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マンションに戻り、先にシャワーを借りた。
部屋に戻ると入れ替わるように梶本先輩が浴室へ行き、先ほど彼が買ってくれた炭酸飲料を飲み込む。
吐息をつき、ぼんやりとテレビを眺めた。
その内先輩も部屋に戻り、タオルで髪を乱暴に掻き回しながら、眠くなったらベッド使ってねと言われた。
「先輩は?」
「俺はソファでいいよ」
「寒くないですか?」
「大丈夫」
「でも……じゃあ一緒に寝ましょう」
自分でもなに言ってんだと思う。でも身体を重ねた関係だし、今更同じベッドで寝るのが嫌だと思わない。家主は彼なのに自分がベッドを占領するのも気が引ける。
「嫌じゃないの?」
「…なんでですか?」
「…俺、ひどいこといっぱいしたし」
それは手酷く抱いた過去を指しているのだろう。
「だってなにもしないんですよね?」
「勿論なにもしないけど、簡単に信じられると心配になるなあ。俺が悪い男だったらどうするの?」
「先輩が悪い男って知ってるし、その時は思い切り蹴り上げて部屋から追い出します」
「俺の部屋なのに…」
「そうなりたくなかったら大人しく寝てください」
行きますよと手を引いてセミダブルのベッドに転がった。
天井に視線を固定させる彼を、俯せていた顔を少し上げて盗み見る。
「……先輩、今日突然来たのに怒らなかったね」
問うと、彼はこちらに顔を向け、なんで怒るのと聞いた。
「前の先輩だったら怒ったから」
「怒らないよ」
「いや、絶対うざーって顔する」
「え、俺すげー嫌な奴じゃん」
今更気付いたんですかと言いそうになって口を閉じる。あまり虐めるのはよくない。
「…俺がいつでも来てって言ったし、それに嬉しかったんだ。景吾から連絡ないな、週末だから会えると思ったのにな、ってへこんでたから」
だから本当に嬉しかったと微笑む顔を眺めた。
嘘は言っていないと思う。彼が自分を引き留めてもなんの得もない。過去のセフレに構うなら、新しい環境で人間関係を一から築いて綺麗な女性を手中に収めた方がいい。
求められれば自分だって嬉しい。嬉しいと思った分、急ブレーキを踏みたくなる。
人を信じるには己の強さが必要だ。疑うのはほとほと疲れる。
信じたい、怖い、信じよう、でも。
過去の散々な思い出に足を絡め取られる。一歩踏み出す勇気が出ない。そもそも彼が自分を好きな理由もわからないし、今は女性が周りにたくさんいるのだからわざわざ高校生のガキなんて選ばなくていい。
考え始めると負の感情に引っ張られ、居心地がいいからキープしようとか、そういうことかなあ、と結論付ける。
彼は一生懸命本気だと伝えようと頑張っているのに、どうして自分は素直に信じてあげられないのだろう。嫌な奴。
「…ごめんね先輩」
「…どうしたの」
「俺、すげー嫌な奴」
「どうして」
「…先輩の言葉信じてないから」
先輩は一瞬悲しそうに眉を寄せ、そんなの平気だよと笑った。平気なわけないのに。
「ごめん。信じようと思うのに…」
「俺が悪いんだからいいんだよ」
「先輩は悪くないよ…」
「…すぐに信じてもらえるなんて思ってないし、景吾が納得できるまで俺は頑張るだけだよ。だって景吾は俺にそうしてくれたじゃん」
ね?と言われ、そうだったっけと首を捻った。
自分は頑張る方向性を間違え続けた。彼を諦める努力、現実から目を逸らす努力、気持ちを殺す努力。そんなことばかりで、彼に好かれようと一生懸命にならなかった。
どうせ振り向いてもらえないとか、セフレでもいいやとか、投げやりな気持ちは中途半端に自分も彼も傷つけた。
それに比べて今の梶本先輩は好意を隠さず真摯に対面してくれる。
「…頑張っても、俺応えられるかわからないですよ」
「いいよ。それでもいい。少しでも望みがあるのに身を引くなんてカッコイーことできないからさ。俺は景吾の足に縋りながらこっち向いてよーって言ってる最中なんだよ」
くすくすと笑うと彼も笑った。
「俺たち、一緒にいる時間は結構あったけど、お互いのことあんまり知らないよね。だから俺、景吾のことたくさん知りたい」
「…例えば?」
「そうだなあ。誕生日とか、血液型とか、出身地とか、家族構成とか?」
「それ聞いて楽しいですか?」
「楽しいっていうか、単純に知りたいだけ」
自己紹介カードを書いてやろうかと思うような質問内容だ。まるでお見合いを始める前のような。おかしくなって、それくらい自分たちはお互いのことを何も知らないのだと愕然とする。なのに好きだ、嫌いだ騒いでいたのだから笑える。
「…誕生日は八月八日」
「おお、景吾夏男っぽいもんね」
「血液型はO型、両親は国分寺で小さな洋食店を営んでいて、姉が一人」
こんな感じですか?と聞くと、彼は笑って頷いた。
「洋食屋さんかあ。だから景吾は食べるのが好きなんだね」
「はい。一階がお店で二階が居住スペースなんですけど、学校から帰ると真っ先にお店に行って父にご飯作ってもらって。鍵っ子の友だちを連れてったりして。すごいときは十人くらい。だけど一度も文句を言わず、たくさん食えって笑ってくれて…」
昔話をぽつりぽつりと話すたび、彼はうん、うんと嬉しそうに相槌を入れた。
「子どもだったから大人の関係性とか無視して友だち誘ってたけど、友だちの親が頭下げに来たことがあって。いつも申し訳ない、お金を払うって。俺、どうして謝るのかわからなくて」
天井に視線を固定させ、記憶をさかのぼるようにしながら話した。
「親父は腹空かせた子どもに飯を出さない料理人なんていないって。皆で皿洗いしたり、店の掃除したり、お代は労働でもらってるって。それでも相手の親は納得してくれないことも多かったけど、うちはおじいちゃんの代からそうやってるから気にしないで甘えた方がいいって近所の人が言ってくれて…」
今でも地元に残った友人は部活帰りによく店に顔を出すらしい。食べ盛りの高校生相手だと作り甲斐があると親父は笑っていた。さすがに今はもうお代をもらうらしいが、なにを食べても一律五百円と決まっている。
適当な経営方法では利益はあまり望めないが、祖父の背中を見て親父は育ち、自分も親父を見て育ったので、それが悪いと思わない。潰れない程度に、ほどほどに儲かればいいのだ。
「…なんか、景吾のお父さんって感じ。いい人そうだ」
「…どうだろう。今時珍しい江戸っ子気質というか。さっぱりしてるけど、喧嘩っぱやいとこもあるし、人の話し最後まで聞かないし…」
そのせいで誤解され、頭に拳骨を喰らったことが何度もある。
その度、だから最後まで話しを聞けと言っているのに、と母が散々叱っていた。そんなときの父は小さく正座してしょんぼりと頭を垂れていた。母の説教が終わると自分のところに来て、詫びの駄菓子をくれたものだ。懐かしくて自然と口角が上がる。
「…なんか、景吾の家族いいね。温かそうだ」
梶本先輩は今度ご飯食べに行きたいなあと目を細めた。
「……先輩も教えてよ」
「いいよ。誕生日が一月三十日、血液型はO型で、この前身長測ったら高校の頃より一p縮んでてすごくへこんだ」
くすりと笑い、顔を引き締めた。
「……先輩が恋人作らないのはなにか理由があるんですか?」
彼は僅かに目を大きくさせ苦笑した。
「あるような、ないような…」
曖昧な返事に言いたくないのだろうと察した。だけどこれを聞かないと、自分は彼への気持ちに決着がつけられない。
前から聞きたかった。
どうして梶本先輩は人を傷つけるのだろう。自分も傷ついてるくせに。どうして試すようなことをするのだろう。欲しいと言えないくせに。
愛されたいくせに泣きながらその手を振りほどいて、孤独に身を寄せて膝を抱える子どものようだと思っていた。
「…言いたくないのに無理に聞くのはよくないってわかってます。でも梶本先輩の核になる部分はそこじゃないですか?俺、それを聞かないと先輩のことずっと信じられないと思う」
瞳に力を入れて数秒見詰め合い、彼は諦めたように小さく溜め息を吐いた。
「…そうだよね。でもかっこ悪い過去だし、言ったらますます嫌わそうだしなあ」
「大丈夫。十分最低なことされました。これより下はないと思います」
彼の腹辺りをぽんぽんと叩きながらおどけたように言うと、彼は確かにと笑った。笑った後で瞼を半分落とし、なにもない宙を見詰めた。
「…大丈夫です」
彼の方へ横臥し、腹の上で組んでいた彼の手に自分の手を重ねた。
彼はびくりと身体を強張らせ、手を繋いでもいいかと聞いたので、答える代わりにきつく結んでいた彼の両手を解し、彼の右手を自分の左手で握った。
「大丈夫です」
もう一度言うと、彼は観念したように薄く笑い、なにから話せばいいんだろうと途方に暮れたようにした。
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