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「先輩、これおいしいですよ」
「一口ちょうだい」
俺の身長に合わせて身体を屈める先輩の口にクレープを差し出した。
暗い顔などしたくなくて、強引に笑う。笑っていればそのうち気分まで明るく楽しくなってくれる。
「甘い」
苦しそうに顔を歪めるので、甘いものは嫌いかと尋ねた。
「嫌いってわけじゃないけど。ちょっと甘すぎない?」
「…そうですか?」
「景吾は甘いのも辛いのも食べられるんだ。好き嫌いがないっていいことだね」
それが唯一の自慢なので、えっへんと胸を張った。
口に入れられるものなら、ほぼなんでも食べられる。
苦手な物はあっても胃袋に入るならば飲み込める。
「親にいい教育されたんだね」
彼は頭をくしゃりと撫で、柔らかな表情で言葉を続けた。
「今日はいっぱい食べな。悲しい想いさせたからおごるよ!」
「いいんですか?」
「いいよ。景吾が食べてるの見るの好きだし」
その一言で暗澹とした気持ちも何処へやら。
こうなったら死ぬほど食べてやる。意地になったように闘志を燃やした。
あっちだこっちだと食べ物屋ばかりをまわった。
本当によく食べると感心したように言われ、苦しくてももっと食べてやると思う。
食べれば幸せでいられる。なにも考えなくていいし、空腹になるとマイナス思考に傾いてしまう。そんな自分を必死に追い払うために食べ続けた。
そんな時間がずっと続けば、曖昧な関係でも納得できたかもしれない。
でももうすぐ学園祭が終わってしまう。
距離が離れれば急に怖ろしくなりそうだ。出した答えに迷ってしまいそうだ。
だから一緒にいたい。本末転倒だとしても。
「先輩、ちょっとごめん」
ポケットから携帯を取り出し、ゆうきにかけた。ゆうきと一緒ならきっと自分を保てる。
何コールめかでつながった。デートの邪魔はしたくなかったが。
「俺だけど」
『どうした?』
「今日ゆうき部屋に帰ってくる?」
『今の段階ではわかんねえなあ』
「そっか…」
『何かあったのか?』
「ううん、何でもないよ。確認しただけ。じゃあデートの邪魔してごめんね」
携帯をポケットに戻して溜息を吐いた。
「ゆうき君?」
「はい」
「今日帰って来ないの?」
「わからないみたいです」
「仁と仲良くやってるようだしね。暇なら俺の部屋に泊まりなよ。明日は休みだし」
「…いいんですか?」
「いいよ。暇だと死んじゃうだろ?景吾は」
大袈裟な言葉に頬を膨らませてそんなことはないと反抗した。
先輩は笑うばかりだが、笑ってくれて安心した。
気楽な、すぐに割れる薄いクッキーのような関係。それを壊さない限り彼は離れていかない。
「はは、ふぐみたい」
「ふぐ!」
「冗談。機嫌直して。行こう?」
「その前に。持ち帰りできるもの買います」
「まだ食べるの?」
「食べますよ。死ぬまで食べますから」
恨みの篭った瞳で見ると、彼はまいったと言わんばかりに手をホールドアップさせた。
「好きなだけどうぞ」
その言葉に満足して、両手で抱えても足りないくらいに買い込んだ。
持てない分は先輩に押し付け、これくらいの我儘は許されると言い聞かせる。
気楽に、重苦しくならないように、ふっと息を吹きかければ飛んでしまう羽根くらいの感覚でつきあおう。
そうでなければ自分が壊れてしまう。
先輩の部屋に着くと、一旦荷物をテーブルに置いた。腕を引かれ、そのまま寝室へ入れられる。
まさかと思ったときには遅い。ベットへ放り投げられ逃げる暇なく先輩が覆い被さってきた。
「ちょ、ちょっと待った!」
「何?」
「俺、そんな気分じゃ…」
先輩は首を傾げた。
「何で?景吾俺のこと好きでしょ?」
「…そう、だけど…」
「じゃあしようよ」
言葉は決してきついものではないけれど、その瞳には否と言わせない強さがある。
世間話でもして楽しく時を過ごしたかった。ただそれだけなのに。
こんなことをするために来たんじゃない。
でも嫌だと言ったら。自分には何の価値もなくなってしまう。
首元に顔を埋める先輩の頭をぎゅっと抱いて瞳を閉じた。
今日も苦痛に泣き叫ぶかもしれない。
でも好きだから我慢できる。これくらいなんともないと笑っていられる。
きっと彼はそんな自分の心は理解できない。
情事の後の倦怠感でだらしなくベッドに身体を投げ出した。
身体はだるいし、きしきしと嫌な音をたてる。痛みは引かないし、まだ快感よりも苦痛ばかりの作業だった。
それでも先輩が満足したならそれでいい。
以前と同じように彼は自分に背中を向けてベッドに座っている。
自分がしたいと誘ったくせに、とんでもない後悔をしているようにも見える。
肌が離れると、心まで一気に離れていく。この瞬間がとても嫌いだ。
好き勝手に身体を貪るくせに、それをなかったことにしようと目を逸らされる。
先輩に触れたい。こちらを向いて笑ってほしい。
背中へ手を伸ばして、触れる瞬間引っ込めた。
求めれば求めるほどに彼は遠くへ行ってしまう。
身体を差し出せば、先輩は俺に構ってくれるかもしれない。
でもこんな風に安売りして、いいことなんて一つもない。
最後に傷つくのは自分だけだ。
正論を唱える隣で、もう一人の自分が叫ぶ。なら嫌いになれる方法を教えてよ、と。
「景吾…」
先輩は背を向けたままだ。
「何?」
「…悪いけど、やっぱり帰ってもらえるかな」
がっくりときたが我儘は言えない。一人になって、殻に閉じこもりたいときもあるだろう。
「…うん。わかりました」
あちらこちらに散らばる自分の制服を拾い、急いで着替えた。
重苦しい空気が流れる空間にいたくない。彼は全身で自分を否定しているようで。
「じゃあ帰ります」
扉を開ける前に振り返って言った。
彼は項垂れるように下を向いていて、表情がわからない。声を掛けても顔を上げてくれない。
何の返事もなく、諦めてゆっくりと部屋から出た。
がっくりと肩を落としながら自室へ戻った。
ゆうきの姿はない。木内先輩と仲良くしているのだと安心する。
ブレザーを放り投げ、ベッドに大の字になった。無意味に天井を眺めぼんやりとする。
傍にいると自分で決めた。誰に強制されたわけでもないので、どんな結果でも自分の責任だ。
なのにへこたれそうになる。
些細な小石に躓いて、蹲りたくなる。出発地点はよく見えていて、けれど先は霧の中でまったく見えない。
出発地点に戻ろう。困難ばかりが続く道をあえて選ぶ必要はないだろう。
もっと他に楽にゴールまで辿り着ける道があるはずだし、その方が自分にお似合いだと思う。
引き返したいのに引き返せない。
堂々巡りの思考で、自分自身にも嫌気がさしてきた。
天井にあった視線を下げ、瞼を落とす。
眠ろう。眠れば一時現実から逃避できる。
茜色の室内で、暖房も布団も被らずに闇を呼ぶようにじっと耐えた。
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