9



胃痛に悩まされるようになってしばらく経った。
市販薬は病院の薬ほどは効き目がなく、日に日に身体が悲鳴を強くしているのがわかる。
毎日、針の上を歩いているような緊張感が拭えなかった。
特に、藤崎先生と顔を合わせる生徒会室では。
柴田からはたまに連絡が来たり、教室に顔を出したりするが、相変わらず部屋には来ない。
もう考えるのも苦痛になり、どうしてとも思わなくなった。
そういうものだと諦めれば、それが日常になる。
そうやって自然消滅は成立するのかもしれない。
ぼんやりと考えながら生徒会室まで這うようにして歩いた。
今日も先生は来るのだろうか。自分も有馬のように部屋で仕事を片付けようか。
それとも、有馬の部屋で一緒にやった方が今より数倍ましなのではないか。
逃げ道をいくつも想像して、けれどだめだと頭を振る。
それでは問題が何も解決しない。
先生と対峙したからと言って解決するわけでもないが。
結局のところ、自分が柴田と向き合っていないのが悪い。
素直に問い質せばいいのだ。過去に先生となにがあったのか、最近おかしいのはそのせいで、自分のことをもう好きではないのかと。
自棄のようになりながら扉を開ける。
誰もいないことに安堵し、痛む胃を庇うように腰を折りながら席まで歩いた。
椅子に座るが身体がだるくて腕を上げるのも嫌になる。
サボり癖がついてきたのだろうか。それとも、きちんと食事を摂らないからか。
数分そのままの状態でぼんやりとし、こんなことではいけないと首を左右に振った。

「よし」

独り言を呟いて今日も頑張ると決めた。
作業を始めて一時間ほど経った頃、有馬に連絡を取ろうと思い鞄の中にあるはずの携帯を探した。
だが、どんなに探しても見つからない。
もしかして教室だろうか。そういえば、生徒会室に来る前に母親からのメールを見た。
あのとき鞄ではなく机の中にでも入れたのだろう。

「あー。面倒だな…」

忘れたのは自分のミスだが、有馬がここにいれば問題なかったのに、と責任転換をする。
愚痴を言っても本人には届かないので、素直に教室に戻った。
外は桜色の夕日と藍色が丁度半分にせめぎ合っていて、とても綺麗だった。
廊下に立ってしばらく空を眺め、ぼんやりしていると完全に夕日が消えてしまうので慌てて教室に入る。
机の中から携帯を取り出し、生徒会室に戻りながら有馬に電話をかけた。

「有馬か。確認したいことがあるんだが――」

階段を上りもう少しで生徒会室というところで、人影を見た。
その人はすぐに空き教室に入ったので定かではないが、あの教室は生徒会が倉庫のように使っている場所だ。
入っていったのは柴田だと思う。
有馬と通話中なのも忘れて、ゆっくりとそちらに近付いた。
こんな部屋になんの用があるのだろう。もしかして、自分を迎えに来てくれたのだろうか。
淡い期待は室内から聞こえた声にぶち壊された。
藤崎先生の声がする。柴田だけではなかった。藤崎先生も一緒だったのだ。
金縛りにあったように足が竦んだ。
何を話しているかまではわからないが、時折先生の笑い声が聞こえる。
なぜ、どうして。
僕には会ってくれないのに先生とはこんな場所で。
頭が真っ白になったが、身体が勝手に歩き出した。
この場にいてはだめだ。いけないことを聞きそうな気がする。見てはいけないものを見そうな気がする。
瞬時に判断したのだと思う。
ふらふらとする足で生徒会室に雪崩れこむように入った。

「…だめだ。薬を…」

胃を両手で力いっぱい捻られているような激痛が走り、這うようにして鞄に手を伸ばした。
持っていた携帯を放り投げる。有馬に電話したのもすっかり忘れていた。
机上に置いた鞄を漁っていると、急激な吐き気に襲われた。
嘔吐きながら片手で口を押え、トイレまでは間に合いそうもないので、給湯室のシンクに吐いた。
胃の中は空っぽなので、吐き出すものなどないのに吐き気が止まらない。
急にどうしたのだろうかと焦燥する。
不安になると頭までぐるぐると回り出し、シンクのへりに手をかけてずるずるとしゃがみ込んだ。
大丈夫だ。少し休めば吐き気も治まるし、嘔吐くらい大したことじゃない。
深呼吸をしながら自分に言い聞かせる。
医療の知識はないが、これくらいで騒げない。小さな子どもではないのだし。
なのに自分の意思とは関係なく、眩暈が加速していく。
目を閉じても開けても拭えない不快感で、また吐き気が襲う悪循環だ。

「高杉!」

聞えた声に薄らと瞳を開けた。けれど、世界が回っているのでその人物もぐにゃりと歪む。

「大丈夫ですか!」

慌ててこちらに駆け寄り、身体を支えるようにして背中を擦っている。
有馬も焦ることがあるらしい。こんな僕のために。

「大丈夫。大丈夫だ…」

「大丈夫じゃありません。様子がおかしと思って来てみれば…。だから言ったのに…。立てますか?」

「…ああ。立てる」

シンクを掴んだ手に力をかけて立ち上がろうとするが、なかなかうまくいかない。
少しでも動くとまた吐きたくなる。
まいった。これは久しぶりにまいった。

「いいです。そのままでいて下さい。少し我慢して下さいね」

言うが早いか、有馬は脇と膝裏に手を差し込んで僕を横抱きにし、応接用のソファに下ろしてくれた。

「少し待っていて下さい」

ビニール袋を握らせられ、吐きたくなったら無理をしないで吐き出せと言われた。
なんだか最近、色んな人に迷惑をかけてばかりだ。
自分はこんなにどうしようもない人間だっただろうか。
何故こんな風になってしまったんだっけ。
考えようとするが、その思考までもがぐにゃりと捻じれる。
皆に迷惑を振り撒くくらいなら舌を噛み切って死ぬ。捻じれた思考の端で思う。
実際は絶対に無理だけれど。そんな根性があったら、こんな面倒くさい性格ができあがるわけがない。

「高杉、どうですか」

前髪を払われ、冷たいタオルを乗せられた。
気持ちいい。ぐるぐる、ぐるぐる、世界は回っているが、額が冷えれば頭も冷えそうだ。

「…大、丈夫…」

「さっきからそれしか言ってませんね。高杉の大丈夫は本当に当てにならない。保健室へ行きましょう。確認したら天野先生はまだいらっしゃるようですし」

「大丈夫…」

「大丈夫じゃないって言ってるでしょ。いいから口閉じて。持ち上げますよ」

ふわりとした浮遊感に、また嘔吐きがぶり返す。

「あ、歩けるぞ…」

「歩いていたら日が暮れます。もうほとんど生徒は残ってませんから平気ですよ」

半分開いていた生徒会室の扉を足で強引に開け、有馬は力強く歩き出した。
そのとき、数室離れた場所から藤崎先生と柴田が出てきた。
なんというタイミングだ。
これ以上は勘弁してくれ。神に願うように脱力する。

「…茜?どうした」

柴田がこちらに近付いてきた。ただでさえ目が回っている。これ以上自分を苦しめないでほしい。

「どうしたんですか」

問われた有馬はすっと表情を消して、柴田の背後にいる藤崎先生に視線を移した。

「柴田こそ、どうしたんですか。こんな場所で」

その問いに、彼らしくない歯切れの悪さで曖昧な返事をしている。
もういい。なんとなく察するから、とりあえず何も考えずにいたい。

「とりあえず、保健室運ぶなら俺がやります」

こちらに手を伸ばされたが、もう身体を揺らしたくないし、有馬の制服をぎゅっと握った。

「…結構です。話している暇はありません。後で電話するのであなたは大人しく部屋に帰って下さい」

「でも」

「帰って下さい。高杉が限界です。それでは」

有馬は苛立った様子で大股で歩き出した。
藤崎先生の横を通り過ぎる瞬間、冷酷に睨みながら盛大に舌打ちをしていた。
なんだか物事を掘り下げて考えられないが、とりあえず有馬に迷惑をかけていると理解した。
おえっ、おえっ、となりそうなのを必死に堪え、有馬のブレザーを握った。

「も、申し訳ない…」

精一杯の謝罪だ。有馬相手にと思うと反発心も生まれるが。
なのに彼はちらりとこちらを見て深々と溜息を吐いた。
逆の立場ならそうしたくなるかもしれないので、嫌な奴とは思わない。
無言のまま保健室に辿り着き、有馬が行儀悪くもつま先でノックをすると天野先生が扉を開けてくれた。

「これはまた、顔色が最悪だね」

「でしょう。それなのにこの馬鹿、大丈夫、大丈夫ってそればっかりで…」

馬鹿とはなんだ。馬鹿とは。
いつもなら喰ってかかるがそんな気力は明後日だ。
天野先生の指示でベッドの一つに運ばれた。
有馬にブレザーやネクタイを手際よくはぎ取られ、無駄のない手さばきに、こいつ普段ろくなことしていないなと呆れた。

「どんな症状かな」

「嘔吐していました。数日前から具合も悪そうでしたし…。薬を飲んでいると言っていました」

「高杉君なんの薬?」

「…胃薬です。ここ数日胃が痛かったので…」

「なるほど。うーん。病院に行こうか。ちゃんと検査してもらった方がいい。食中毒の場合もあるからね。他の生徒で嘔吐を訴えている子はいないけど、万が一学園の衛生状況が原因なら放っておけないし。高杉君、ご家族と連絡とれるかな?」

家族、という言葉にぎくりと肩を揺らした。
母とは連絡がとれるが、今から学園の近くまで来るとなれば父に嘘をつかなければいけない。
事実を話せば放っておけと母が非難される。
もしかしたら暫く実家で休むようにと学校から指示が出るかもしれないし、けれども父は家の敷居を跨がせてくれないだろう。
どうしよう。考えている内にも天野先生は不思議そうに覗き込んでくる。

「高杉君?」

「あ、いえ。病院は平気です。家族にも言わなくて大丈夫ですから…」

「平気じゃないよ。万が一を考えると他の生徒にも関係することだし」

「…じゃあ僕一人で行ってきますから」

「そんな。無理でしょ。どうしてもと言うなら僕が付き添うから」

押し問答をしていると有馬がまた溜息を吐いた。

「先生、たぶんストレスとか疲労からくる胃痛だと思いますよ。高杉はここ最近学食に行ってませんから学内の食中毒は考えにくいと思います」

「学食に行ってないなら違うかもしれないけど…。僕の判断で曖昧にできないからなあ。食中毒ではないにしろ、検査は必要だと思うし、そんなに辛いなら病院からちゃんと薬もらった方がいいよ」

天野先生の言葉に有馬は言い返さず、少し電話してくると告げて保健室から出て行く。

「…高杉君、無理はだめ。一番だめ。最後にはこうやって自分がぼろぼろになるんだから。君は勉強も生徒会も頑張っているけど、もう少し自分に甘くならなきゃ」

無理をしているつもりなんてない。
皆同じ言葉を言うが、自分はまだまだ頑張れると思うからしているのだ。
そのメーターがぶっ壊れているのかもしれないが。
天野先生の言う通り、最後には周りに余計な迷惑をかけるので、もう少し身体は大切にしなければいけないだろうが。

「高杉、行きましょう」

戻って来た有馬に上半身を起こされた。

「…どこに」

「病院です。須藤に話しをつけておきました。先生、私が付き添いますので」

「そんな。生徒だけで行かせられないよ」

「でもまだ仕事が残っているのでは?」

「デスクワークより生徒だよ!」

天野先生はぶりぶりと怒りながら白衣をばさっと脱ぎ捨てた。
たかが胃痛なのに、大袈裟だ。
有馬だけならまだしも、天野先生にも付き添わせるなんて。
謹んで断ろうと思ったが、言葉を話す元気もしゅるしゅると萎んでしまった。
もう少しだから頑張れと言う天野先生の声を頼りに、有馬に肩を借りながら靴を履き替え、タクシーに乗った。
須藤の系列病院に行き、先に須藤が話しをつけていたのだろう。いの一番に診察してもらう。
問診や胃カメラを飲み、食中毒に関しては検便をするという。
すべての検査を終え、担当医は検便の結果が出ないことには決めつけられないが、食中毒になりそうな物も食べていないので、ストレス性の胃炎かもしれないと言われた。
ああ、そうですか。
そんな感想しかない。ストレスと言われても、何個かは思い浮かぶが、身体が不調を訴えるほど辛かっただろうか。
藍と柴田との妙な三角関係の頃の方が余程やつれていた。
ただ単に、不摂生な生活の上でできあがってしまったのだと思う。
痛み止めを受け取り、帰りもタクシーで帰る。
点滴をされて、数十分眠ったので身体が楽になった。

天野先生に何度も頭を下げ、寮の前で別れた。
後は有馬だ。

「有馬…」

謝罪と礼を言おうと思ったが、有馬に片手で制された。

「わかってます。高杉の言いたいことは。でもいい加減聞き飽きたので結構です。とりあえず高杉の部屋に行きましょう」

病院に行くときと同じように肩を借りて歩いた。
部屋に入ると身体の力が抜ける。
我が家。ではないが、それに等しく安心する。

「さ、荷物を纏めて下さい」

「なんのだ?」

「暫く私の部屋で高杉を預かります。天野先生から言われました。安静にしなければいけないから一緒に生活して助けてやれと」

「は?いや、大丈夫だ」

勝手に余計なことを…。散々世話になったが、これは頷けない。
有馬と二人で生活なんて冗談ではない。ますます胃が痛くなるし、穴が空くかもしれない。

「言い合いをするのも疲れます。大人しく言うことを聞いて下さい」

また溜息まじりに言われ、それならば椎名の方が余程ましだと思った。
有馬だってこれ以上は面倒をみたくないだろう。

「誰かといろと言うのなら、他の奴に頼む。お前にこれ以上迷惑をかけたくない」

「柴田に頼みますか?」

ふいに聞かれ、ぐっと喉を詰まらせた。
こんなとき、一番に頼っていたのは柴田だったのに、今は選択肢の中に彼はいない。

「頼まないんでしょう。ほら、早くまとめて下さい。私に迷惑をかけたくないなら言う通りにして下さい」

「…わかった…」

徐々に有馬の眉間の皺が深くなっている。
これ以上駄々を捏ねれば本当にキレられる。
大き目の鞄に必要最低限のものを詰めていく。
足りない物があっても、部屋と部屋は近いのだし、医者からも二、三日の安静でいいと言われている。
土日を有馬の部屋で過ごしたら帰ろうと思う。
鞄のチャックをしめると、それを有馬にひったくられ、肩に捕まれと言われた。
有馬が親切で怖い。
本当に怖い。
雪どころの話しじゃない。槍が降る。槍ならまだいい。地球外生命体が降ってくるかもしれない。


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