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腕時計を見ると九時を少し回ったところだった。
「藍、もうそろそろ帰らないと父さんに叱られるんじゃないか?」
藍も時計を見て、そうねと笑った。その顔は少し寂しそうに影っている。
実家の様子は聞いていないが、藍がいくら可愛がられているといっても、僕と兄が去ってがらりと空気が変わった家の中で暮らすのはとても辛いだろう。
母も父も僕たちの話題は出さないようにして、ぎこちなさの不協和音を無理矢理呑み込ませられる。
適応できなければ弾かれてしまう。僕たちのように。
藍は頭のいい子だから、理解はしているだろう。納得はできずとも。
どれくらい、この小さな妹に苦労を掛けているのか想像すると、胸に鋭い痛みが走る。
「あーあ、楽しいと時間ってすぐだね」
唇を尖らせる癖が懐かしくて、笑みが浮かんだ。
「いつでも会えるだろ?」
「そうだけどー…」
「今度はもう少し早い時間から会おう」
「そうね」
次がいつかはわからないが、藍が呼んだらすぐに駆けつけるだろう。
自分も以前よりも妹に甘くなっているようだ。
会計を済ませ、二人を駅まで送るために並んで歩いた。
藍は行きと同じように僕と兄を放さない。
「藍、普段はこんな遅くまで外にいないよな?」
「遅くって、まだ九時回ったばっかりよ?」
「十分遅いじゃないか。女の子には危険な時間だぞ」
「お兄ちゃんったらー」
「お前はよく声をかけられるから心配なんだよ」
過保護だと笑われるし、藍には鬱陶しがられるかもしれないが、次は真面目で誠実な人と恋をしてほしい。決して柴田のような人間ではなく。彼が悪いとは言わないが、もう少し素行の良さそうな…。
「茜は言うことが父さんにそっくりだね」
「ほんとほんと。気を付けてるから平気よ」
「気を付けてるとは言っても…」
「大丈夫だよ茜。藍だって大人になってきてるんだから。な?」
「うん。私はお兄ちゃんが思うよりもずっと大人なんですー」
自らを大人という人ほどそうではない。やはり心配だ。
しっかりしているけれど、どこか抜けた部分もある。
丁度、僕と兄を足して二で割ったような性格だ。どちらかというと兄寄りなので、尚更心配だ。
「父さんに怒られないように、ほどほどにするんだぞ」
「うん。ちゃんと勉強も頑張ってるから」
「なら、いいんだが…」
小さく吐息をついて、隣の藍を眺めていると、藍が急に足を止めた。
目を見開き、少しばかり眉を寄せている。
どうしたと口を開く前に藍が僕の腕をぐっと引き寄せた。
「お兄ちゃん、あれ皇矢じゃない?」
「え?」
藍の視線の先を辿ると、確かに柴田がいた。
誰かを追いかけるようにして、近付くと後ろから腕を引いている。
柴田を振り返った人物を見て、心臓が大きく跳ねた。
藤崎先生だ。
柴田たちには距離があるが、ネオンの灯りではっきりとわかった。
なにか、言い争っているような雰囲気に見える。
ぽかんと二人を見詰め、状況を把握するごとに心臓の音も煩くなった。
「誰あの人。もしかして浮気!?」
藍は僕のシャツを力強くぎゅっと握った。
今にも飛び掛からん空気の藍を宥めるために、開いている手で頭をぽんと撫でた。
「…いや、うちの学校の先生だから…」
思ったよりも冷静な声が出てほっとした。
兄妹の手前、動揺するわけにはいかないと、心に必死にブレーキをかけた。
「なんで休みのこんな時間に先生といるの?」
「いや、偶然会っただけだろう」
「えー!そんな雰囲気には見えない。ちょっと私行ってくる!」
「待て、藍っ――!」
制止するより先に藍は大股で飛び出してしまった。
できれば見て見ぬ振りをしたかった。
気付かれないように去って、記憶から消したかった。
これ以上問題を大きくしたくない。
けれど、藍が行ってしまったのでそれは叶わない。
「あーあ、行っちゃったね」
「…頭が痛い…」
兄は苦笑し、僕は顔を歪めた。
「行かなくていいの?」
「…行くよ…」
できれば行きたくない。今ここで柴田に会ったら、問題の核心に触れなければいけない。
なにも見たくないし、聞きたくもない。
上辺だけでもいいから柴田との関係を守りたい。
問い質したり、僕が怒れば彼が離れていく気がする。知りたくない事実と現実が待っている気がする。
だから僕は目を閉じ、耳を塞ぎ、口を噤んできた。
説明のつかない不安を感じていたが、それから逃げ続けたかった。
けれど、なんにでも終着点はあるし、タイムリミットもある。
いつまでも逃げ続けられるわけがない。
だけど現実と向き合うには心の準備が整っていないし、できればもう少し先の未来だったらよかったのに。
重い脚を引き摺って、若干の距離を持って柴田の背後へ近付いた。
藍は先生の手首を掴んでいる柴田の腕と反対の腕に、抱きつくようにぶつかった。
「皇ー矢!」
可愛らしい声と上目遣いで柴田を見ている。
「…藍!?」
突然の藍の登場に、柴田もかなり驚いている。そして、ぱっと先生の腕を放した。
「偶然だね。何してるの?」
明るく、甘ったるい藍の声に、柴田は曖昧に口籠った。
「この方は?」
「…ああ、うちの先生」
「そうなんだ!初めまして。皇矢の彼女です」
藍の言葉に驚いたが、割って入って説明をするわけにもいかないので、成り行きを見守ることにした。
柴田は特に否定もしない。
「あ…そ、そう!皇矢君の…。初めまして、藤崎と申します」
藤崎先生は慌てた様子で藍に向かって頭を深く下げた。
「とても可愛らしい彼女さんね!すごい美少女じゃないの!」
髪の毛を耳にかけながら、ぎこちなく微笑んでいる。
「皇矢、学校でご迷惑おかけしてませんか?」
藍は柴田の腕にぴったりと寄り添い、甘えた様子で首を傾げた。
「全然平気よ。私の方がしっかりしてないくらいで…」
「そうですか。よかったです」
「じゃあ、私行くね!皇矢君、寮の門限がありますから、あまり遅くならないように帰って下さいね」
そう言って先生は踵を返した。
その後ろ姿が見えなくなったと同時に、藍は柴田から離れた。
にこにこと微笑んでいた表情を一瞬で消し、睨むように下から柴田を眺めている。
「まったく、何やってんのよ」
「こっちのセリフだ。なにやってんだよ藍」
「あーら、強気な態度ね。まさか、あの先生にちょっかい出してるわけじゃないわよね?お兄ちゃんがいるんだから」
「そんなんじゃねえよ」
「ふうん。わけありな感じだったけど」
「てか、お前いつ俺の彼女になったんだよ」
「ああ、元を入れるの忘れてたわ」
「嘘だろ」
「釘を刺しただけよ。別に、皇矢に未練があってやったわけじゃないからご心配なく」
「…お前、キャラ違くね?」
「今更皇矢に可愛くしても意味ないし」
「…あ、そ…」
会話を聞いているうちにはらはらしてきた。
このままでは大喧嘩に発展しそうだ。恐る恐る二人に近付くと、やっと僕の存在を知ったのか、柴田が一瞬目を大きくし、溜息のように息を吐き出した。
どんな態度をとっていいのかわからず、目を合わせないように俯く。
三人が三人ともばらばらの心境で、けれども言いたいことはそれぞれあって、でも誰も駆口を開かない膠着状態に陥った。
藍はなおも柴田を探るように睨み続けている。
「おーい。急に行くからびっくりしたよ」
呑気な兄の声にはっと顔を上げた。
兄の登場で、ぴりぴりと張り詰めていた空気が多少が緩んだようだ。
「あれ、皇矢君。久しぶりだね」
「…どうも」
兄は柴田に微笑み、なにも見ていない、なにも知らない、という演技をした。
その方が得策と踏んでくれたことに感謝する。
「久しぶりに会ったんだし、お茶でもと言いたいところだけど、妹が門限なんだ」
「いえ、気にしないで下さい」
「ごめんね。今度ゆっくり話そうね。そうだ、僕たちの部屋に遊びに来てよ。君が来てくれたら氷室君も喜ぶと思うな」
氷室会長の名前が出た途端、柴田の顔が僅かに歪んだ。まだ苦手らしい。
それをわかっているだろうが、兄は知らないふりで微笑んだままだ。
「じゃあ、僕たち行くね。茜は柴田君と帰るだろ?」
できれば僕も二人と一緒に行きたい。
今柴田と二人になるのは気まずいなんてものではない。
でも同じ学校、同じ寮だ。逃げられない。
わかっているけど頷けない。
「またね、茜。連絡するから。藍、行こう」
最後に僕の頭をぽんぽんと撫で、いまだに柴田へ怪訝な瞳を向ける藍を促した。
兄は渋々といった様子の藍を引き摺るようにして去って行った。
自分はなにも後ろめたいことをしていない。
なのに何故か後ろめたく感じる。見てはいけないものを見てしまったような。
僕が気を遣う必要などないのに。
兄のように鈍感なふりをすればいいのだろうか。
「…茜」
名前を呼ばれた瞬間、突発的にいけないと思った。
先を聞いてはいけない。
二人になってはいけない。怖い。
「ぼ、僕行くところがあるんだ!柴田もまだ遊ぶんだろ?あまり遅くならないようにな。それじゃ」
逃げるように柴田から離れた。
足早に歩き、行く当てなどないけれど、それでもひたすら進んだ。
駅の反対側まで歩き、速度を落としていく。
こちら側は住宅街のようで、ネオンの光りもなく、なんとなく追ってを振り切った気持ちになった。
自分はなにをしているのだろう。
引き留められないことに安堵する一方、寂しさも感じた。
心の中がぐちゃぐちゃだ。わけがわからない。
僕の意志を無視してあっちへ行ったり、こっちへ行ったり、下手なボール遊びのように定まらない。
ついには足を止め、ぽつり、ぽつりとある街頭の下立ち尽くした。
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