2




先輩の部屋の前、ノックしようと上げた手を下ろすを何度も繰り返した。
授業が終わり、自室で気合を入れてからここに来たのだが最後の一歩が踏み出せない。
昨日のうちに謝罪内容は頭に叩き込んだ。
絶対彼を責めず、すべて自分が悪いと平身低頭。残された道はこれしかない。
その上で許すか許さないかのジャッジを下してもらい、それに黙って従う。
温厚な神谷先輩もさすがに今回ばかりは許してくれないかも。
口汚く罵られたとしても甘んじて受け入れよう。
よし、と口の中で小さく呟いたと同時、後ろから肩を叩かれた。

「わー!」

「うるさ」

木内先輩がぱたんと耳に手を当てた。
どくどく鳴る心臓を服の上から抑え込む。

「翔に縋りにきたか?」

この人のにたりとした笑い方がとても苦手だ。高圧的で自信家なところが腹立つ。
何も答えられずにいると、ちょっと来いと手招きされた。
ついて行くべきか、今すぐ神谷先輩のところへ行くか逡巡し、前者を選んだ。
着いた先は談話室で、木内先輩はパックの牛乳を購入するとこちらに放り投げた。

「なんで牛乳?」

「カルシウム足りてなさそうだから」

揶揄する口調にまた心の針が怒りに傾きそうになる。
挑発に乗ったら思う壺と言い聞かせ、パックにストローをさした。じゅうじゅう吸い込むと同時に怒りも呑み込む。

「お前と喧嘩したって翔から聞いたぞ。臍曲げる翔のご機嫌を窺うのがまあ大変で」

すいませんと言うのも違う気がするし、開き直るのも違う。
答えに窮すると、木内先輩がふっと笑った気配があった。

「秀吉らしくねえな。簡単に俺や翔の挑発に乗って怒るなんて」

「それは……。神谷先輩には悪いことしたと思ってます」

「別にいいんじゃねえの。翔はお前の本音引き出すために意地になってたみたいだし、望みが叶ったわけじゃん。手痛い指摘も翔には必要だろうし」

「でもあんな風に傷つけるつもりはなかったし」

「馬鹿だなあ。翔はあれくらいで傷つく奴じゃない。俺はお前の言ったことは間違ってないと思う。ただ伝え方が悪かった。相当焦ったんだろ?俺が邪魔で」

そうですとは言えず黙り込んだ。

「友だち以上のことはないからな。俺にも選ぶ権利はあるわけよ」

「神谷先輩は選択肢に入らないってことですか」

「入るわけねえだろ。俺はもっと素直で扱い易い子が好きなの。あんな癖の強い男を打算抜きで好きっていうのお前くらいだ」

そんなことない。
神谷先輩は外見も完璧で、中身も完璧だ。
優しく、穏やかで、紳士的。知識も豊富で頭の回転も速い。柔軟な思考と度量の大きさもあって、人間としても尊敬している。

「あ、納得できませんって顔。恋は盲目っていうもんな。とにかく、お前が想像する関係じゃないからな。そういう責め方はするなよ」

小さくはい、と返事をすると彼はぽんぽんとこちらの肩を叩いて立ち上がった。
談話室の扉に手をかけた木内先輩を振り返る。

「あの、ゆうきは素直やないし扱いづらいけど遊びやないですよね」

木内先輩は突然の問いに虚を突かれた顔をしたあと、口を僅かに笑みの形にした。

「遊びならもっと楽な相手にする」

答えになってない答えだが、これは彼なりに本気だという意思表明なのだろうか。

「部屋の鍵あけといてやる。暫くは戻らないようにするからちゃんと決着つけろよ。翔は自分の部屋で腐ってると思うからそっち行ってみろ」

「……はい」

暫く談話室でぼんやりしたあと、身体の端々に散らばった勇気をかき集めた。
神谷先輩には偉そうに指摘したけれど自分のほうが余程出来損ないの人間だ。
近しい人に嫌われるのが怖い。孤独は常に足元にあって、どこに行ってもついてきた。
地元にいるとそれに耐えられなくなりそうで、家族から逃げるように東京に来た。
なのに寂しがりやの自分は手を伸ばせば黙って胸に抱かれてくれる人を欲し、神谷先輩に恋をした。
どこにいっても、どこに逃げても誰かに求められたいと渇望する。
俺がいないと息ができないと言ってくれる人がほしくなる。
誰かに必要とされれば自分がこの世に生きる意味になると思ったから。
なのに平気で怒らせて、自分自身を崖っぷちに追いやった。
もういらないと言われるのは怖いけど、逃げてばかりじゃ成長できない。
黙って一発殴られるくらいの覚悟で臨まなければ。
よし、と口の中で呟き、再び先輩の部屋まで移動した。
控えめにノックをしてみたが対応してもらえず、お邪魔しますと呟いて扉を開けた。
リビングに人の姿はないので、木内先輩の言う通り個人部屋にいるのだろう。
二つある個人部屋のうちの一つをノックする。返事はない。眠っているのだろうか。
窺うように僅かに扉を開け中を覗き込むと、ベッドの上で蓑虫のように布団に包まる先輩がいた。
枕には白に近い金色の髪が流れ、胎児のように丸まっている。

「……ご飯ならまだ行かないよ」

憮然とした声が布団の隙間から聞こえた。
取り繕ってない神谷先輩を見るのは珍しく、こんな状況なのに嬉しくなる。
ベッド脇にすとんと腰を下ろし、ぎゅっと拳を作る。

「……仁?」

起き上がった先輩の姿は全体的に乱雑だった。
しわくちゃのTシャツにスウェット。髪はぼさぼさで鳥の巣のように絡まっている。なのにどうして、こうも美しく見えるのだろう。

「秀吉、くん……」

「勝手に入ってごめん。木内先輩に入れてもらった」

先輩は慌てて頭に手を伸ばし、くしゃくしゃの髪の毛に指を通そうとしたが、細いが故に絡まったら簡単には解けず終いには諦めてしまったようだ。

「……言ってくれればちゃんと着替えてたのに」

「ええよ。いつも通りで。謝りに来ただけやから」

くすりと笑うと先輩は気恥ずかしそうに布団を頭から被った。

「昨日言い過ぎた。ほんまにごめん。完璧に俺の八つ当たりで全部俺が悪い」

「……でも本心なんでしょ?」

「本心やないとは言わんけど言い方が悪かった」

先輩は瞳を伏せベッドの一点を注視した。

「許してなんて言わん。嫌いになったって言われる覚悟で来たし。ただちゃんと謝らんとと思って……」

もっと色々考えたのに口から出るのは稚拙な言い訳ばかりだ。
どうしてこの人を前にするとすべて上手くいかないのだろう。悪い方向ばかりに舵をとってる気がする。
子どもっぽくて、女々しくて、情けない。
好きになってと彼の周りをちょろちょろするくせに、こんなところばかり見せていたらそりゃあ好かれないはずだ。
諦めが心の大半を占め、自嘲気味な笑みが浮かぶ。
どうしようもなく自分を器用にさせてくれない彼が好きだった。
感情を揺さぶられる不快感は怖ろしく逃げたくなる。なのに恐れるせいで存在感が大きくなり、すさまじい吸引力で引き寄せられた。
それももう終わりなのかなあと思うととても寂しい。

「……昨日、すごくむかついた。好き勝手言いやがってとか、僕はそんな人間じゃないとか、何がわかるんだとか」

うん、と小さく相槌を打った。

「だけど時間が経って冷静になると秀吉くんの言う通りかもって」

「そんな──」

挟もうとした口を手で制された。

「求める恋しかしたことなくて、誰かに求められたのは秀吉くんが初めてだった。それを心地よく感じてたんだと思う。だからって好かれれば誰でもいいわけじゃない。僕はね、君に距離を置かれてから秀吉くんのことばかり考えてる」

アイスブルーの瞳が迷いなくこちらを見つめる。金縛りにあったようにどこも動かせない。

「キス一つで関係を終わらせたくないな。それなら年上としてなんともない顔をしたほうがいいかな。以前の関係に戻れるようにそれとなく誘導しよう。そう思ってた」

先輩は苦笑しながら全然だめだったけど、と続けた。

「僕に言ったよね。自分のことをもっと知ってほしいって。僕も知りたかった。いい人だけじゃない秀吉くんを。だけどそれって君が言う通り自分勝手だよね。君の気持ちを考えたら軽率に言うべきじゃなかった。だから秀吉くんがもう関わりたくないって言うなら──」

「ごめん!」

咄嗟に彼を布団ごと抱きしめた。
次の言葉を探して頭の中をかき回したけど、あれも、これも適切ではない気がして言葉の断片が散らばっていく。

「木内先輩に嫉妬していらんことばっか言った。ほんまにごめん」

布団をぎゅうっと掴むと、先輩が隙間から手を伸ばし頭をぽんぽんと撫でた。
無性に泣きたくなって奥歯を食い縛る。ここで泣いたらますます子ども認定されてしまう。

「……自分勝手なのは俺のほう。片想いがしんどくて放り投げたかったけど、どんなに遠ざけてもやっぱ先輩が好き。だから、先輩が許してくれるなら仲直りしたいし、可能性があるならもう少しがんばってもええ?」

「いいよ」

「……可能性があるだけで幸せ。だめなとこばっか見せたのに嫌わないでいてくれてありがとう」

「だめなところを見せてるのはお互い様だよ。それに格好つけてる君じゃなくてそのままの秀吉くんがもっとみたい」

「……うん」

そうは言っても、自分はこれからも格好つけた姿ばかりを見せようとするだろう。
見栄を張って、余裕を演出して、少しでも彼と対等になれる男になりたくて背伸びをする。見透かされそうな気はするが、素の自分など見せられたものじゃない。

「俺のこと恋愛対象として意識してもらえるようにがんばるから」

「僕今まで恋人がいたこともないしそっち方面は経験ないんだよ?少しは手加減してほしいな」

「付け入る隙があるうちに付け入らんと」

「それ本人に言っていいのかなあ……」

ふっと笑うと先輩も柔らかく笑ってくれた。
最近は緊張感のある笑顔ばかり彼にさせていた。
こんな風に笑ってくれるなら恋が成就しなくとも報われる気がする。

「先輩案外押しに弱いやろ」

「う……。誰にでもってわけじゃないよ」

「ほな俺は特別だ」

「……まあ、そうかな」

もう一度ぎゅうっと身体を抱き締め、沸き上がる幸福を噛み締めた。

「キスしてええ?」

「だめだよ」

「先輩キスくらいなんともないって言ってた」

「それは君の罪悪感を軽くするために言ったのであって……」

「だめ?」

「だ、だめってわけでもないけど……」

押しに弱ぁ。少し心配になるレベルだ。
本当に俺にだけ?他の奴が言ったらちゃんと断るよね?
疑問は一旦端に置き、彼の顔を固定し頬に口付けた。

「口にされると思った?」

「さっきまではしおらしくてかわいかったのにすぐ調子乗る!」

「いつもと違う先輩がかわいくて。ぼさぼさの髪もよれよれの格好も、そうやって声荒げるのも」

「そんなのがかわいいわけないだろ」

ぷいと顔を背けてしまったので、一度頭を撫でてからバスルームへ向かった。
洗面台に置かれているクッションブラシを取り、先輩の部屋へ戻る。
頭から被っていた布団を取り払い、後ろから髪をとかしてやった。
絡まる頭髪を傷つけぬよう、毛先から解すように滑らせる。
先輩は上機嫌に笑い、誰かに髪を触られると気持ちいいとうっとり瞼を落とした。

「先輩は案外ずぼらやもんな。折角綺麗な髪なのに」

「これが?」

先輩は自身の髪の一部を引っ張り、視界に映しながら首を傾げた。

「碧い目も白くて薄い肌も全部綺麗」

「金髪碧眼フェチとか?」

「そんなわけないやろ。先輩がどんな見た目でも俺はそれが一番好きってこと」

「秀吉くんは好意を伝えるときだけ言葉の出し惜しみしないね」

「手を抜かないで好きをやったら少しは絆されてくれるんやないかって。それに先輩にはどうせ器用にできんし。もう素直に思ったことするしかない」

最後の絡まりを解すといつも通りつるんと滑るような髪に戻った。
完成した作品に満足し、毛束を掴んで頷いた。
先輩を覗き込み、できたよと笑う。彼も微笑みありがとうと言ってくれた。

「……秀吉くんが言ったこと、合ってると思うんだ。好きになってもらえないと安心して相手の手を握れない。だから君の作戦は僕にはすごく有効だよ」

「ほんま?俺はいくらでも好き好き言えるから安心したら飛び込んできて」

「秀吉くんは僕をだめな人間にしそう」

「だめなくらいが丁度ええよ」

長めの前髪を払ってやる。目元が僅かに赤くなっているのを見逃さなかった。
以前より少しだけこちらを意識してくれているのが肌感覚で伝わる。
ただの先輩、後輩だった頃にはなかった甘苦しい空気。
恋に変わる一歩手前の曖昧で弱々しい熱量。
お互い距離を測りながらのじゃれ合いも、さっきまで崖っぷちにいた自分にとっては最高の空間だ。


[ 12/13 ]

[*prev] [next#]



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -