リゾルート



マグカップを両手で包み、掃き出し窓の外に視線を移した。
今にも雨が降り出しそうで、昼間だというのに全体的に灰色がかった景色が広がっている。
換気扇のスイッチを押す音がして、キッチンの方を振り返った。
浅倉先生が煙草を咥え、流れるような仕草で火を点ける。大きな溜め息のように煙を吐き出しぼんやりと手元を眺めていた。
煙草は身体に悪いなんて正論は言わない。彼が煙草を吸う姿が好きだし、それがストレス発散になっているのなら構わないと思う。
ただし、非喫煙者よりも健康に気を遣ってもらいたい。先生にはいつまでも元気で長生きしてほしいから。
やはり健康は栄養バランスのとれた食と睡眠だろうか。浅倉先生が自炊している姿は滅多に見ないし、缶ビールとつまみで済ませることが多いと聞いている。
せめて自分が作れたらいいのだが、生憎そういう方面は苦手だ。
自分には無理だと背を向けず、何度も練習すればそれなりにできるようになるのだろうか。うーんと唸ると先生が隣に着いた。

「なに難しい顔してんだ」

「料理ができるようになりたいなあと…」

「料理?」

「はい。健康への第一歩は食かなと」

「おお、えらいえらい。ちゃんと身体のこと考えてんだな」

そうじゃないと言いたかったが、あけすけな恋心や干渉はうんざりされそうなので否定は呑み込んだ。
先生はカップを煽り、こちらに顔を向けた。

「進路、ちゃんと担任の先生と話し合ってるか」

「…まあ」

「そうか。行き詰ったら俺も話し聞いてやるから」

それには返事をしなかった。
今はプライベートの時間のはずなのに進路の話しなどしたくない。
教師の顔を見せられると、途端に自分たちの間に壁を作られたように感じる。
もしかしたら意図的にそうしているのかもしれない。この前自分がセックスしたいなんて馬鹿なことを言いだしたから、自分たちは教師と生徒でもあるのだとわからせるために。
あのときの自分を思い出してしまい、あー、と頭を抱えたくなる。
できれば忘れてほしいし、自分も忘れたい。正気に戻ると恥ずかしすぎて穴に入りたくなる。
拒絶されなければそういう願望を口に出すのも当然と胸を張れたが、さくっと断られたので更に恥ずかしい。
先生にはきちんとした理由があり、自分自身を否定されたわけではないが、結果として自分はそういう方面にますます臆病になった。
別に今のままでも不満はない。煙草を吸う姿や、だらけた様子でテレビを眺める姿は自分しか知らない。それでけで十分で、多くを望むのは間違っていると思う。
身の程をわきまえましょう。標語としていつも自分の胸に掲げるようにしている。

「おーい、聞いてる?」

「あ、すみません…」

ぱっと顔を上げると浅倉先生は少し困ったように笑った。

「椎名の夢って聞いたことなかったなあと思って」

「…夢、ですか」

毎日を生きるのに必死すぎて未来など考えても無駄だと目を逸らしていた。
願えば願うだけ、床に臥せる自分が情けなくなるから。
でも先生と過ごすようになってからは、真っ先に諦める癖を直そうと努力している。ぞんざいに扱っていた自分の身体を労わり、未来を想像するようになった。

「昔は健康になるのが夢だったけど、今はぼんやりとしか…」

「でも進路は決めてるんだろ?」

「まあ、一応…」

世の中には想像以上にたくさんの職業がある。本を読んで知った。
その中で心が惹かれたものがあり、進みたい方向を決めた。
担任と相談を重ね、今の成績と照らし合わせながら大学を選び、あとは我武者羅に勉強するのみといった状態だ。
今のままだとぎりぎりだと言われたので、A判定がもらえるように頑張らなければ。

「俺には教えてくれないの?」

「僕が言わなくてもいくらでも調べられるじゃないですか」

「職権乱用になるから調べないし、雪兎の口から聞きたいじゃん」

「なんでですか?」

「恋人の進路が気になるのは誰でも同じだと思うけど?」

ゆったりとソファの肘掛に頬杖をつきながら言われ、不意打ちの言葉に羞恥が襲う。
教師として聞いているのではなく、恋人として聞いているのだ。そう言われると頑なだった心が解れていくので、自分は本当にどうしようもなく安い人間だ。
きゅっと手を組んだ。改めて夢と聞かれると気恥ずかしくて、反対される不安もあるが、知る権利が彼にはある。

「…公認心理師の道を目指そうと考えています」

「お、いいじゃん。お前に合ってると思う」

まさかの返事に目を丸くして彼を見た。

「…合ってます?」

「ああ。お前の誠実さは誰にでも伝わるし、親身にはなるけど、他人と一線引くところがあるから相手に深入りして自分のメンタルが引っ張られることもなさそうだし」

「え、僕他人に線を引いています?」

「わざとそうしてるのかと思ってたけど、天然?」

「…なんか、自分がすごく嫌な奴に思えてくるんですけど」

「ああ、違う違う。冷たい人間って言ってるわけじゃなくて。なんていうかな。人に執着しないというか。病気のせいもあるだろうけど、手放す前提で構えているというか…でも、そういう道に進みたいならその性格は強みだと思うけどな」

「そうでしょうか。自分ではよくわかりませんけど」

「いい意味で言ってんだぞ?で、なんでその道を選んだ?」

聞かれ、顎に手を添えてぽつぽつと記憶を呼び戻しながら話した。
海外では親子関係、夫婦関係、PTSD、様々な問題で悩んだときはカウンセラーに相談することで解決を図る場合が多々あり、この先日本も少しずつそうなっていくのではないかと思ったこと。
自分は翔や翔の家族、浅倉先生や天野先生に救われたので、今度は誰かの痛みを少しでも軽くしたいと思ったこと。
それから…。先生には言わないが、自分はあまりにも未熟な人間で、知らない感情が多すぎるので、知識を得たらアンバランスに心が揺れたときも対処できるようになると思った。

「…そっか。うん。応援する」

ぽんぽんと頭を撫でられ、頑張りますと頷いた。

「まずは大学に受からないと。A判定貰えるように勉強します」

小さく拳を作る姿を見て、先生がふっと笑った。

「お前が大学生かあ…」

「まだまだ先の話しですよ。受かるかわからないし」

「大丈夫。お前は努力家だから」

さらりと前髪を払われ、居心地が悪くて俯いた。
彼は大人だから切り替えが上手にできる。教師の顔をしたり、大人の男の顔をしたり。それに比べて自分はどう振る舞っていいのか未だにわからない。
甘えると子どもっぽさが引き立つ気がして素直になれないし、背伸びして大人のふりをしてもくすくすと笑われるだけだ。
膝の上で包んだカップを眺めていると、それをひょいと横から奪われてテーブルの上に置かれた。
顔を上げると腕を引かれ、ソファに横たえた先生の上に覆いかぶさる格好になる。

「お、重いですよ」

「確かに体重増えたな」

「そうなんです!」

先生の胸に手をついてぱっと顔を上げた。この前久しぶりに体重を測ったら増えていて、天野先生にも誉められたのだ。
先生はわしゃわしゃと頭を撫でながら偉いと笑う。そのまま頬を片手で包まれ触れるだけのキスをした。
身体の関係は拒否するくせにキスはいいんだ。線引きの基準がよくわからずいじけた気持ちになるが、触れられれば素直に嬉しいと思う。

「大学なんてまだ先だと思ってるかもしれないけど、本当にあっという間だから」

「そうでしょうか」

自分は卒業するまでの数ヶ月が永遠のように感じられる。
一日、一日潰すように生きていて、早く彼の生徒という立場から脱したくて仕方がない。

「瞬きしてる間に三十とかになんだよなあ」

しみじみと言われ、経験談ですかと笑うと大真面目に頷かれた。

「社会に出てから今までの記憶は曖昧だけど、高校のときの記憶は強く残ってる感じがする。だからお前も今をたくさん楽しめよ」

「…そうですね」

ぱっとしない高校生活のまま終わったとしても、先生に出逢えて想いを受け取ってくれて、もうそれだけで幸運で、他の楽しみなんていらないのだけれど。

「十八かー…」

先生は天井を見上げて懐かしむように笑った。

「僕はまだ十七ですよ」

「そうだっけ?ていうかお前の誕生日知らねえな」

「二月です」

「二月?とっくに過ぎてんじゃん」

「まあ、過ぎてますね」

「なんで言わないかなー」

「言うものですか?」

「そりゃ、お祝いするもんだろ」

「そうなんですか」

他人事のように聞いた。誕生日を祝ってもらった記憶はとても薄い。
幼い頃はあったような気もするが、病室でだったり、具合が悪くてケーキどころじゃなかったり。
翔や彼の家族、祖父母は毎年祝いの言葉やプレゼントをくれるけれど、それは血縁関係があるからだと思っていた。他人が自分の誕生日を祝いたいと思うなど想像もしなかった。

「随分遅くなったけどお祝いするか」

「そんな、別にいいですよ。めでたくないし」

「めでたいの!」

少し怒ったように言われ否定の言葉は呑み込んだ。

「ほしいものは?」

「ないです」

「そう言うと思った。じゃあ…受験勉強が大変になる前に温泉でも行くか。連休使って、少し遠いところ行けば知り合いにも会わないだろ」

「温泉…」

そういえば行ったことないなと考え、遠慮がちに頷いた。
遠い、遠い場所に一時逃避すれば自分たちの許されざる関係から解放される気がして。
今のままで十分と思うけれど、一日くらい羽根を伸ばしたいとも思う。贅沢病だ。

「…楽しみだな」

ぽつりと呟くと、先生は俺もと言ってくれた。
彼の胸に頬を寄せるようにした。心音が聞こえ、その音がやけに落ち着くことを知り、うっとりと瞼を落とす。

「…眠ってしまいそう」

「いいよ」

「…でも」

折角一緒にいられるのに。
抗いたいのに髪や背中を優しく撫でられると、深い海にゆっくりと沈んでいくように意識が潜っていった。


[ 7/19 ]

[*prev] [next#]



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -