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週末になると先輩から泊まりにおいでと誘われ、嬉々として梶本先輩のアパートを訪ねるのが習慣になった。
一度だけ、毎週末訪ねるのが鬱陶しくないかと聞くと、どうしてそんなこと言うのと悲しそうに眉を寄せたので、それからは積極的に行ってもいいか聞くようにしている。その度に弾む声色で勿論だよと返事をされるので恐らく本心から喜んでいるのだろうとは思う。
だけど夜ベッドに一緒に入るといつも同じ。
キスをして、おやすみと囁かれ健全に眠りにつく。
すやっと寝息を立てる先輩の隣でぎりぎりと歯を食い縛り、欲を抑え込むのにはほとほと疲れた。
どうしてだろう。
足りない頭で一生懸命考えてもこれだという答えに辿り着けず、もういっそのこと先輩の思考回路すべてを観察したい気分になる。
小さく溜め息を吐くとソファに座っていた学がくすりと笑った。

「溜め息なんて珍しい」

背凭れに片腕を伸ばし鷹揚に構える姿を見て、すすす、とそちらに近付いた。
学の膝を枕にするようにごろりと転がり下から見上げる。

「悩み事?」

「うーん……あのさ、恋人とお泊りして男が手を出さない理由ってなんだと思う?」

突然の問いかけに学は一瞬目を見張り、僅かに首を傾けた。

「そうだなあ、童貞とか?」

「違う」

「相手が処女だから気を遣ってるとか」

「それも違う」

「じゃあEDだ」

「はずれ」

「うーん…じゃあ段階を踏んでるんじゃない?」

「段階ねえ…」

もういくとこまでいった仲で段階もなにもない。
自分たちの付き合いは逆再生のようなものだ。最初にやることやって、すったもんだで気持ちを確かめ合い清いお付き合い。
今更何を躊躇う必要があるのかわからない。ああ、ますます頭が混乱する。

「まあ、俺はそんな経験ないし一般論しか言えないけど」

「じゃあ学は同じような状況になったら彼女の隣で普通に眠れると思う?」

「どうかな。その時の気持ち次第だけど、多分普通に眠れる」

「じゃあ眠れない俺は性欲強いってこと!?」

身体を反転させ俯せのような格好になりながら学の顔を覗き込んだ。

「景吾の話しだったの?」

「…いや、一般論として…」

「まあ、高校生だしそれが普通じゃない?」

「普通…大学生はそんなことないのかなあ」

「高校生も大学生も違いはないと思うけど」

ということはだ。梶本先輩の性欲が急激に枯れたというわけではなく、原因は自分にあるということだ。
元々先輩はガツガツしたタイプだった。
こちらが身体が辛いからと断ろうものならじゃあ別な子にお願いするよ、とあっさり手を放される。それを阻止したくて無理をしてでも彼の誘いに乗っていた。
それが今ではキスして手を繋いでおやすみなんておかしくないか。
他で満たしていたらどうしようと一瞬疑い、いやいや、そんな風に疑うのはよくないと自分を戒める。
じゃあどうしてという疑問だけが残り、答えが見えない靄の中でもがく。
あー、と言いながら髪の毛をぐしゃぐしゃにしぼんやりすると、学がせっせと整えてくれた。

「なんだかよくわからないけど、話し合うのが一番いいと思うよ」

「性的なことを?」

「勿論。二人に関することは二人できちんと意志の疎通を図らないと」

「そういうもの?」

「一人でもやもや考えるより建設的だと思うけど」

「うーん、そうか…そうだよね…」

だけど聞きずらいではないか。なんで抱いてくれないんですか?なんて。
みっともない気がするし、答えによっては暫く落ち込んでしまいそうだ。
うーん、うーん、と独り言を唱える度、学はよしよしと頭を撫でてくれた。

「景吾は直球勝負してこそでしょ。フォークとかスライダーとか下手なことしないで」

「だな。ない頭で考えても仕方がないし」

「そうそう」

「なんで否定しないの!」

ばしっと学の太腿を叩いたが、学は笑うだけで最後まで否定してくれなかった。


週末、バイトで少し遅くなるから合鍵使って入ってねというラインを確認し、お邪魔しますと小さく囁きながら扉を開けた。
部屋の中で干された洗濯物、シンクの中で水に浸かっている食器、テーブルの上に乱雑に置かれた難しそうな本、ソファに引っ掻けられた毛布。
珍しいなと目をぱちぱちさせる。
訪ねた日はいつも掃除が行き届いており、どこもかしこもピカピカだった。
勝手に触っていいものか思案し、どうせ一人で待っていても暇だからと結論付けて食器を洗い、本を端っこに整えた。
自分の部屋は片付けられないくせに、相手のためだと思うと不思議と掃除も苦ではない。
次は洗濯物を畳もうと小ぶりのピンチハンガーに手を伸ばした瞬間、身体がぴたりと動きを止めた。
女性物の下着がある。
ざわっと胸が嫌な音を立て、小さくかぶりを振った。
以前も女性物のピアスが転がっていたが、先輩のお姉さんのものだった。だから早とちりして勝手に怒ったり、悲しんだりするのはよくない。
よくないと頭ではわかっている。
彼は自分を大事にしてくれる。嬉しい、楽しいと笑ってくれるし、何度も好きだと伝えてくれる。合鍵を使ってと言うくらいだからやましいことがない証拠。
ぽきっと折れそうな心を奮い立たせ、大丈夫と口の中で呟く。
でも、もう一つのパターンを考えるとすべての辻褄が合う気もする。
彼氏の他に彼女がいて、精神の安定は自分、身体の安定は彼女と使い分けていたらどうしよう。
平日は絶対に先輩の部屋を訪ねないし、訪ねるとしても必ず了承をとる。
パターン化された行動なら鉢合わせしないよう予定を整えることは可能だ。
黒いレースの下着を見上げ、指先がすっと冷たくなる。
疑うのはよくないと何度も自分に言い聞かせた。
信じると何度も先輩に言った。
なのに小石に躓くたびこの様だ。
これはどういうことだと醜く詰め寄るなんてできない。信じるつもりはありませんと自分から露呈するようなものだ。
そんなの先輩に申し訳ないし、自分自身も許せない。
なのにどうして心の端っこは言うことを聞いてくれないのだろう。
じくじくと痛み、焦燥と恐怖ばかりを掻き集める。
嫌だな。どんな理由であれ、来るのをわかって女性物の下着を干すデリカシーのなさよりも、小さいことで一々ぐらつく自分の覚悟のなさが嫌だ。
ソファに座り膝を抱えた。額をつけて身体を前後に揺する。
帰ってきたら極力明るい声でそれとなく聞こう。
答えを聞いたらなーんだ、と思える程度の理由なのだ。考えて損した、と笑えるような。きっとそうだ。
その時、鍵が開錠する音と共に先輩のただいま、という声が響いた。
ぱっと顔を上げ、両手を頬に添え笑みの形にして固定させた。

「おかえりなさい」

「ただいまー。疲れたー」

先輩は鞄を放り投げると隣に着き、ぎゅうっと身体を抱き締めた。

「お疲れ様です」

ぽんぽんと背中を叩くとんー、とくぐもった声を出しながらすりっと額を首筋に摺り寄せた。

「少し充電させて」

甘えた声色に心がぐらっと傾く。
自分はこの声に弱い。酷い扱いをされていた時から変わらない。
彼が甘えるなら好きなだけ、なんでもしてあげようと思ってしまう。
だからお前は梶本みたいな男にいいように扱われるんだ。ゆうきに言われた言葉まで一緒に思い出してしまった。

「…あれ、片付けてくれたの?」

「…あー、はい、少しだけ…」

「ありがとう。くたくただから助かる」

「いえ……今日は寝坊でもしたんですか?」

「そうなんだよ。片付ける時間なくて。ごめんね」

「俺は全然…」

なんで寝坊したんですかとか、昨晩何してたんですかとか、軽い調子で聞けるタイミングなのに言葉が喉でつっかえる。
じわりと嫌な汗を掻き、砂嵐のような頭でもういいやと思った。
わざわざ自分から嫌な現実をみようとしなくても目を逸らせばそれで済む話しだ。
小さな疑問に蓋をして、楽しく笑い合っていたい。
一緒にいられる時間は多くはないし、貴重な時間を言い合いや喧嘩で終わらせたくない。
そうだ、そうだ。そうしよう。それが一番いいはずだ。
齟齬があっても長い期間で徐々に擦り合わせればいい。最初からぴったり歩幅を合わせるのは無理なのだから。

「ご飯食べた?」

「遅くなるって聞いたので来る前に食べました」

「そっか。お腹空いたらお菓子食べてね」

「はい」

「俺も飯食べてきたから先にシャワー入るね」

「…はい」

軽いキスをして立ち上がった先輩の背中を見送る。
これでよかったんだよな。間違ってないよな。変じゃなかったよな。
心臓を鷲掴みにするようにシャツをぎゅうっと握り込む。
洗濯物を見ないよう意図的に顔を俯かせ頭を抱えた。
わからない。誰かと付き合うのは先輩が初めてだし、なのに付き合うまでが普通じゃなかった自分たちは定石通りに当てはまらないのではないか。
ゆうきは木内先輩との交際内容を話さないし、楓や秀吉や蓮も同じ。
他の友人の彼女の惚気は散々聞くが、喧嘩の内容や仲直りの方法は聞いたことがない。
馬鹿な自分に真面目に恋愛の相談をするような奴はおらず、こういう場面に出くわすと対処の仕方がわからない。
国語や数学を教えるならお付き合いの方法も教えてくれよと恨めしい気持ちになる。
答えは人の数だけあるものを誰かの経験でなぞろうとする方が間違っているのだろうが、右も左もわからなさすぎて立ち止まるしかできない。
ぽんと肩を叩かれ反射的に顔を上げた。

「どうしたの?体調悪い?」

「あ、いえ!俺も風呂入ってきます!」

逃げるようにバスルームに駆け込み、自分のお泊りセットが入った棚を眺めた。
自分と先輩、それ以外の人の気配はない。
透明な歯ブラシや、青リンゴ色のワックスの缶、景吾は果物の色が似合うと先輩が言いながら買った橙色のタオル。
パステルピンクの小物や、化粧水や乳液はないし、バスルームに化粧落としもない。
あの下着以外女性の影がちらつくことはなく、ならやはり何か理由があるのだと言い聞かせる。
ならどんな理由?と恐れず聞けばいいのに。
使わなさ過ぎて錆びた脳味噌はキャパオーバーで今にも爆発しそうだ。
どうしてセックスしないんですか、どうして女性の下着があるんですか、どうして、どうして――。
聞きたいことが鎖のように繋がって、どれもこれも女々しいと自己嫌悪に浸る。
学に言われたではないか。直球勝負しかできないだろって。
自分の唯一の長所だったような気もするし、だけど今となっては短所に思える。
頭からシャワーをかぶり俯いた髪先から滴る雫を眺めた。
いつまでもここに隠れるわけにはいかないんだ。
顔を上げ、脱衣所の鏡に向かって口角を上げた。この位置でキープと言い聞かせてからリビングに顔を出すと先輩がにこりと微笑み手招きした。
素直に従い、昔の関係に戻ったような錯覚に陥る。なんでを呑み込み差し出された彼の手を握るだけの日々。
薄氷の上を歩き、言葉を発した瞬間ぱりんと氷が割れて真っ逆さまに落ちるのを恐れていた。
自分たちは名前のつく関係に収まったが、中身は大して変わっていないと知る。

「ねえ景吾、何か俺に言いたいことある?」

ぎくりと胸がざわつき、慌てて首を左右に振った。

「ないです」

食い気味に言ってしまい、これではそうですと言っているようなものだと気付く。
先輩は溜め息を吐き、髪に指を差し込むようにした。

「ごめんね」

「…あ、謝られることは別に…」

「あれ、見たでしょ」

先輩が指差した方は見なかったが、そこに何があるかはわかる。
答えに迷い下唇を噛み締めた。

「浮気はしてないよ。って言ってもこの状況じゃ普通浮気したと思うよね」

「…俺は、別に…」

「俺の言い訳聞いてくれる?」

きゅっと両手を握られ俯きがちな顔を覗き込まれた。
聞きたくないと我儘を言いたいような、聞いてさっぱりしたいような。
頼りなく視線を泳がせ、先輩が話したいなら、と委ねる形をとってしまった。

「ありがとう。昨日…大学の友達が二人泊まったんだ。そいつらは恋人同士で、飲んでたら終電なくなったから泊めてって。二人をベッドに寝かせて俺はソファで寝て、朝起きたら彼女の方がお礼に洗濯しといたって言うから適当に流したんだけど、まさか自分の下着も洗ってるとは思わなかった」

握られた手に力が込められ、先輩が真っ直ぐに視線を寄越した。
真摯な表情には嘘が交じっているのか判断できない。

「女の子を泊めること悩んだけど、彼氏も一緒だし、追い出すのも可哀想かなって思って。でもやっぱり泊めない方がよかった」

「なんで。俺は気にしません」

「でも景吾ちょっとは疑ったんじゃない?」

図星を突かれ否定できずにいると、責めてるわけじゃないと言われた。

「疑うのが当たり前というか、疑ってほしいというか…景吾は昔から何も言わないで大丈夫って笑うから。俺がそうさせてきたせいだけど、もうそんな想いしてほしくないんだ。俺の言ってることわかる?」

小さく頷くと、先輩がほっとしたように息を吐いた。

「もう無理しないでよ。聞きたいことはすぐ聞いていいんだ。何度でも気持ちを確かめていいし、怒りたかったら怒って」

「…はい。すいませんでした」

「景吾は謝らなくていいんだよ。俺が悪いんだから」

「俺も悪いです。ごたごたしたくないから知らんふりしようとした」

「…そっか。色々無理させてきたししょうがないけど、できるだけ本音を教えてよ」

「…はい」

子供っぽい自分が情けなくてがっくりとこうべを垂らす。
自分で思ったじゃないか。理由を聞けばなーんだ、と思えるはずと。
どうしてそちらを信じなかったのだろう。
疑う癖ばかりついて、そんな自分が嫌になる。
先輩はしょうがないよと言うけれど、そんなことない。
恋愛は人を醜くさせるらしい。こんなの自分らしくないと四肢をじたばたさせたくなって、だけど最終的にはそんな滑稽な部分も認めなければいけない。

「彼氏の方に電話しようか?」

「え、なんでですか」

「裏付けをとるため?」

「い、いいです!本当にそこまで疑ってません」

「そう?でも、同じ状況になったら今度は泊めない」

「いや、しょうがない時は泊めてあげても…」

「いーや泊めない。だいたい、時間を把握しないで飲んでる方が悪いんだから俺が罪悪感を感じる必要はなかったんだ」

「そうかもしれないけど…」

「それで俺たちがぎくしゃくするくらいなら放り出すね」

「鬼すぎません?」

「いいんだよ。ラブホにでも行っとけって言う」

子供のように顔を背ける様子を見てくすりと笑った。

「俺、先輩の優しいとこが好きなんだけどな」

「…じゃあ、泊めてあげる…」

心底嫌そうにしたので今度は声を出して笑った。
本当に子供みたいだ。いや、年齢的に子供なのだけど、恋人の枠に収まってから彼は素直に甘えるようになり、自分にないはずの母性本能のようなものを的確に刺激する。

「いや、でもやっぱり俺が考えなしだった。景吾が寝るベッドに他の女性を入れるべきじゃない」

「考えすぎじゃないですか?」

「そうかな。逆の立場ならめちゃくちゃむかつくなと思って」

「先輩は独占欲強いんですね」

「景吾がなさすぎるんだよ」

そんなことはないけれど、勘違いをしてくれるならそのままにしておこう。面倒な子と思われるよりはましだ。


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