初恋の影

柴田は生徒会室に来なくなった。
元々、有馬を敬遠してあまり近寄らなくなったが、ぱったりと足を運ばなくなったのは他の理由があると思う。
藤崎先生がいるからだ。
本人から聞いたわけではないので、証拠があるわけではない。けれども強く確信している。
濁った灰色の雲が、心の中で小さく吹き溜まりつつある。
はっきりとせず、ただ耐えて様子を窺うしかできず、先進もしなければ後進もしない。同じ場所を回り続けなければいけない日々にうんざりしてきた。
藤崎先生はほぼ毎日、放課後になると生徒会室で仕事をする。
ただ僕たちを見守り、仕事熱心で、ありがたいと思う。
けれど毎日顔を見るのが辛くもある。
柴田とはどういう関係だったんですか。
喉まで出かかる疑問を呑み込む作業に辟易とする。
聞いたところで変に勘繰られることはないだろう。ただの会話の糸口程度に思うだろう。
だけど、過去を知るのが怖い。真実はきっと毒だ。
ただただ、暗澹とした疑念を抱くのも嫌だが、自ら毒を呑み込んで死ぬのも嫌だ。
自分がどうしたいのかわからないから、柴田にも先生にもなにも聞けない。

「お久しぶりです」

生徒会室の扉を開けると、有馬の声が届いた。室内には有馬一人で、まだ藤崎先生は来ていないようだ。
平然と挨拶を交わす男をじろりと睨む。

「お久しぶりです、じゃない」

鞄を机の脇に置き、自分の椅子に腰を下ろす。
有馬はここのところまったく生徒会室に顔を出さなくなった。
柴田といい、有馬といい、なんなのだ、と何度歯軋りをしそうになったか。
柴田のことはまあいい。プライベートな問題だし、生徒会室に来ないのが本来だ。
けれど有馬は違う。
ついにこの男も鎖に繋がれるのに飽きたかと思った。
いつかはそうなるだろうと諦めてもいたけど。

「まあまあ。今日は私がコーヒーを淹れて差し上げますから機嫌を直して下さい」

「コーヒーを淹れたくらいで直る機嫌だと思っているのか」

「ええ、まあ」

有馬相手になにを言っても無駄だ。
わかっているのについ、反論してしまう。
有能だと認めよう。けれど喰えない男だし、態度や行動の一貫性のなさに振り回されてばかりだ。
パソコンを立ち上げると、色からして濃い目のコーヒーを机に置かれた。

「どうぞ」

「…ああ」

「礼もなしですか。まったく、高杉は…」

有馬は自分のカップを持ちながら深く椅子に腰かけた。
わざとらしい溜息にこめかみがぴくぴくと痙攣する。

「何故僕が礼を言わなくてはならない。謝罪してほしいくらいだ」

「高杉は年がら年中怒っていますね」

「誰のせいだとっ…」

有馬に道徳や説教は無意味。
反射的に言い返してしまう自分も自分だ。
何度同じ後悔をしただろう。

「謝罪なら彼女に要求して下さい」

「…彼女?お前のか?」

まさか彼女が甘えるから仕事を放り投げたと馬鹿げた戯言を言い出したかと思った。
そんな水飴のようにどろどろと甘いものは有馬には似合わない。思わず顔を顰めてしまった。

「なに言ってるんですか。藤崎先生ですよ」

「…は?意味がわからん」

「やれやれ…」

演技がかった様子で肩を竦められる。
彼女が有馬の機嫌を損ねるような言動をしたとは思えない。生徒会室の中では。
個人的になにかあったのだろうか。
有馬も普通ではないから、なにが彼の逆鱗に触れるかは知れない。そこらじゅうに地雷を撒き散らしているようなものだ。
有馬に関してはそれに引っかかった人の方が気の毒だ。

「私にとって生徒会室は息抜きになる気楽で大事な場所だったのに、教師などに居座られるのは非常に面倒です」

「…お前は本当に呆れた男だ。生徒会室を私用として使っているお前が悪い」

「会長ですから」

「お前個人のルールで批判される先生が可哀想だ」

「確かに私個人のルールですし、個人的な感情ですが、どうもあの女は虫が好かないんです」

有馬は宙を見つめ、目を細めた。人形のように整った造形の顔なので、微妙な変化でも大袈裟に見える。
ただあまり好きではないと言っているだけだが、まるで親の仇を見るような表情に思えてしまう。

「そんな…。一生懸命でいい先生だと思うが…」

「そうでしょうか。まあ、そういうわけなので、彼女が飽きて来なくなるまで私は自室で仕事します」

「馬鹿を言うな!僕にお前の部屋と生徒会室を往復しろというのか!」

傍にいてもらわなければ仕事が進まない。
細かい確認もあるし、短い話し合いを重ねながら進めている。
電話で確認なんて面倒だし、同じ資料が手元になければ無理だ。まったく合理的ではない。

「ではあの人に用がないときは生徒会室に来るなと言って下さいよ」

「何故僕が。お前が言えばいいだろ」

「言っていいのですか?私だと泣かせてしまうかもしれませんよ。新米教師だと」

有馬の言葉にぐっと喉を詰まらせる。
確かにその通りだ。この男は女だからと容赦しないだろう。しかも嫌っているし、そんな相手には徹底して非情で冷酷であるだろう。
有馬の勝手な感情で理不尽な要求をされるのはあまりにも可哀想だ。
でも、有馬のために僕から言うわけにもいかない。
先生はただ自分の仕事を真っ当しているだけなのに。

「有馬、お前末っ子か?」

「なんですか急に。末っ子長男ですけど」

「ああ、やはりな…」

自分の思い通りにならないと駄々を捏ねて大人を困らせる子どもだ。
何一つ抑制されず、存分に甘やかされて育ったのだろう。
だから自分にも自信が持てるし、周りが要求を聞いて当然だと思っている。
常々性格が悪いと思っていたが、救いようもない。

「やはりとは失礼な」

「お前には散々振り回されてきて慣れたものだが、今回は許可できない」

「高杉の許可はいりません」

「少しは周りの人間のことを考えろ!お前の我儘のために僕に倍の仕事をしろというのか!」

「仕事はきちんとしますよ。まめに報告や連絡もします。別に放課後でなくとも空いた時間に教室で話せばいい」

「お前の教室と僕の教室は遠いだろ」

「私が行きますから」

なにを言っても引かない雰囲気がある。
最終的には自分が折れるしかないのか。いつもこうだ。なんだかんだと文句を言いつつ、許してしまう自分にも問題があるかもしれない。

「…そんなに嫌か」

「嫌です。私は極端な人間なので、一度嫌だと思ったらだめなんです」

「なんだってそんなに…」

「面倒な女は大嫌いです」

「なぜそう思う。お前の思い込みかもしれないだろ」

溜め息を吐きながら、ぬるくなったコーヒーを啜った。

「そうですね。彼女のことはなにも知りませんけど…。でも雰囲気が似てるんですよ」

「誰に」

「私の姉の一人に」

「…お前のお姉さんが面倒だから、先生もそうだろう、って?」

「そういうことです」

「それは短絡的すぎるだろ」

「かもしれません。似ているのは雰囲気だけですし。でも似た女がいたら苛々するでしょ」

どうやらそのお姉さんとは馬が合わないらしい。
自分は兄弟全員が仲良くしている方だし、その気持ちはわからないが。
藍とは色々あったが、昔から兄も僕も可愛がっていたし、それに応えるように素直に好意を示してくれていた。
兄弟で憎しみ合うのはとても悲しい、ということも知っている。
けど、そう言われてはなにも言い返せない。
余所様の家庭事情に口を挟む権利もないし、有馬とお姉さんになにがあったのかも知らない。
余程のトラウマを抱えているとしたら、似ている女性を嫌悪するのも仕方がないことかもしれない。

「……わかった」

こうして最終的には我儘を聞いてしまう。
甘い。厳しいのは上辺だけで、その実とても甘い人間だ。
有馬の性格は困ったものだが、自分も同じくらい性格に難ありだろう。

「高杉は物分りが良くて助かります」

「物分りがいいんじゃない。お前相手にはそうしなければパンクするだけだ」

「柔軟はいいことですよ」

「うるさい。お前もその腐った性格どうにかしろよ。もう絶対に下らん我儘は聞かないからな。仕事もちゃんとしろ。少しでも不都合があれば無理矢理連れてくるぞ。わかったな」

「はいはい。わかっていますよ。我儘を聞いてもらう代わりに、仕事は完璧にします。高杉にも大きな負担はかけません」

珍しく上機嫌に微笑む有馬とは正反対に、こちらは一気に疲れた。
まだなにもしていないのに、この男と話しているだけで大嫌いなマラソンと同じくらい疲れた。
これくらい自由奔放に生きてみたいものだ。皮肉の篭った瞳を向ける。
けど、有馬が完璧にすると言うのなら、きっとその通りになるのだろう。
こちらに不都合はなく、生徒会室に呼び戻すような粗もなく、悔しいと苛々するのは自分だろう。
早く卒業したい。この男から遠く離れて一生関わりたくない。

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