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時計に視線をやり、そろそろ寝ようと手を引いた。
先輩は大学とバイトで疲れているのに自分が一緒じゃないと絶対ベッドに入らない。
折角景吾がいるのにと、うつらうつらしながら無理をする。
「景吾」
布団の中に納まった先輩の胸をぽんぽん叩いてやると上目遣いで問われた。
「なんですか」
「他に聞きたいこととか、言いたいことはない?嫌なこととか、我慢してることとか」
ある。
今日こそ聞こうと思っていたことが。
でもこの流れで聞いていいものだろうか。
学は性的なことでもオープンに話し合うべきと言ったが、それが必ずしも正解とは限らない。
だけど、自分たちは恐らく言葉にしないとだめなタイプだ。
お互いの思考が真逆すぎて確認し合わないと拗れて捻じれて解けなくなる。ついさっき身に染みたばかりだ。
多少の勇気と恥じで乗り越えられるなら直球勝負で聞いた方がいいのだろう。
意を決して頷きながらあります、と言った。
「でもすごく言いにくいというか…」
「なに?なんでも言って」
「…じゃあ、聞きますけど……なんでキスしかしないんですか?」
先輩は数回瞬きをしながらぽかんと口を開けた。
「えっと、なんでセックスしないかってこと?」
「はい。前は手加減なかったのになあって」
正直に言うと、先輩は両手で顔を覆うようにしてあー、と呻いた。
「過去の自分ぶっ飛ばしたい」
「嫌だったって意味じゃないですよ?」
確かに辛いなと思うことは沢山あった。
元々受け入れるようにできた身体じゃないし、酷いときは出血し、気持ちいいより苦しいの方が大きかった。
だから特別セックスが好きなわけじゃない。でも隣にいれば自然と触れたくなって手が伸びてしまう。
先輩からそんな素振りがないのにこちらが勝手に触れるのもいかがなものかと思うし、景吾はそんなことしなくていいと突っ撥ねられるのもショックだった。
一人だけ盛り上がるほど虚しいことはない。
「…景吾は俺としたいと思う?」
「そりゃあ、恋人になったし、普通にするんだろうなあって思ってました」
「義務感とかじゃなく?」
「そんな、義務とかじゃなくて、俺だって男だし…」
尻すぼみになりながら言うと、先輩は泣きそうに眉を寄せた。
「俺に触りたいって思う?」
「お、思います」
「…そっか」
何を言わせるのかと羞恥が襲うが、彼が心底安心したように笑うものだから文句は呑み込んだ。
「景吾はセックスにあまりいい感情がないだろうなと思って。ほら、最後にしたときなんて最悪だったし」
「ああ、あれは本当にきつかった」
「…本当にすいませんでした」
「めちゃくちゃ痛かったです。熱まで出たし」
「はい」
「痛すぎて吐きそうになりましたもん」
「…はい」
「そんな抱かれ方されてもまだ先輩としたいと思うくらいには先輩が好きなんですよ」
意地悪を言ってごめんねと苦笑しながら先輩の髪を撫でた。
「あ、俺が抱く方でもいいですけど」
「そ、れは……まだ心の準備が…」
「俺には問答無用で突っ込んだくせに?」
「う…ごめんなさい」
「あは、嘘だよ。俺は抱かれる方で構わないんです。そんなのどっちでもいい」
「本当に?」
「本当に。些細な問題じゃないですか」
「そうかなー…」
「好きな人と触れ合うのが大事なのであって、後は別に気になりません」
「そういうところが好き」
「どういうところですか」
「大らかというか、大雑把というか…」
それは褒めているのか、貶しているのか。
長所と短所は紙一重だが、彼が好ましく思うならまあ良しとしよう。
「だから俺は嫌な感情はないです。なんでしないのって悩むのに疲れちゃったし」
「悩んだの?」
「そりゃあもう。なりふり構わず同室に相談するくらいには」
「はは、そっか。ごめんね。その方がいいだろうなって勝手に思ってた。俺がしてもいいって聞いたら景吾嫌でもいいですよって言いそうだし」
その通りすぎて反論できない。
「先輩は俺になんでも聞いてって言うけど、先輩も言わないとだめですよ。俺たち思考回路が交わらな過ぎて明後日の方向で結論付けちゃう」
「そうだね。じゃあ一つ言っていい?」
「なんでもどうぞ」
「その先輩、っていうのやめない?」
意外な言葉に瞠目し、気まずさからすすす、と視線を逸らした。
「あ、俺の名前知らないとかじゃないよね」
「知ってますけど、でもなあ…」
「恋人にせんぱーい、って呼ばれる悲しさをわかってほしい」
そんなに嫌なものだろうか。
呼び方に拘る意味はわからないが、彼がそう言うなら善処しよう。
「呼んでみて」
「はあ…。翼…さん?」
「呼び捨てでいいって」
「翼さん!」
「強情ー」
「年上を呼び捨てにするの気が引ける」
「恋人でも?」
「恋人でも」
「…じゃあそれは後々の課題でいいよ」
片頬を包まれその上から手を添えた。
目を眇めた彼から甘く、重苦しい愛情を感じる。
子供のような我儘を言ったり、甘えてみたり、普段はどちらが年上かわかったものじゃないのに、欲を孕んだ途端男の顔になるのはずるいと思う。
心臓が誰かにきつく握られたように勝手にあちこち飛び跳ねる。
ゆっくりと顔が近付いてきたので瞳を閉じた。
上唇と下唇を交互に甘噛みされ、僅かに口を開けると想像以上に熱い舌が歯列をなぞった。
探るようにゆっくり、丁寧に硬口蓋をなぞられ、くすぐったいような、焦れるような波紋に眉を寄せた。
「…くるしい、です」
「…もう少しだけ」
逃げる舌を咎めるようにきゅっと絡み、さすがに熱すぎないかと首を捻る。
上がる息を堪えるように離れていく彼の顔を包んだ。
「…ねえ、先輩熱くないですか?」
「名前」
「つ、翼さん」
「熱くないと思うけど…」
「いや、絶対熱いよ」
彼をベッドに押し倒し額に手を添え、首筋をなぞり、やはり熱いと確信した。
「絶対熱あるよこれ!」
「別にどこもだるくないよ?」
「じゃあ熱が篭ってるのかも。とにかく冷やした方がいいと思います。保冷剤とかあります?」
「んー…ない」
「じゃあ買ってきます。昨日ソファで寝たから寒かったのかな?冷房切らないで寝たんじゃないですか?」
小言を言いながら彼の上からどこうとしたが腕を掴まれ阻まれた。
「何処にも行かないでよ」
「でも」
「大丈夫だよ。俺すごく元気」
だから、とTシャツの中に侵入する腕をぎりっと捻った。
「なにやってんですか」
「え、だって景吾さっき…」
「こんな状態じゃだめですよ。今日は大人しく寝てください。きっと疲れもたまってるんです」
「えー!俺元気なのに!」
「気力で持たせてるだけかも。一晩だけでもしっかり眠って。昨日ちゃんと眠れなかったんでしょ?」
「そんなの全然平気だよ。据え膳はやだー」
「俺が我慢した苦しみを味わうといいですよ」
ふん、と鼻で嗤うと先輩はみるみるうちに顔を歪め、情けない顔でそんなーと喚いた。
「手を握って寝ましょうね」
隣に横臥しながら顔の前できゅっと握ってやると、観念したように小さく頷いた。
「じゃあもうキスもしちゃだめ?」
「いいですけど、我慢するのもっときつくなると思いますよ」
「…正論。じゃあもう大人しくする…」
「いい子です」
ふわりと笑うと先輩も心底安堵したように瞳を閉じて微笑んだ。
腕の中で包んであげるようにすると、あれだけ文句を言ったくせに程無くして寝息が聞こえた。
相当疲れていたらしい。
明日も熱があるようならドラッグストアに駆け込んで、それから消化にいいものを作って…。
ああ、こんなことなら真面目に家の手伝いをするべきだった。
滅多に風邪をひかないものだから、看病の方法も曖昧にしかわからない。
誰かの役に立ちたいなんて殊勝な心掛けはもっていないが、愛おしい人相手なら話しは別だ。自分が苦しむより辛いし、助けになるならなんでもする。
また少し伸び始めた髪を指で梳きながら、熱を吸い取れるわけもないのに額に口付けた。
結局微熱が続いたので、土曜日も泊まり日曜の夕方漸く荷物の整理をした。
風邪というほどの症状もなく、けれど微熱を放っておくと後で痛い目をみるのでしっかり休めと宥めるのが大変だった。
どこも痛くない、辛くない、だからいいでしょうと懇願される度ぐらつく心を押し込んでだめですと言うのがどんなに苦しかったか。
意地悪で言ってるわけではないのだと言うと、わかってるよと答えながらもどこか拗ねた様子で、面倒臭いと心の端で思ったのは秘密にしておこう。
だいたい、この前まで触れようとせずこちらをもやもやさせたくせに、お許しが出た途端に獣になるのは流石に極端すぎるだろう。
一秒も待てないと涎を垂らす様を見ると可哀想だけど、躾は最初が肝心とも聞く。
サンダルを履き、後ろでどよんと肩を落とす彼を振り返った。
「じゃあ俺が帰ってもちゃんと休んでくださいね」
「はーい…」
「そんな顔しないでください」
毎度毎度、部屋を去る瞬間に今生の別れのように落ち込むものだから胸が痛む。
「だって景吾がいなくなった部屋は寂しいんだよ」
「もう少しで夏休みだからそれまで頑張ってください」
「…うん」
よし、と頭を撫でてやり、あ、と思い出したように言った。
「俺暫く試験勉強でこっち来れませんから」
「え……マジで…」
「マジです」
大学より高校の方が夏休みが始まるのが早い分、考査は目前だ。
担任である浅倉にもう少し頑張りましょうと説教を喰らうのは飽きたし、自分もそろそろ将来を考えなければいけない段階に入っていると理解もしている。
幸運にも友人も同室者も勉強ができるので、補習になって貴重な夏休みを邪魔されぬよう友人の手を借りて一時だけでも真面目に取り組もうと思う。
「別れ際に言うなんて酷い。最初に言ってくれればなにがなんでも…」
「そう言うと思ったから今言ったんです」
「景吾ー…」
体重すべてを預けるように圧し掛かられ、仕様がない人だなと苦笑した。
「補習になったら夏休み潰れちゃうんです。それでもいいですか?」
「やだ」
「じゃあ我慢しましょう。そうだ、夏休み海行こうって前話してましたよね。海行って、温泉入るんでしたっけ?」
「そう」
「じゃあそれを楽しみにお互い頑張りましょう。でもしっかり食べて休むことも忘れずに」
「……うん」
離れる気配がないので、ぽんと背中を叩くと渋々身体を離した。
俯きがちに溜め息を吐く彼の胸倉を掴んで引き寄せ、触れるだけのキスをした。
「温泉楽しみですね」
「…うん。頑張るからもう一回」
瞼を落とした彼の頬を包みもう一度口付けた。
玄関先でいつまでもだらだらすると彼の駄々が酷くなる。
じゃあねと軽く頬をぺちぺち叩き扉を潜る。
待てを言い渡された犬のように、くうーんと耳と尻尾を垂らしているのかと思うと胸が痛むが、これもお互いのためと言い聞かせた。
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