Stay Gold
「景吾!」
名前を叫ばれ、梶本先輩が慌てた様子でこちらに駆けた。
「…おかえりなさい」
「ただいま。じゃなくて、連絡くれたらすぐに帰ってきたのに。ごめんね、どれくらい待った?寒くない?合鍵使ってくれていいんだよ」
矢継ぎ早に質問を浴びせられ苦笑した。
連絡もなしに尋ねても怒るどころかこちらの心配をしてくれる。本当に変わったんだなあ。瞳を伏せながら思う。
「とりあえず部屋入ろう」
背中をやんわりと押され、促されるまま室内に入る。小さな玄関で靴を脱ぎ、リビングで鞄を放り投げる彼を眺めた。
「どうしたの?こっちおいでよ」
「…お邪魔します」
小さく頭を下げ、ソファの端にしゃがみ込んだ。梶本先輩は冷蔵庫を開けながらお茶とお酒しかないと困ったように呟いたので、お茶でいいですと返す。
受け取ったペットボトルを両手で挟むと、梶本先輩は僅かな隙間を空けて隣に着いた。
「…お腹は減ってない?」
「…はい。途中で適当に食べました」
「そっか。少しならお菓子あるから食べたかったら言ってね」
「はい」
そこで会話が途切れ、彼は沈黙を誤魔化すようにテレビをつけた。
彼はなにも聞かない。なぜ急に来たのか、どうして連絡しなかったのか、なぜ合鍵を使わなかったのか。
聞かれても本音は話せないから、聞かない優しさがありがたかった。
梶本先輩もわかってる。自分がどうしようもなく戸惑っていることを。
好きだと言われ、心臓を他人に委ねたかのように予測不能に高鳴った。だけどまた同じことを繰り返すのかと、理性が感情を抑え込んだ。
自分は両腕を感情と理性に引っ張られ、もう嫌だ、考えたくないと喚いている最中だ。
なのに彼からのラインを見ると自然と足が駅に向かった。
明日は土曜日で大学も休みだ。それなら会いに行っても迷惑に思われないだろうか。
最寄駅からマンションまでの道すがらで我に返った。恋人でもないくせに勝手に訪ねるなんて迷惑に決まってるじゃん。だけど引き返せなかった。
待っている間嫌な想像をしてしまい、何度も連絡しようと思ったけれど、電話の向こうで女性の声がしたら、また落ち込んで立ち直れない。
合鍵を使えなかったのも同じ理由だ。この扉の先に誰かいたらどうしよう。怖くて動けなかった。
傷つけられてもそのたび、これくらいなんてことないと笑ってきた。
少し落ち込んで、涙を流しても、翌日には平気な顔をして傷を放置した。放っておかれた傷は自分でも知らない間に化膿して、ちょっとした障害で自分を立ち止まらせる。
嫌だな。こんな自分はとても嫌だ。だから早く答えを出したい。
「…今日は学校どうだった?」
俯きがちだった顔をぱっとあげた。梶本先輩は我が子に向けるように慈愛が込められた笑顔だ。
「…普通です。ゆうきたちとご飯食べたり、先生に寝るなって怒られたり…」
「そっか。まだ卒業して半年も経ってないのにその制服が懐かしいな」
彼は適当に結んだネクタイを指に挟んで遊ばせるようにさせ、目を細めた。
「景吾と会った日に戻りたい」
「…え」
「戻って、ひどいことしないで優しく大事にしたい」
そんなの無理ですよと笑おうと思ったのに、少し口角が上がっただけで失敗した。
なんだか泣きたい気持ちになる。どんな言葉をくれても彼を疑う自分が憎い。人の裏ばかり覗いたら表が見えなくなってしまうのに。いつからこんな嫌な奴になったのだろう。
「…なんてね。そんなこと考えても無駄なのに」
寂しそうに笑う顔を見るとたまらなくなる。
この人のこの顔が嫌いだった。誰がそんな顔にさせているの。俺ならもっと明るい笑顔にさせられるのに。そんな風に思っていたが、自分も結局彼を傷つける一人だ。
なるべく不自然にならぬよう笑い、先輩はどんな一日でしたかと聞いた。
「うーん。俺も普通。大学行って、ハジメの家でごろごろして…あ、聞いてよ。ハジメひどいんだよ。俺がちょっと痛いとこ突いたら塩入りのコーヒー飲ませてきやがって」
聞いた瞬間ぷはっと吹き出した。
「それ本当ですか?会長がそんなことするなんて」
想像できないと笑うと、梶本先輩は一瞬ぽかんとした後微笑んだ。
「……景吾が笑うの久しぶりに見た気がする」
「…俺、いつも笑ってますよ…」
「そうかな。俺は景吾のこと全然笑わせてあげられなかった。景吾の笑顔好きだったのに、なんで意地悪ばっかりしちゃったんだろな。まあ、水戸のせいだけど」
「人のせいにしちゃだめですよ」
「その通りです。俺が悪かったです」
ふざけて頭を下げる梶本先輩の髪をくしゃりとして、わかればよろしいと上から目線で言った。
彼は顔を上げ、数秒視線を合わせてから唐突に好きだと呟いた。
「ごめん。別に急かしてるわけじゃなくて、こんな風に話せるのが嬉しくて。卒業してもう会えないんだろうなって思ってたから」
「…そんな、大袈裟です」
「うん」
梶本先輩の瞳が優しく弧を描く。愛おしいと言いたげな目に慌てて視線を逸らした。
そわそわと置き場のない感情が揺れる。
彼が自分だけを見てくれたらと何百回も願った。それが現実になった。なのにどうして怖いと思ってしまうのだろう。いつの間にこんなに臆病になったのだろう。
「…あ、ゲームとかする?この間買ってみたんだ」
梶本先輩はこちらの気持ちが揺れると、決まって空気を断ち切ろうとする。
小さな心遣いに感謝し、けれど気を遣わせる自分が情けなくなった。
はい、とコントローラーを渡され画面を見ると、物々しく暗いオープニングが流れた。
「あ、俺これ得意ですよ」
「マジ?よかった。俺全然進まないんだよね。いつも瞬殺されんの」
「先輩がゲームしてるイメージないですもん」
「頭が空っぽになるのが嫌だから、若者らしくゲームをしようと思ったんだけど、俺センスないみたい」
「あー、いますよね。センスない人」
軽く受け流したが、似合わないゲームを買った理由に胸が痛んだ。
頭を空にしたくない。自分もそう思っていた。学校でも部屋でも誰かが傍にいてくれたから笑っていられた。だけど彼は毎日一人ぼっちの部屋に戻り、テレビの音やゲームの音で自分ではない誰かの声を聞いて耐えていたのだ。
「あ、見て見て。また死んだ」
「さすがに早すぎません?」
「ゲーム初心者にはハードルが高いソフトだったのかも」
「うーん。梶本先輩はこういうアクション系よりシミュレーションRPGとかの方があってるかも」
「シミュ?」
一度ソフトを終了させ、ダウンロード画面を映しながら説明した。
「難しい…」
年齢にそぐわない反応をされ、この人はゲーム自体が向いていないのだろうと思った。
無理にやる必要はないし、楽しくなかったら意味がないと言ったが、でも映像見てるだけでも綺麗だし、と子どもの言い訳のような反応をされた。
「じゃあ、癒し系とか」
ほら、これは猫と触れ合えるんですよと言うと、彼はぱっと表情を明るくした。
「バーチャルでも猫飼いたい」
「じゃあダウンロードしましょう」
やり方がわからないと言う彼の代わりに操作し、さっそくプレイし始めた横顔を見た。
「おお、猫だ」
くしゃっと笑う顔が可愛くて、バーチャルでも動物がいればきっともう寂しくないだろうと安堵する。
梶本先輩は黙々と猫と触れ合い続け、時折ぐすっと鼻を啜った。泣く場面などあっただろうかとぎょっとすると、猫が宝物をくれたと目頭を押さえた。
「よ、よかったですね」
「うん。大事な物なのに俺にくれたんだよ?もう、やばい、愛おしい…」
彼は一度コントローラーを置き、噛み締めるように息を吐いた。
「色んな子と仲良くならなきゃ」
意外な一面にくすくすと笑った。
「なに?」
「猫好きでしたっけ?」
「普通かな?でもいつかペット飼いたいなとは思うよ」
彼は寂しがり屋だ。人に踏み込みたくないくせに他人の気配を傍に置きたがる。そんな矛盾をペットなら抱えなくて済む。
「犬ですか、猫ですか」
「まずは金魚」
「金魚かあ…」
「あ、俺が魚飼っても食べないでね!?」
「食べませんよ!」
慌てて首を振ったが、梶本先輩は怪しいなあと笑った。
そもそも金魚は食べられるのだろうか。鯉がいけるのだから頑張れば…そこまで考えてなしなし、と首を振った。
「でもなんで金魚なんですか?」
「初心者は金魚から始めた方がいいって葵さんに言われて」
「…葵さん」
女性の名前に顔が強張った。
「あ、景吾は葵さん知らないよね。高杉茜のお兄ちゃん。東城のOBなんだ」
「…高杉、先輩のお兄さん…」
まさか男性だとは。そういえば高杉先輩の名前も男にしては珍しい。
「そうそう。顔そっくりだよ。性格は真逆だけど。獣医大学に行っててさ」
「そうなんですか…」
卒業してからもつきあいのある先輩がいたことに驚いた。
自分同様、繋がりがなくなったら学生時代の先輩や後輩は切り捨てるのだろうと勝手に思っていた。
その人とも関係を持ったのだろうか。邪推もいいところで、性格悪いなあと自分に呆れた。
僅かな沈黙の後、梶本先輩は慌てたようにこちらを見た。
「なにもないからね!?」
「え…あの…」
「葵さんつきあってる人いるし、俺、誰彼構わず手出してないからね!?」
必死な形相がおかしくて頷きながら笑った。
「…実はそういう関係なのかと思いました」
「勘弁してー。葵さんに殴られるからー」
「はは」
一しきり笑った後携帯で時間を確認した。そろそろ電車がなくなる。
携帯を鞄にしまって持ち上げた。
「終電なくなる前に帰りますね」
言うと、彼は目を丸くしてこちらを見上げた。
「泊まらないの?」
「…え、いや、でも…」
「明日学校休みだし、泊まると思ってた」
軽く目を見開いた。彼は泊まるのを嫌がる人だった。用が済んだらさっさと部屋から追い出されて、その度何度も傷ついて。
自分が知っている彼との差異に戸惑う。
「なにもしない。約束は守るよ」
懇願するような顔をされると断りずらい。
どうしよう。視線を泳がせ考えるとシャツを引かれた。
仔犬モードの瞳に胸が痛む。その顔で見られると弱いのだ。そうやって今まで数々の悪行を許してきた。うーん、と悩み、結局はい、と返事をした。
「…嬉しいな」
仔犬モード継続のまま、はにかむような顔をされ、この人は人の心を掴むのが本当に上手だなと感心する。これを計算ではなく素でやっているから怖ろしい。
先程まで座っていた場所に腰を下ろす。
「お風呂先入っていいよ。その間に歯ブラシとか買ってくるよ。服は俺のでいいでしょ?」
「いえ、俺自分で買いに行きます」
「…じゃあ一緒に行こうか」
先輩はコントローラーを机に置き、鞄から財布と鍵だけを取り出した。
自分も財布だけをズボンの尻ポケットに突っ込む。
近場のコンビニに入り、カゴを持った先輩はお菓子やジュースを放り込んだ。会計一緒にしようと言われ、後で払いますと断ってから歯ブラシと下着をお願いした。
コンビニ袋を持って帰る途中、なんか楽しいなと彼が言う。
「いつも来るコンビニだし、いつも通ってる道だけど、景吾が一緒だと楽しいね」
「…ありがとう、ございます…?」
「なんで疑問形なの」
「すいません。なんて答えていいかわからなくて」
時々、不意打ちで甘い菓子を口に放り込まれるように、好きなのだと言葉にされる。
戸惑うし、困惑するが、彼は自分の反応など気にした様子はなく、そう思えることを喜んでいるようだった。
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