」

行きますと言いかけて口を閉じた。こういう軽率な行動が彼の首を絞めるのだ。

「あの、できれば明日学校でもいいですか」

『学校で?…まあ、放課後とかなら』

「じゃあ放課後。どこか二人で話せる場所で」

『わかった。明日メールする』

「はい。それじゃあ」

ぱたんと携帯を閉じて溜め息を吐いた。
明日、明日かあと天井を見上げる。そのまま数分過ごし苦笑して前を向く。一度決めたことをいつまでもぐちぐち考えても仕方がない。意志の弱さは男らしさと真逆にあると思う。弱々しく、少し小突いたら倒れそうな自分をイメージしてあーあ、と悪態をついた。勉強も大事だが、もう少し身体も鍛えよう。
まだまだ伸び続けている身長とは反対に体重はそのままなので、最近の自分は縦にばかり大きくなりひょろひょろと頼りない。
この前片桐君と翔とおふざけで身長を測ったときは百七十七センチで、片桐君がもう少しで抜かれてしまうと焦っていた。
そういえば浅倉先生と目線の高さが変わらなくなってきた。猫背なので小さいイメージを持たれがちだが、クラスの中でも大きい部類に入る。
なのにこの頼りなさ。だからみんなに心配をかけるし、庇護欲を掻きたてるのだろう。
一人でも立てる、大丈夫だと胸を張って言えるように運動をしよう。
そうすればきっと先生も安心できるし、翔も自身のことだけを考えてくれる。
心臓は勿論、肺にも負担がかかりやすいので無理のない範囲がいい。水泳もいいかもしれない。
つらつらと先のことを無理に考え希望で胸をいっぱいにしたかった。そうしないと途方に暮れて、また膝を抱えるだけのいじけた子供になりそうだったから。


放課後英語準備室と簡素なメールを確認し、クラスメイトが去り学校内が静かになるまで適当に勉強して時間を潰した。遅れを取り戻さないと志望校は難しいと担任にも口酸っぱく言われている。
時計を確認し、いよいよこのときがきたなあと諦めたように準備室の扉を叩いた。

「失礼します」

「おう」

浅倉先生は窓に片方の肩を預け、グラウンドからこちらに視線を移した。
埃っぽい室内の長机の上には乱雑に教科書や書類が積み重なっている。パイプ椅子を引っ張り出した先生を手で制し、すぐに帰るからと言った。
机を隔てて彼と向き合い、小さく頭を下げる。

「この前、すみませんでした」

「…いや、それはもういい。俺も言い方がきつかった」

「でも、逆の立場ならイライラするなと思ったので」

「だとしても大人としてあの対応はまずかったよ」

顔を俯かせて苦笑した。先生はどこまでいっても先生だ。
九十%こちらが悪くても残りの十%を相手に提示して心を軽くしようとする。大人であり、先生であり、完成された人間。一緒に過ごす時間が増えるほど好きになるから困る。

「で、自分なりに決着つけてここにきたのか」

「はい」

「じゃあ聞かせてくれるか。お前がよそよそしかった理由」

俯いたまま小さく息を吸いこんだ。目一杯の笑顔を貼り付け勢いよく顔を上げる。

「…僕、先生と別れたいと思ってます」

「…は?」

「別れたいんです」

顔が引きつりそうになり、無理に笑みの形をキープした。ここで一瞬でも隙を見せたら気取られる。

「もうすぐ受験だし、勉強も忙しくなるし、もし大学に受かったら遠くなるし、それに…男同士だし。先生とつきあうの楽しかったです。秘密の関係にどきどきしました。でも最近ちょっと疲れました。前先生言いましたよね。女の子と普通の恋愛してたらこんな想いさせずに済んだって。あのときはよくわからなかったけど、今はわかります。だから僕、高校の最後くらい普通でいたいんです」

両手をカーディガンのポケットに突っ込んだ。拳を作って肉体的な痛みで心の痛みを誤魔化すために。

「先生は大人だし、ベッドの上でも色々教えてくれるかなと思ったけど、意外と真面目でつまらないんです。僕がしたかった付き合い方とは少し違うというか…」

「椎名」

「先生もつまらないでしょ。子供で同性なんて。だから――」

「雪兎!」

机を思い切り叩く音に肩が強張った。怯みそうになりもう一度へらっと笑った。

「やだな、そんな怒らないでくださいよ。どうせ一時の火遊びじゃないですか」

「本気で言ってんのか」

「嘘つく理由あります?」

「あるんじゃねえのか」

「ないです」

「だからって急に…」

「その急がありえるのが子供ですよ」

この話しはこれで終わりと言うように背中を向けた。あと少し、あと少しだけ頑張ってくれ。自分を鼓舞して奥歯を噛み締める。
じゃあ、と短く言うと腕を握られた。

「俺はわかったなんて言ってねえぞ」

「…片方が別れようって言ったら成立するものじゃないですか?」

「しない」

「別れ際にしつこい男ってどうかと思います」

吐き捨てるように言うとぱっと腕が離された。

「そうだな。じゃあこれから格好悪い大人の男を見せてやる。お前の前では格好つけようと思ってたけど、もういいわ」

「どっちみち、僕はもう…」

「俺は別れない」

「っ、しつこい!」

つい声を荒げてしまい片手で口を塞いだ。

「おお、初めて怒鳴ったな」

「…からかわないでください」

「からかってねえけど」

「…どうしたらわかってくれますか」

「どうしたってわかんねえな」

聞き分けの悪い子供のような口ぶりに途方に暮れたようになる。
ぎりぎりまで引き延ばされた糸が切れそうで、もういいやと脱力した。

「…失礼します」

準備室を出て大股で昇降口を目指した。
口では先生に勝てない。自分の意志は伝えたし、後は着信拒否にすればいいだけだ。
学校では密に接してこないだろうし、寮に忍び込むなんて馬鹿な真似もしないだろう。
切ろうと思えば案外簡単に切れるものなんだなと気付く。
教師と生徒、毎日学校で顔を合わせたとしても、関係は薄っぺらい。薄っぺらいから深くしようと躍起になった。
校門を潜る間際一度だけ校舎を振り返った。
ごめんね先生。酷い言葉をぶつけたし、酷い我儘ばかりだ。
あんなによくしてくれたのに。知らなかった沢山の感情を教えてくれたのに。大人をもう一度信じようと思えたのは先生のおかげなのに。
ごめんなさい。ごめんなさい。
本人に伝えなければ意味のない謝罪ばかりを何度も唱えた。

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