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自堕落に過ごすのが夏休み最大の醍醐味だ。
ラジオ体操もないし、プールもないし、冷房の下で寝たり、起きたり、また寝たり。夜になると目が冴えて無駄に夜更かしをして昼夜逆転の生活に転げ落ちる。
誉められたことではないが最高に幸せだ。
今日も天気予報では真夏日と言っていた。熱中症に十分ご注意くださいと可愛らしい笑顔を見せるお天気お姉さんに心の中で返事をし、まあ、自分には関係ないけどー、とまただらける。
机上に積まれた課題にちらりと視線をやり、意図的に逸らす。
見てはだめだ。精神衛生上よくない。逃げてもいつかはやらなければいけない。転校早々指導室に呼び出されたら速攻で親から電話がかかってくる。
最悪戻って来いと言われるかもしれない。それは一番避けたい。
ぼんやりと天井を見つめ、はっとして上半身を起こした。
放り投げていた携帯をたぐり寄せ神谷先輩に電話をする。勉強を教えてほしいと言えば二つ返事で了承してもらった。
頭の出来は悪くないので、特に困っている教科や問題もない。でもこの口実は学生らしく、自然な流れて、更に心証も良くしてくれる。
我ながらせこいと思うが、最後に神谷先輩に会って数日が経ったので、そろそろチャージしないと干からびる頃合いだ。
言われた部屋番号を確認し扉をノックした。
すぐさま顔を出した神谷先輩は今日も一段と美しい。
「どうぞ。あまり綺麗じゃないけど」
「お邪魔します」
二年の部屋も二人部屋のはずだが同室者の姿はない。
「うわー、二年の部屋初めて入った。一年のと全然ちゃうんや」
説明されてはいたが実際見ると広さが倍以上ある。二年は共有スペースのリビングの他に自室がそれぞれ確保されている。
「そうだね、三年になったらもっと良くなるよ」
「ええなー」
「でも君も一人部屋でしょ?」
「せやな。あぶれたから」
「一年から一人部屋なんて羨ましい。あの狭い空間に二人はきついものがあるよ…」
苦笑したところを見ると大変な想いもしたのだろうなと思う。
わからなくはない。赤の他人と狭っ苦しい部屋に二人きりなんて息が詰まる。
いくら仲がいい友人同士でも一人きりの時間は絶対に必要だ。一緒にいればいただけ嫌な部分が目に入るし、生活習慣の違いは大きな苛立ちを連れてくる。
ラグの上に座りぐるりと室内を見渡した。余計な物がないシンプルな部屋で、色もシックなものに揃えられている。共有スペースなので好き勝手にできないだろうが、簡素でらしいといえばらしい部屋だ。
「何か飲む?」
「じゃあ冷たい物で」
「了解」
簡易キッチンで仕度する後姿を見ながら脚が長いなあとか、光りに反射した髪が綺麗だなあとか、好き勝手観察した。
先輩は両手にグラスを持ち、テーブルの上に置きながらアイスティーですと言った。
「ストレートでいいかな」
「ええよ」
男でアイスティーというのも珍しい選択だと思い、キッチンを見れば紅茶の缶がずらりと並んでいた。また新しい発見。彼は紅茶が好きらしい。
「紅茶、好きなんやね」
「そうだね、お茶なら割となんでも好きだけど。凝り出すとだめなんだよ僕」
「あー、凝り性なんや」
「そう。止まらなくなる」
彼は長所でもあり、短所でもあると言った。悪くはないと思うのだけど、凝ったせいで苦労をしたことがあるのかもしれない。
「じゃあ学生らしく真面目にお勉強始めますか」
神谷先輩が茶化すように笑ったので、よろしくお願いしますと頭を下げた。
英語の課題と教科書をテーブルの上に乗せると、彼は安堵したように息を吐いた。
「英語でよかった。理系は教えられないから」
英語が特別苦手というわけではない。平均以上はとれていると思う。
しかし浅倉に教えられるなら神谷先輩に教えてもらう方が充実感が段違いだ。
「ここがわからん」
「ああ、これはね…」
先輩は一生懸命身振り手振りも交えて教えてくれる。透き通った声は嫌味なくすんなり頭に入り、発音も綺麗だし、やはり幼い頃から学んでいる人は違うと感じた。
真面目に説明を聞くふりをしながら、ペンを握る細く長い指にばかり視線が縫い付けられ勉強どころではなかったけれど。
「飲み込み早いね。僕も教えていて楽だよ。本当は頭いいんじゃない?」
「そんなことないよ」
「本当かなあ」
欺瞞の目を向けられ明後日の方向に視線を逸らす。
一時間ほど勤勉な学生のふりをしたところでちょっと休憩しようかと彼が言い、金色の細い髪が揺れた。
ラグからソファに移動し、長い脚を組む様は映画の中のワンシーンのようだった。
同性だとわかっている。身体は平坦で肩幅もがっしりしているし喉仏もあって声も低い。なのに白く滑らかな陶器のような肌や、悪戯をするように動く指から目が離せない。
美しいものは人を狂わせる。初めて実感した。
ああ、やばいな、と思う。いつか憧憬で終わらない予感がして、けれどうるさい心臓を止める術がわからなかった。
ぼんやりと彼を見続けているとふと視線が絡まり、不埒な思考を読まれそうで慌てて瞳を逸らした。
「折角の夏休みなのに帰らないんだ」
「遠いしなあ」
「新幹線ですぐだよ。あっちに置いてきた可愛い子はいないの?」
「おったら転校してない」
「君すごくモテそうなのにね」
揶揄するようにふわりと笑う彼に吸い込まれるように口を開いた。
「…先輩は?つきあってる人いる?」
他愛ない世間話程度の質問なのに答えを知りたいような知りたくないような、身体が緊張に包まれた。
「…残念ながらそういう子はいないな」
「そ、そっか。先輩こそモテそうやのに」
「男子校ですから」
「じゃあ好きな人は?」
その問いにはなにも答えず薄く笑っただけだった。
そりゃそうだ、いくら男子校といえ彼の容姿は目を引くし、街で声を掛けられたり紹介されることも多いだろう。好きな子の一人や二人いて当然。
なのにがっくりと肩を落としたくなる。スタートラインはマイナスからで、しかも自分は男で、勝ち目なんてないではないか。
勝ち目ってなんだよ。自分につっこみ、短期間で急激に惹かれていることに気付いた。
「…失恋したばかりなんだ」
先輩はぽつりと呟くように言い、顔を上げると眉を寄せて苦笑した。
「…失恋…」
「そう。あっけなかった」
「先輩を振る子なんておるん?」
「告白もしてないからなあ。好きな人に恋人ができたんだ」
「…そ、っか。辛いな」
「目の前が真っ暗になったよ」
はは、と乾いた笑いを浮かべているが無理をしているのだとわかる。
痛々しくて見てられないし、思い切り慰めてあげたくなる。
「でも君のおかげでだいぶ立ち直ったかな」
「俺のおかげ?」
「誰かと話してるだけで気分転換になるし、なんというか、関西弁って心を軽くしない?」
「そうかあ?」
「うん。君が誘ってくれなかったら夏休み中一人でじめじめしてたかも」
「お役に立てて光栄です」
いつも無理をしているのではないかと思っていた。気が乗らないのに断れずに自分につきあっているだけでは。しつこいとか鬱陶しいとか言われるのでは。そんな風に考えたが、彼の顔が見たくて連絡するのを止められなかった。
ああ、やばいどころの話しじゃない。まるで麻薬だ。
いつ堕ちたのかはわからない。自分でも知らないうちに脳が味を覚えてしまい、簡単に離せなくなる。
そんな、まさかと思うけれど、振り返ると彼と他の子は全然違った。
無駄な足掻きは非効率だ。白を黒だと言い張っても現実は変わらない。認めた方が楽になる。その先には苦しみしかないだろうけれど。
「君はこっちにきて女の子と知り合った?」
「いや、全然」
「そっか。勿体無いね。皆よく合コン行ってるし、参加すればいい子に出逢えるよ」
「もう出逢った」
はっきり言うと、先輩はきょとんと首を微かに傾げた。
「好きな子ができたの?」
「うん。目の前の人」
視線を逸らさず言うと、先輩はぽかんと口を開け一瞬固まったあとふっと笑った。
「わかりにくい冗談だ」
「冗談やないよ」
にっこり笑ってやると、一度こちらを射るように睥睨した後そう、と呟いた。
「それだけ?」
「それだけって?」
「もっとこう、男同士だろとか、気持ち悪いとかないん?」
「好意を持ってもらえるのは男でも女でも嬉しいよ」
模範的な解答に壁を作られたように感じた。
その言葉は嘘ではないだろう。でもこれ以上こちらに踏み込まないでね、困るから。そんな風に聞こえる。
「ただし、この見た目が好きなんて言ったなら軽蔑するよ」
冷ややかな瞳に見下ろされ背筋がぞくりとした。
柔和な表情しか知らなかった。こんな顔もできるのだ。まだまだ知らない彼がいる。そう思うとわくわくするし、全てを暴いてみたいと思う。
「見た目も武器やと思うけど」
「否定はしないけど僕は受け入れられない」
「見た目だけやないって言ったら真剣に考えてくれる?」
「さあ、考えるもなにも君のことよく知らないから」
「ほな俺のこと知って。すぐに振らんで。ただの後輩でええから」
縋るような言葉はさぞ滑稽だろう。でもここで食い下がらないと軽蔑された上おさらばだ。心の片隅にも置いてもらえない、考える余地なしと判断されてしまう。
男は無理だと言われたら引くしかないが、無意識なのか簡単に遠ざけられる言葉を言わない。ということは多少希望を持ってもいいだろうか。
「…知った上で振られるのは構わないってこと?」
「せや」
「随分メンタル強いね」
「図々しいだけ」
「変わってるなあ」
くすくすと笑われ、緊張した空気が解れたことにほっとした。
「君がどれくらい本気で言ってるかわからないけど、まあ、折角知り合えたんだし普通のお友達でいいなら」
「全然ええよ!」
ぱっと顔を明るくすると、今度はお腹を抱えて笑われた。
「君さあ、すごく大人っぽいのに案外…」
くくく、と苦しそうにする姿を見て恥ずかしくなる。
先輩はいつだって簡単に関係を切れるのだから、そりゃ必死にもなる。
ごほん、とわざとらしい咳払いをし、そんなに笑わないでほしいと呟いた。
「ああ、ごめん。馬鹿にしてるんじゃなくて可愛いなと思っただけ」
「か、可愛い…?」
初めて言われた言葉に呆然とする。彼からすれば幼子をあやすような感覚なのだろう。
もっと男らしく、頼り甲斐があると思ってほしいのだけど、先輩の前ではそんな自分がぱらぱら崩れていく。
違うんです、いつもはこんな風じゃないんですと言い訳したところで恥の上塗りなのでやめた。
「さて、勉強の続きする?」
「いや、もうええ。この状況で勉強とか無理やし、ちょっと落ち込ませて…」
「落ち込むことあった?」
「だって可愛いって男としてあかんやつやん」
「そんなことないよ。老若男女問わず可愛いっていい意味でしょ」
「じゃあ先輩にも可愛いって言うわ」
「いや、僕はちょっと…」
「ほら!カッコイーの方が嬉しいやろ!」
「そりゃそうだ。でも君は可愛いよ」
「また言った!」
揶揄するように挑発的な瞳で口角を上げる姿を見て、この人を堕とすには相当の苦労と辛抱が必要だと知った。
今のままではお断り要件しか揃ってない。男で、年下で、恋愛対象外の可愛い発言。
頭が痛くなって眉間に寄った皺を摘んだ。
「ああ、でも君の顔はカッコイーと思うよ」
「え、ほんま?」
さきほどの苦しみもなんのその。たった一言で天国に昇れるから自分は安い男だ。
「ほんま。一般的にイケメンの部類に入るんじゃないかな?僕は審美眼に自信はないけど、モデルとかできそうだよね」
「…先輩こそな」
一般論と強調され再び落ち込む。タイプではないけど相手を褒めたいときの使う手段だろう。
そもそも男なのだからタイプに当てはまるなど思っていないが、同性でも好きな顔、嫌いな顔があるだろう。
彼は見た目で好きなど認めないというけれど、自分なら見た目だけでもいいから彼に好きになってほしい。
「…先輩って案外意地悪や」
好きだと言ってから彼の態度が少しだけ棘を持った気がする。
隠していた部分をゆっくりと見せられているのか、わざと嫌いになるように仕向けているのか。
「失望したかな?」
「しない」
「中身を知るとどんどん失望していくよ。この見た目のイメージのままでいたらあっという間に嫌いになる」
悔しくて彼を睨む形になった。
きっと過去そういう想いをしたのかもしれない。でも今までの人と自分を一緒にしないでほしい。
確かに見た目から入った。そこは認める。先輩が平凡な顔だったら興味を持たなかっただろう。でも一緒にご飯を食べたり、他愛ない話しをして徐々に堕ちていったのだ。
こうあってほしいなんて押し付けたりしないし、彼のままで十分だ。
「俺は嫌いになんてならん」
「どこまでもつか楽しみだよ」
片方の口角を上げて笑った顔は美しい悪魔のように背徳的で、だめだとわかっているのに手を伸ばしたくなる。
なんとなく、この人には勝てないのだろうなと思う。もしかしたらずっとこうやってあっさりとあしらわれて終わるのかも。
それでも追いかけるのをやめられないとわかっている。どうしようもない人間だ。
ムキになったらますます彼の思う壺なのに。わかっているのに。思考と心の乖離に泣きたくなる。
「すごい顔してるけど、今の心境は?」
「悔しい!」
「はは、素直でますます可愛いね」
もう頑張るゲージが下がりまくってゼロになりそうだ。でも諦めるとか、もうやめるという選択肢はない。
「…これ以上ここにいたらめっちゃいじめられそうやからもう帰る」
「いじめるなんて人聞き悪いな」
教科書を纏め、とぼとぼと扉まで歩いた。レバーに手を掛けるととんとん、と肩を叩かれ満身創痍で振り返る。
「またいつでも来てね」
たった一言で頑張るゲージが満タンになる。
大きく頷き、彼の頬に手を伸ばした。折った指で一度撫で、またと言って部屋を出た。
自室に戻りベッドにダイブする。
あー、と意味もない言葉を発し、今日も先輩は綺麗だったなあと馬鹿みたいに考える。
ただのいい先輩ではなく、少し意地悪で人を揶揄するのが好きなのが本物の神谷先輩なのだと思う。それを見せてくれたということは多少懐に入れたと解釈してもいいだろうか。
自分勝手な独りよがりでもいい。己を励ましてあげないと心がぼっきり折れてしまうかもしれない。
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